曹魏フィルハーモニー管弦楽団 | ナノ

肩に背負われた黒檀色のチェロケース越し、後ろから見てもきっちりと整えられたことが窺える黒い髪、その持ち主の面持ちは、ひどく鋭く金属的な冷たさをも孕んでいる、楽器を携えていなければ、誰もその人物が楽器を自在に操れるなどと、よもや想像すらしないだろう。


「あー居た居た!于禁殿、于禁殿ー!」


于禁と呼ばれた人物はピタリと立ち止まり、進行方向から体の向きを変える、整えられた前髪が僅かに揺れた。


「夏侯淵殿、私に何か」


どたどたと音が聞こえそうな足取りで于禁に声をかけたのは夏侯淵、恰幅がよく、人懐っこい人相はまるで絵本から飛び出して来た熊のようだ。

その背にはおよそ似つかわしくない濃紺と淡い水色のラインが目を引く、長方形のヴァイオリンのケースが見え隠れ。

見た目で人を判断するのは意に反するものがあるが、夏侯淵の見た目からイメージ出来る楽器は概ねホルンかチューバ、明るく社交的で恰幅の良さから肺活量も相当なものだろう、と。

于禁自身、夏侯淵がヴァイオリン奏者であることを知るまで、そう思い込んでいた。山男のような風貌ではあるが、この男の響かせる音色はおおらかでどこか安心感に満ちて華やか、繊細さにはやや欠けるが。


「いやあよかったよかった、毎回ゲネプロが終わってから、いっつもすぐに居なくなっちまいますから探すのに苦労しますぜー」
「で、用件は」


人懐っこい表情の夏侯淵とは正反対に于禁は鋭い視線を投げかける。(彼は無駄話や世間話を極端に省きたがるきらいがあるのだ)和ましい雰囲気が途端に張り詰めるが、慣れたように夏侯淵が続けて口を開く。


「実は室内楽曲をメインに活動してみないかって話がありまして」
「ふむ、曹魏フィルは今回の定演を最後にしばらく活動休止ということもある……詳細を聞こう」
「大層なもんじゃないですが、曹魏フィル直轄っつー名目上の活動なんで安心してくださいよって!」


于禁、夏侯淵共に世界屈指の管弦楽団ひとつ、曹魏フィルハーモニー管弦楽団の一員であり、ソロでの活動やそれなりの実績を持つ、そして曹魏フィルが毎期行っている定期演奏会は毎度のことながら満席御礼、コンサートホールには立ち見希望やキャンセル待ちの聴客で溢れかえるほどである。

だが、常任指揮者と首席指揮者の間で諍いが起こり、しばらく活動休止という選択を余儀なくされたあのである、常任と首席は実の親子関係にあり、双方が音楽監督を兼任し、更にはスポンサーも兼ねているため、活動資金には全くと言っていいほど困らない。

問題となったのは、互いの互いに対する人気の差異へ嫉妬、常任指揮者であるのは父の曹操、力強く細かな取りこぼしを決してせず、独自の世界観を造りあげる、まさにマエストロと呼ぶに相応しい貫禄は古参のファンが多い。

対して首席指揮者は息子の曹丕、若くしていくつもの賞を総なめにしてきた類い稀なる天才、若さゆえのエネルギッシュで果敢に挑戦する姿は、端正でクールな容姿とのギャップがいいと、女性からの絶大な支持を誇る。

『なぜワシよりもお前の方が女子人気が高いのだ』

『父よ、あなたより技術面では劣るものの所詮世の中ルックスがものを言う、若さは私が圧倒的、それが現実というものです』

ことの発端は口喧嘩、この喧嘩のほとぼりが覚めるまでの間、活動休止となったのがその理由である、はたから見れば非常にくだらない、親子喧嘩で楽団を左右されてはたまったものではない。

活動休止を告げられた時の楽団員の表情は、今日がアルマゲドンだったか……!と蒼白そのもの、于禁らもその例に洩れずであった。

そんな中で、早速噂を聞きつけ他の交響楽団や管弦楽団からの勧誘が団員に届くのだが、曹魏フィルを去る者は誰一人として居ない、于禁を始め、自分は曹魏フィルの一員であるという自覚と誇りを持つものが多いためである。

