初めて得体の知れない恐怖に襲われた。
信じたくはない、しかし信じざるを得ない、煌々とルビーのように輝く緋色の瞳、普通の人よりも青白い肌、異常なまでに発達した身体能力、牙と呼ぶべき犬歯。
西洋文化としてしか認識していなかったそれ、弱点も数多く有るものだと思っていた。昔の人が創り出したお伽話、幽霊や怪奇現象の方がまだ現実味がある。
信じてはいない、そう、思っていた。
あれを……目の当たりにするまでは。
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幽霊も妖怪も科学的根拠のない非科学的なものは、生まれてこの方信じたことは一度もない。真冬に異色の特番としてテレビでやっていた心霊番組、超能力だの霊媒師だの全く以てくだらない。
そんな力が本当にあるのならばその力を使って幽霊でも宇宙人とでも交信して、景気回復を、ひん曲がったご時世を変えてみなさいよ。
高校卒業を控え、推薦で国立大学に合格していたために冬休みからずっと暇な毎日を過ごしていた私は、ぼんやりと内心テレビに向かって毒づいた。
高校は学生寮、大学はマンションで一人暮らしを予定。実家での生活はうんざりするほど荒んでいた、父も母も暗黙の了解とでもいうように不倫。
いわゆる仮面夫婦、さっさと離婚すればいいものを世間体を気にしているのか、互いに違う男女の香りを撒き散らしながらも、仲睦まじいおしどり夫婦としてご近所では専らの評判だった。(母は弁護士、父は医者だ)
そんな仮面夫婦に気付いたのは中学に入学して間もない頃、女の子なら誰でも色気づいてくる時期だし、男女のあれこれに敏感にもなってくる。すでに冷めきって壊れていた両親の夫婦関係に、もはや家族の絆などどこにも見当たらなかった。
計り知れない虚無に埋もれ、すぐに家を出る決意をした私は全寮制の高校へと進学を決める、案外すんなりと了承した両親に、私は彼らにとって枷であったことを同時に悟った。
その頃にはすでに両親との会話は数えるほどしか交わしていない、成人するまでに必要な学費、生活費は全て自分名義の通帳に振り込まれ、不自由はない。
大学はどうするのかと夜中にかけられた電話、なるべく実家から離れたところにある国立大学に進むことを淡々と告げれば満足そうに、マンションの手配は気にしなくてもいいと告げられた。
常に、独りきり。
支え合える兄弟も、頼れるほど親しい親族のいない私に嫌というほど知らしめられる孤独、唯一無二の親友といても拭い去ることのできない虚脱感。怒りと寂しさからくる涙はとうの昔に枯れ果てた、産みの親であり育ての親らしくない彼らに流してやる涙などもうありはしないのだ。
大学卒業と同時に地元からは住民票を移そう、就職もまだどうなるかわからないけれど実家には帰らない。両親もそれを望んでいるはず、自然と絶縁状態になれることを考えたら、これほど気が楽になることはないと思う。
春からは新しい生活が待っている、わたしは期待に胸躍らせながら、寮生活で残り数ヶ月となった部屋のベッドで静かに目を閉じた。
――四月、春
世界的に見てもトップクラスの国立大学に推薦で進学した私の周囲は、常に絶えることなく必ずひとりは誰かが居た。高校時代からは比べものにならない難易度の課題が出され、頭を抱えた人、エリートとして友人を選ぶ人。
それらに人のいい笑みを浮かべながら、腹の中では舌打ちを繰り返す私の内を知る人物は、大学内において一人だけしかいない。
「なまえ、おはよ」
「おはよー尚香」
世界有数の孫株式会社の令嬢である彼女、仲良くなったきっかけは彼女持ち前の明るさと、言い方は悪いが無遠慮さ。家族について根掘り葉掘り尋ねられ、始めのうちは嘘をついたりはぐらかしていたが、次第に突き通せなくなり、全て吐露。
今では毒づき合う最高の仲だ。
「入学してまだひと月も経たないうちから進路ガイダンスなんて、面倒ね」
「何それ厭味?卒業と同時に許婚との結婚が決まっててさあ、職業は嫁とかいうアンタにガイダンスは必要ありませんでしたね、そうでした」
「ちょっと、それについてはあたしだって不服なんだから!」
「……ふうん」
「何よその目ー!」
今日は放課後の時間帯に世界有数の会社から代表やら会長達が、わざわざ直々にガイダンスにやってくる。
それもそのはず、この大学には将来有望であろう脳みそや技術を秘めた人間がわんさか眠っているのだ。優秀な人材を探しに、向こう側の視察も兼ねているらしい。品定めでもされているかのようで私はあまり気に入らないが、生徒達の大半はよりいい企業の仲間入りをしたいがために、時折見かける企業の重役らへ、騒々しいまでの挨拶を繰り返す。
どちらにせよ、ご苦労様なこった。
「で、なまえの就職希望は?」
