暗から明へ | ナノ


気合いを入れたのいいものの、厩へと来てみて落胆せずにはいられなかった。

「ひ、広……!」

何メートル?あ、いや何十メートル?端っこまでの距離のこの長さに馬の数、侮っていた。途中で出会った今日の掃除当番らしき3人に代わると言ったはいいものの。一人で大丈夫なのかと聞かれ、胸を張って大丈夫だと答えたさっきの自分がものすごく恨めしい。

正直全然大丈夫じゃなかった。

「あ、でも期日は言われてないし……」

しかしあの司馬懿さんの性格ならば、今日中に決まってるだろう馬鹿めが!とか言い出すに違いない。丸一日掛かったとしても、やらなきゃまた後でぐちぐちと嫌味を言われるに決まってる。

雑巾と木のバケツを持ち直し、中へと足を進めた。ずらりと並ぶ馬達は不思議そうにこちらを向いたり、気にも留めず枯れ草をはんでいるものもいたりと様々。

「餌あげに来たわけじゃなくて掃除しに来ただけだから」

ぶるる、と黒い毛並みの馬が首を振ってつぶらな瞳で見つめてくる。熊手で辺りに飛び散った枯れ草をかき集め始めて視線を逸らしても、馬はまだ見つめてくる。構ってほしいのか、なんて馬にも可愛いとこがあるじゃないかと不用意に近付いたのがいけなかった。

首を延ばして来たから頭を撫でてあげようとしたところでがぶり。

「ぎゃあああ!」

馬に頭を噛み付かれた。

なんて力だこの馬、わたしの頭を食べ物の勘違いしているのか。

いや、違う。

やっとの思いで馬から逃れ、辺りを見回せばせっかくかき集めた枯れ草は無残にも飛び散っている。馬から逃れるために無我夢中でじたばたしたせいだ。馬は完全にわたしを馬鹿にしている、あの見下した視線にぶるる、と鳴らした鼻はざまあみろとでも言っているかのよう。

「ち、ちくしょうお前!」

熊手を構えて臨戦体制を取るが馬に万が一のことがあってみろ、今度こそ間違いなく司馬懿さんに殺される。馬にもそれがわかっているのか、出来るものならやってみろよと視線が物を言う。

どうしようもなくなったわたしは悔しいが、この馬の周辺だけ後回しにしてまずはおとなしくしている馬のところを綺麗にすることにした。

「別に負けたなんて思ってないからね!」

素晴らしく負け犬らしい捨て台詞を馬相手に残し、熊手を握り直す。がしがしと雑巾で壁や床をこすり続け、木のバケツに入れた水が汚くなれば井戸まで行き、組み替える。

汲み上げ式の井戸というか、井戸そのものを生まれてこの方一度も使ったことがない。慣れない作業に悪戦苦闘しながらも、何度か繰り返すうちにコツは掴んだ。

それにしても、今にも雪が降るんじゃないかというくらいに外は寒い。

手はすでに真っ赤になり、感覚はほとんどないに近い。ほぼ一日を費やし日没間近まで頑張ってきた成果もあり、見違えるほど綺麗になった厩に思わず寒さも忘れ、自然に笑みが零れた。

「よし!これなら誰も文句言わないよね……っとその前に」

喜ぶのはまだ早い、まだ一ヶ所だけやり残した場所があることを思い出す。

例のなんとも腹の立つ馬の周囲だ。

素人のわたしが見てもつやつやした毛並みはため息が出るほど美しい、それに均整がとれがっしりとした体躯はまさに名馬。そろそろと近付いて様子を伺えば幸いにも眠ったようで、わたしはすぐさま熊手で枯れ草をかき集め、馬が目を覚ます前にと猛スピードで床と壁を磨く。

頼むから起きないで、心の中で何度も呟いた。噛まれた時の痛みは未だ鮮明に残っている、もちろん馬に噛まれたのも生まれて初めて。こんな惨劇二度とごめんだ。

一生懸命、床を這いつくばり極寒の中防寒対策なしで必死こいて掃除する人間なんてそうそういないだろう。その頑張りをまるで全て否定されているかのごとく、人生とは無情である。

ごり、と嫌な音が頭から聞こえた。

「いぎあああ!」

掃除終わり!と立ち上がろうとした時、虚しくも例の惨劇は繰り返された。相当頭のいい馬なのか、奴は寝たふりをしていただけだったらしい。狸寝入りならぬ馬寝入りか!ふざけてる!

油断していたわたしの頭に再び噛み付きやがった、痛みはさっきの比じゃない。

「離せバカ馬ぎゃあああいだだだ!」
「おい!大丈夫か!」
「お助けををを!」

草食動物のくせに人の肉を喰らうか、この悪魔の化身め!草食のくせに草食のくせに!尚も頭蓋骨にめり込む馬の歯。

夢中で助けを求めると、誰かの声がして馬の背を撫でながら、どうどうと宥めてくれているようだ。

「お前も落ち着け、な?」

パニックになったわたしを見て馬は更に興奮して余計に暴れてしまう、そう言われ少しの間我慢すると不思議なことにすんなりと離された。恐る恐る見上げれば、馬は今だわたしを見下したままだがもう噛み付いてくる様子はなさそうだ。

「お前ほんとに大丈夫か?」
「し、死ぬかと!」

「馬に噛まれた人間なんて初めて見たぞ」
「わたしも初めてですよこんな経験……」

全く嫌な初めてだ……半グロッキー状態のまま厩から助け出されずるずるとその場にへたり込む、そうしてしばらく地面を見つめた後はた、と気付く。

わたしは一体誰と話をしているんだ。

顔を上げれば苦笑しながら傍らにしゃがみ込み、こちらを覗き込む人、一見失礼な言い草ではあるが熊みたいな。森のくまさんみたいなイメージのアレね。決して悪い印象ではない、どちらかと言えば気さくで人柄のよさそうな感じ。