更にソロ活動や曹魏フィル内で編成されたアンサンブルグループは、活動休止の間のみ資金を提供、バックアップすると指揮者親子が公言していたのだ。

于禁自身にもいくつかの勧誘があったのだが全て断り、ソロや小数編成の室内楽は苦手であるが、仕方なくその方面でと考えていた矢先のこと、夏侯淵から声が掛かった。


「こう言っちゃ失礼ですが、于禁殿はスパルタで有名じゃないっすか」
「音程の乱れは時に致命的な事故を招く、私がチェロの首席奏者を任されている限り他のチェロ奏者を統制するのは当然の義務だ」
「(毎回チェロパートは必ず完璧に仕上げてくるもんな……チューニングでもう既に鬼気迫るような表情だしよっぽどこえーんだろうな、于禁殿)ま、それでセッション組みたいってやつが結構多いんすけど、どうにもこうにも于禁殿に近寄り難いらしくて」


声が掛けられない連中に代わり夏侯淵が橋渡しとしてやって来たのだろうか、馴れ合いというと聞こえは悪いが、于禁自身楽団同士の休憩時間になされる雑談があまり得意ではない、むしろ避ける傾向にあった。

それも他の楽団員から、畏怖の対象として見られる傾向を助長する原因のひとつ。


「……つまり夏侯淵殿はどういう理由で私に声を掛けられたのか」
「これも言ったらだいぶ失礼ですけど、俺らも元々メインを四重奏でしばらくやっていこうってことで、人数は集まってたんですわ」


ヴァイオリン二挺、ヴィオラ、チェロ、基本的に四重奏と言えば弦楽の場合、この編成が常。聞いていれば夏侯淵はさも困ったとでも言いたげに眉尾を下げ、ため息までつきだした。


「ちっとばかし長くなるんで立ち話もなんですし、于禁殿さえ良ければそこの喫茶店に行きましょうや」
「構わん」


喫茶店へと移動し、煉瓦造りの店のレトロな扉、その向こうもまた風情のある色調で落ち着いた色彩の店内にはイタリアンローストだろうか、深くコクのありそうなコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。

カウンター席に掛け、慣れた様子で夏侯淵は深煎りのパプアニューギニア、于禁はトラジャをそれぞれストレートでオーダー、店主も手慣れた様子でコーヒー豆をミルで挽き始めた。


「で、さっきの話の続きですが、それぞれの楽器が集まったには集まったんすけど、チェロが辞退したいって泣ながら逃げ出しちまいまして」
「軟弱者であったのだろう、無論他にも団員は居るだろう」
「いやあ……それが、他に募集して迎え入れても、泣いて辞退を申し出るやつが後を絶たなくてですね」


夏侯淵の所属する室内楽団は、チェロ奏者が泣いて自ら辞退を申し出るほど過剰なまでの何か、例えば演奏技術を要求するのだろうか。原因はなんだと于禁が問えば、ほとんどがヴィオラ奏者との衝突だと言う。

ヴィオラ……一体誰だ?楽団員を一人一人思い浮かべるが、皆目見当も付かない、話を詳しく聞いていくうちにそのヴィオラ奏者はひどく腕利きと言う、ヴィオラで飛び抜けていい腕の者と言えば一人しか思い当たらない。

張遼かと聞けばしっかりと頷く夏侯淵、大して面識もない上に言葉も交わしたことがほとんどない、于禁の目から見て、張遼は堅く節義を守り調和を重んじる奏者という印象が強い。

あまり目立つ場のないヴィオラ奏者だが、ブラームスやドヴォルザークを演奏する機会があった時にはここぞ、とばかりに華やかな部分がある。


「なんつーか、音色にも技術に関しても注文が細かいっつーか、演奏解釈のなんたるかを自身でよく理解してから出直されよ、なんて言われちゃあプロとしてプライドも何もあったもんじゃないっすわ」
「……」
「張遼は自分が認めた相手以外には本っ当厳しいっつーか、風当たり強いっつーか」
「して、私であれば張遼も文句は言うまい、と」
「まあ、そんなとこです」


快く、とまでは言えないが仕方があるまい、于禁は腑に落ちない面持ちのままとりあえず室内楽団に参加することを決めた。心底安堵しきった表情を全面に押し出した夏侯淵は、早速スマートフォンを取り出すとメッセージを打ち出す。

送信完了から数分もしないうちに着信を知らせる画面と着信音。(メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の1楽章冒頭か、軽快で夏侯淵殿らしい、于禁は己の担当旋律を無意識に思い浮かべた)


「あーハイ惇兄?え、今?すぐに来いって于禁殿も?」


着信に応じた夏侯淵、通話の相手はヴァイオリンの首席奏者、夏侯惇のようだ。素っ頓狂な声色でしきりに疑問詞を並べる夏侯淵の様子から察するに、恐らくはまた張遼絡みなのだろう、于禁の参加に意を唱えているのか、さすがにそこまでは于禁も予測が付かない。