「さあ、まだ決めてないけど」
「嘘でしょ?全国模試からオール満点で入学早々の抜き打ち試験も楽々パスした類い稀なる超秀才のことだからてっきり」
「目的があって来たとでも思ってたの?」
あるわけないでしょ、私はただ両親と離れたかっただけで、ここに入学したのはたまたまなのだ。それに模試やら学力テストなんて、社会に出てから役に立つことなんて何一つない、実用できるのはコミュニケーション能力や、機転の効いた発想の転換。
「浪人してでもこの大学に来たい人がいるっていうのに、なまえこそ厭味?」
「さあ」
とりあえず、成人して全てを一人でやり繰りできるような額の給料をもらえる職を手にはしたい。死ぬほど忙しくても一向に構わないから、脳裏にちらつく両親の顔さえ浮かんでこなければそれでいい。
そんなことを考えながら、ここはひとつ、皆のように大企業の重役方にアピールしといた方がいいのだろうかと、ジョークのつもりで尚香に言えば、煩いだけで何の効果もないわよ、とばっさり切り返された。
さすが大企業のご令嬢様、自社の内定基準を把握しているのか言うことが違いますね。あっぱれ。
▼
大学の大聖堂で執り行われた超インテリ進路ガイダンス、とっぷりと日の暮れた大聖堂にぽつんとふたつの影が延びていた。
「なまえ起きて、終わったから帰りましょ」
尚香に揺り起こされ、突っ伏していた身体を起こす。どうやらガイダンスの最初から今まで爆睡だったようだ。
致し方ない、重役方の話があまりにもつまらないものだから、一言も覚えていない。空になった大聖堂では、早く帰ろう、と急かす尚香の声が反響する。
「どうだった?」
「何が?」
「重役方の話」
「全然」
役に立つことなんて何もない、聞けば会社側の利益のことや、表面上いいことばかりを取り纏めたものばかりだそうだ。こういう判断が出来るのも、大企業の令嬢である尚香だからこそ出来るもの。
遠感覚に佇む街灯の明かり、オレンジ色の光りは暖かな雰囲気を醸し出すも、四月とはいえ、日が沈むとかなり冷え込んでくる。
「じゃ、また明日」
「ばいばい」
スクランブル交差点で尚香は長い横断歩道を渡り、私は脇道を進む。マンションまで少し距離がある、小高い丘の上。思いの外冷たい風が吹きすさぶ、お腹も空いたし早く帰ろう。大通りから離れ、路地を進むと寂れた公園が見えてくる。
そこを突っ切ると近道になるのだ。
ふ、と吐いた息がほんのり白く染まり途端に闇の中へと薄れていく。
公園の入口、錆びた鉄柵を横目に入ろうとしたところで公園内に人影を見付けた。恐らくカップルであろう男女、公共の場で堂々といちゃつくな鬱陶しい。(別にやっかみじゃない)
内心毒づいて引き返そうとしたが、女の方がうちの大学の人だということに気が付いた、確か名前はサユリだったっけ。男好きで有名な。
身を潜めよくよく目を凝らして様子を窺うと、どうもおかしい。サユリの腕は力なくだらりと垂れ下がっていて、それを抱きとめる男の方は首筋に顔を埋めたまま。援交の気があったとは散々耳にしていたが、厄介なオヤジに捕まってやばい薬でも使われたのか。まさか、と嫌な予感が脳裏を過ぎった。サユリは微動だにしない、予感が確信に変わる瞬間を私は目の当たりにすることになる。
男が首筋から顔を上げ、聞こえはしなかったが小さく何かを呟いた。抱きとめるようにしてサユリを支えていた腕を解くと、彼女の身体が崩れ落ちる。
我が目を疑った。
音を立てて地に落ちるはずの身体が、いつまで経っても落ちない。
……いや、そうじゃなくて途中で砂が舞うように消え崩れたのだ。一瞬の出来事に呆然とした、有り得ない。人が砂のように消えるなんて。
砂のようになんてものじゃない、あたかも最初から砂で出来ていたとも思えるようなその光景に、ただならぬものすら感じた。非科学的なものは信じない、存在するはずがない、そんな考えが覆る。
たった今とんでもないものを目の当たりにした、男が何者かは知らないし、知りたくもない、早急に逃げよと全細胞が訴えかけてくる。
近道なんかするんじゃなかった。
体勢を低く数歩後ずさった後、男がまだこちらに気付いていないことを確認してから身を翻し、駆け出す。
「気付いていないとでもお思いか」
否、駆け出そうとした。
身を翻した目の前、公園の中に居たはずの男が立ちはだかっている、ぎりぎりまで目を離してはいなかった、振り返った一瞬のうちにどうやって音も立てずに目の前に来たのか。人間ができる所業じゃない。
今はそんなことを分析している場合ではないが、察するに私が一部始終事の成り行きを見ていたことを、気付いていたとでも言うような男の口ぶり。あんなに離れていたのに、人の気配など常人に察知出来るものか。