「あ!あれか、お前さん張遼ンとこの女官だろ?」
「そう、ですけど」
「えぇと……なまえ!そうそうなまえだ」
「え、どうして名前を?」
「そりゃあお前、有名だぞ?あの張遼が殿の命令といえ女官を付けたんだからな」

熊のような人はわたしを知っているようだ、有名って一体どういうことなのか首を傾げると彼は心底驚いたように続けた。

「知らねえのか?張遼はなぁ、まだこの地に来て日は浅いんだがすげー奴でよ、戦の度にとんでもねえ戦果を上げててな」

敵からは恐れられ、味方からは絶大な信頼と期待を持つ将。今や自軍の大半を思うままに指揮出来る実力者なのだそうだ。ただ、戦果を上げる度にもらえる褒美などには一切手を付けず、身の回りの世話をする女官や世話役をも身辺に置かせては居なかった。

そんな大将軍に取り入り自ら仕官し、どうにか気に入られ、その恩賞に肖ろうという不逞の輩がしばらく後を絶たなかったらしいが全てを断り、この地に来て初めて付いたのがこのわたしだと言う。

それはもう周りは大変な騒ぎようだったらしいが、如何せんわたしは今の今まで厩の掃除に徹していたのだから、知る由もない。(どこの馬の骨かとまことしやかに云々)

「なまえのことを妬む奴もいるだろうが、負けんなよ?厩を一人でこんなに綺麗にしたんだ、お前は悪い奴じゃねえ」
「いやぁ、そんな………ってわたし妬まれるんですか!?」
「そりゃあ天下の大将軍さまになんのツテもなしに仕官出来たんだ、しかも素性も知れない奴が」
「え、えぇとわたし、その……」

素性、と言われ思わず口ごもる、初めてこの場所に来た日に曹操さんと約束をしていたのだ。決して、あの謁見の場にいた曹操さん、夏侯惇さん、張遼さん以外にわたしが違う世界から来たことを話してはいけない、と。

しかし察してくれたのか、俺はお前の味方だからなんも気にすんな、と笑いながら言ってくれた。

「……にしても根性あるなあ」
「はい?」
「だいたい男3人掛かり3日掛けてやっと綺麗にする厩を一人でとは……さすがの俺もたまげた」

そんななまえの根性を見抜いたから殿はお前を張遼の傍に置かせたんだな、彼は一人で納得しながら頷くと、わたしの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。

「っといけね、自己紹介が遅れたな俺は夏侯淵、字は妙才」
「改めましてなまえです……えと」
「様付けはいらねーよ、殿が特別に好きなように呼べって言ったんだろ?」

にかっ、と歯を見せて笑う夏侯淵さん(って呼ばせてもらうことにした)は言いにくいことは言わなくていいし、俺には遠慮もなんもいらねーから。

よろしくな、と心からの歓迎をしてくれた。あの恐ろしくタチの悪い馬から助けてくれたことも含め嬉しくて、思わず零れた涙。一粒、また一粒。溢れたらもう止まらない、勢いに任せ嗚咽が漏れる。

「夏侯淵さ……っ」
「おいおいそんな泣くこたねーだろ」
「だって……」
「ほら、まあ辛いことも多いかもしんねーけどよ、気楽に行こうや」

ずず、と鼻を啜り何度も頷きながら夏侯淵さんを見上げた。吹きすさぶ冷たい風に負けない芯から温かくなれるような笑顔を向けられ、なんだか今ならなんでも出来そうな気がしてきた。

もう決して泣くものか、そう固く誓い今自分に出来ることに全てを懸けようと思う。この世界に来たのはすでに決定付けられた偶然(だとわたしは勝手に解釈した)もはや帰れる術を探すよりここでどう生き抜くかを考えた方が得策だ。

もう何があっても驚かない。

気合いを入れると夏侯淵さんはその意気だとガッツポーズ。そこで、まずは頑張るための第一歩として張遼さんのことについて少しだけ聞いてみることにした。

「なんつーか、これは俺の勝手な見解なんだが思うに、あいつ……張遼は一線引いてんだよな」
「一線、ですか?」
「新しい環境ってのもあるかもしんねーけどよ、最低限必要以外のことは無関心だし、煩わしいと思ってる節がある」
「人間不信……とか」
「そこまではいかねーとは思うがな」

自分で出来ることは自分でする、生活リズムを狂わされたくない人なのだろうか。潔癖のような典型的A型みたい。ペースを崩されると怒る人。(血液型でそんな風に括るのは間違いだろうけど)

確かにあの人がわたしを見る目は果てしなく遠く、何も見ていなかった。すぐにでも解雇されないのは曹操さんが命令として、解雇を禁じたのだとついでに説明すると夏侯淵さんは眉を潜める。

「自分から解雇できねーとなると……ん?そういやなんでなまえは厩なんか掃除してんだ?」
「それはですね、張遼さんの書簡を司馬懿さんのところに持っていったら、わたし間違えてまだ終えてない書簡持ってったらしくて」
「なるほどな、司馬懿に大目玉喰らったわけか」
「半分くらい殺されかけましたもん」

司馬懿さんすぐに怒るから、膨れっ面をしてみせ自分で言ったことに、はた、と気付く。掃除を終えたことを早く司馬懿さんに報告しに行かなくては。結局はどやされる、夏侯淵さんに深々と礼をしてから掃除用具をまとめ、城内へと戻る。

「負けんなよ」
「はいっ!」

うまく笑えたかどうかはわからないけれど、今一番いい笑顔をして見せ大きく手を振った。


20100109
20131207修正

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