とにかく来いと言われたらしい夏侯淵は、申し訳なさそうに于禁を見る。参加に了承したからには顔合わせもしなければならない、于禁はカウンターの席を立つと結局一口も飲まなかったコーヒーの代金を置き、足早に店を出た。


「場所は」
「市民ホールに隣接してる汎用スタジオに居るみたいっすわ」


チェロケースを背負い直し、なるべく衝撃が加わらないよう配慮しながら小走りで目的の場所へ向かう、背後でひーひーバテている夏侯淵のことなど知ったことか、運動不足かと口にしかけたが、于禁は少し躊躇って言いかけた言葉を飲み込んだ。

目的地に着き、スタジオに入れば奥からは何やら言い合う声が聞こえる、そこには耳慣れないキーの高い声質、女性の声がするではないか、一旦は夏侯淵に視線を滑らせるが、于禁の視線の意味を汲んだ夏侯淵は肩を竦めて、俺にもさっぱり、そう言いたげにしていた。


「だから嫌ですってば!私は室内楽も、ましてやコンチェルトなんてむり!ソロ専門なので出来ません!」
「何を申されるか、一流ピアニストともあろう者がそんなわがままを言うものではありませんぞ!」
「連弾でさえ苦手なんです!それにソロでも十分食っていけるんで!」


中へと入れば押し問答、張遼と見知らぬ女性が言い争って、夏侯惇は疲れた様子で戦線離脱のようだ。途中参戦の于禁と夏侯淵に気付いた張遼は、丁度いいところに!とばかりに二人に手招き。

恨めしげに張遼を睨む女性はピアニストらしいのだが、ピアノコンチェルトやピアノを含めた室内楽曲以外ではオーケストラに、ピアノは例外を除き必要がない。


「彼女はなまえ、私が今までに聴いた誰よりも優れているピアニストですぞ、ぜひピアノを含めた室内楽曲をメインとして活躍を、と思いましてな」
「だから参加しませんてば!」


あちゃーと額に手を当てた夏侯淵に于禁が眉を顰める、こうなった張遼はしつこいぞ、気に入った演奏家を見つけるとこうだ。始めに室内楽団をと提案したのも張遼であると、夏侯淵は于禁に耳打ち。

音楽とは個人の好みや趣向によって評価に天地の差がある、張遼はなまえの演奏に感性を震わされたのだろうが、他のものが必ずそうなるとも限らない、于禁はしばし考え込むとなまえにひとつ提案をした。

多数決だ、全員が満場一致でなまえの演奏を素晴らしいと思えば室内楽でピアノを担当してもらう、弦楽器の中で誰か一人でも今ひとつだとすればなまえの参加は白紙。

この提案はなまえにとっても勝算がある、全員が全員なまえの演奏を褒め称える確率は限りなく低い、好みの問題だ、やたらとぐいぐいくる張遼という男に対して、提案者の于禁という男は落ち着き払った佇まい、きっと好みが違うはずである。


「……じゃあ、リムスキー・コルサコフの熊蜂の飛行をシフラの編曲版、それとブラームスのパガニーニの主題による変奏を要所掻い摘んで」


口を尖らせ、苦い表情のなまえはぽそりと呟く、スタジオの脇に鎮座しているグランドピアノへとのろのろ移動し、カバーを捲り蓋を開け、椅子の高さを調節する。

椅子に掛け、鍵盤に添えられた細くしなやかな指先はピアニストならでは。ぐっと前のめりになった体勢、プレストで入る複前打音に続いてスフォルツァンド指示の和音、オクターヴを押さえつつ下降していく音型は、ディミヌエンドしながらすぐに半音ずつ行き来を繰り返す。

とにかくパッセージのスピードが尋常ではない、残像が見えそうなほどの運指で外すことなく鍵盤を押さえていく。

演奏に集中したなまえを除き、4人は顔を見合わせる、張遼のドヤ顔にじわじわと腹立たしさが込み上げるが、これはお互いに思うところは皆同じ。

ノッてきたらしいなまえはゆらゆらと上体を振り、それはそれは楽しげに表情を緩ませる。

于禁は背負ったチェロケースのベルトを、無意識にきつく握りしめた。





※ありえない部分満載です、活動休止のところや室内楽団のくだりはだいぶ盛ってます全て文章上の演出です。
20140114
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