逃げなければ、そう思ってこそいるものの、そこに根でも張ったかのように足が動かない、竦んだのか立っているのがやっと。月のない今宵、街灯もほとんどないというのに男の肌はぼんやりと青白く、あろうことか煌々と瞳が紅い。瞳孔は開ききっていて、生きている人間とは思えなかった。
信じられるはずがない、発光塗料にカラーコンタクトだと何度も自分に言い聞かせ、竦み上がった足に鞭を打つ。やっとの思いで動いた後退りの一歩に、渾身の力を注いで踏み出すと同時にもう一度身を翻す。
周囲の風景がやけにスローモーションに見えて、ひどくもどかしい。
「私に背を向けるなど、愚かな」
耳元で囁かれた言葉に総毛立つ、その拍子にがくり、と全身の力が抜け、次の一歩が出ることなく前のめりに。
夜露で湿った地面に転がるかとおもいきや、そうはならなかった。男の片腕が腰に廻されて、ひんやりとしたもう片方の腕が延び、指先が首筋に触れる。いっそのこと、転がって土塗れになったところを嘲笑われた方がましだとさえ思った。
「は、離し……」
「最近の女というものは、若いというだけで恥じらいというものを知らぬようだ」
「……離し、て」
「執拗に媚び諂うものだから少々……頂いても文句は言うまいと、しかしこれがまた酷い味がした」
背後から抱き込まれるように腰に廻された腕と、未だ首筋をなぞる指先。時折軽く引っ掻くような動作に悪寒。
小さくだがささやかな抵抗と主張をする、しかし男は気に留める様子は微塵も見せず、訳のわからないことを愚痴のように淡々と話していく。
あの女は酷い味がした、クスリも煙草もやっていた、男も知っているようだ、明らかに処女ではない味がした。上っ面がどんなに優れていようとも、まずいものには用がない。
やれやれとひと句切り、わざとらしくついたため息が首筋に掛かる、私の心拍数が次第に上昇するのと同時に、男が嬉々とし始めていることに気が付いた。
「その点お前はとても……芳しい香りがする」
「……っ」
「変に勘繰らずあの場を早急に離れればよいものを、気付いたのならしかたあるまい、私にとっては好都合だがな」
見なくともわかる、男がにやりと笑ったのが。そしてその口には鋭利過ぎる犬歯が覗いていることも。
紛うことない、彼は、吸血鬼。
ふいに世界かぐらりと揺れて意識が遠退いた。
▼
「申し遅れたが私は張遼、察する通り現代を生きる吸血鬼の末裔」
「……」
額にのるひんやりした手とふかふかしたベッドの感触、そして知らない香り。降り掛かる声にはっとして起き上がれば見たことのない部屋の中。
どうやら意識を失っていて、勝手に連れてこられたようだ。
「なまえは知らぬと思うが、昨日の進路ガイダンスに私もいたのだ」
「なんで、名前……」
吸血鬼だから読心術まで出来るのかと思えば、そうではないらしい。ガイダンスの説明に来た企業側には学生の名簿が渡っているのだとか、とんだ個人情報の流出だ。
「昨日校内で見かけてからずっと目を付けていた」
昨日、ということは意識を失ってからすでに夜が明けて翌日になったんだとわかる。認めたくない、この張遼とかいう男が吸血鬼だとか、そんな奴の近くで夜を越したことだとか。
恐らくここが吸血鬼の住まいだということも、全て否定してやりたい。第一わたしを生かす理由は何なんだ、人間ではないことを知られて都合が悪いのは向こう側だろう。
つい口が滑り、わたしが誰かにこの男が吸血鬼だとばらしてしまうかもしれ……いや、それはない。口が滑る前にこの場所から出してもらえない限り、叶わないことだ。
全ての意味を含め、何故と呟けばさも当たり前のように、美味しそうだからと返される。幸いなことに、まだ噛み付かれてはいないらしい。
「一応言っておく、私が吸血鬼などと触れ回ったところで意味はない」
「……あ」
そうだ、今時吸血鬼なんてものの存在を一体だれが信じるというのだ、何よりわたしがそのクチだったじゃないか。
……いや、でも待てよ?ここから出られないとしても、どうにかして助けを求めて仮に脱出出来たとしよう。考えなさいなまえ、これは立派な誘拐でしょう。
そうだ誘拐だ!誘拐犯として警察に駆け込めば即御用、並びに監禁とくればもう間違いない。
勝った、とばかりに相手を指差して誘拐犯呼ばわりしたが、さして気にしたふうもなく、余裕の表れなのか唇が弧を描いている。
「訂正させてもらおう、監禁ではなく軟禁だと、まぁ拘束もしていないし閉じ込めているつもりもないから、どちらとも言えんな」
急に気を失うから放っておくわけにもいかず、単に休ませてやっただけのこと、出て行きたいのなら勝手に行けばいい。
そう言う彼に拍子抜けしたが、口元に浮かべた笑みがどうも引っ掛かる、思い出せばセクハラ紛いな件もある、警察に訴えればそれなりに対処はされるはずだ。
にも関わらずこの余裕は何?
「下手したら会社クビになるかもしれないのに?」
「だから言ってるだろう、好きにすればいい」
笑みを浮かべていただけだったが、何がそんなにおかしいのか、遂には声に出して笑い出す。わたしにはそれがとんでもなく腹立たしかった。
……そうか、そういうことか。きっとそうに違いない。
「わたしを逃がすと見せ掛けて息の根を!」
「それは有り得んな」
未だ寝かせられていたベッドから逃げ出せない、本音を言えば竦んで動けない私に、まさかまさかと首を振る。吸血鬼とかいう非常識な存在のくせに、意外にもちゃっかり常識はあるんだ。
ふ、と心の中で安堵のため息をつく。
「ようやっと見付けたご馳走、手を付けずに息の根を止めるなどそんな勿体のないことはしない」
「ご、ごちそ!?」
しかしそんな安堵感を感じたのもつかの間、やっぱり吸血鬼は吸血鬼でしかなかった。どうしよう、今更ながら危機感に苛まれる。
彼が浮かべた薄い笑みと、わざとらしい舌なめずり。その際に見え隠れした犬歯が忘れてた恐怖を思い出させる。
一瞬たりとも逸らされることのない目は煌々と紅く……あれ?紅くない(焦げ茶色だ!)瞳孔も開ききってない、昨日の時点で如何に人間と掛け離れているかを示唆していたものは何ひとつない!
やっぱり見間違えたんだろうか……全く腑に落ちない、めまぐるしく変化する状況に混乱していると、あいつは昨日の晩のようにまた、音もなく目の前に迫っていた。
肩を押され、柔らかいベッドに沈む。やんわりと押されたはずなのに、何故かとてつもない力が働きでもしたかのようだ。
「逃げたいのなら、とは言ったがどうもまずい血液を体内に取り込むと如何せん、いい血液が恋しくなる」
「……っ」
「悪いが我々にとって、人間の記憶操作など容易この上ないのでな」
警察に行こうが周囲に触れ回ろうが、なんの支障もない。大きく笑った口元には立派な犬歯が惜しみなく晒され、異様な雰囲気に身を硬くする。
「力を抜かれよ」
布団の上から覆いかぶさり両腕も固定され、首筋に降りてきた長い舌が血管を瞬時に探し当てると、勿体つけるように周辺を這い回る。
しばらく行ったり来たりを繰り返した舌が一点に留まり、次の瞬間むず痒さを伴う小さな痛みと圧迫感。
そして身体の奥底から意識を持っていかれているような、感じたことのない感覚にぞくぞくと背中を走るもの。
これが血を吸われるということなのか、と思う間にも、瞬く間に身体の自由がきかなくなる。体中全ての機能が停止するんじゃないか、そんな不安に苛まれかけた頃、ごくりと私の血を嚥下する音が聞こえた。
「我々の唾液には治癒効果があるから傷は残らない、安心されよ」
「体、動かな……しん、ど」
「あぁ、申し訳ない、味見のつもりがつい」
「ちょ……なに、それ」
「ふむ、やはり手放すのには惜しいな」
ぐったりしたわたしから顔を上げ、上等なワインを飲んだ余韻にでも浸るかのように、口の端に付いた血を舐め取る。
その姿が異常な妖艶さを醸し出し、今になって彼がとても整った容姿をしていることに気が付いた。
「輸血パックで事足りるが、さすがにあればかりではいつ気が触れるか」
「……?」
「よしなまえ、ひとつ選ばれよ」
監禁 or 軟禁 ?
(ふざけるな!と怒鳴りかけて視界がぶれるのと同時に意識暗転)
20140117
20190211修正
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