暗から明へ | ナノ


「何、を……」

なまえに袖口を宛てがえば、同時にびくりと肩が跳ね、更に触れた場所が瞬間的に痛んだらしく反射的に頬が引き攣った。意味がわからない、といった表情のまま呆然とするなまえ。さすがに目の前で頭から血を流されては放っておくわけにもいくまい。

宛てがった袖口に赤が染み込む。

私の袖口を視界に捉えたのか、呆然とした様子からひどく狼狽し始めた、恐らく本人は流血していることに気付いていなかったのだろう。余程強く噛まれたのだ、本来草食であるはずの馬だが、どうも私の馬は私以外の者にとことん敵意を剥き出しにする癖がある。

始めこそ何事かと思ったが、あの子馬が私を厩に連れて来なければなまえは最悪死んでいたかもしれない。それこそ始めのうちは死んでも構わん、目の前から消え去ってくれと常々思い願っていたわけなのだが、さすがに自身の愛馬が原因で……となると話は別。

そんな理由もあるのだが、どういうわけか死なせてはいけないような気が一瞬といえどしたものだから、無意識のうちに馬の興奮を抑えていた。

相当な力で噛まれたのだろう、痛みを堪えていたらしい、表情は硬く、いつもの苛立つほどのへらへらした笑みはどこにもない。痛みと怒りに耐え、さらには泣きそうにも見えるような何とも形容のし難い表情のまま。

「すまぬ」
「……」

自分でも驚いた。言葉が勝手に口をついて出てきたのだから。それ以上になまえは、不可解なものでも見たかのような表情を作り上げて呆然としている。

「な、あ……っ!そ、袖が汚れます!」

すぐにはっと我に返ったらしく慌てて私の腕を押し返し、何を血迷ったのか手にしている汚れた雑巾で自らを拭おうとする。

「お前は馬鹿なのか」

そんな汚いものを傷口に宛てて悪い病気にでも掛かったらどうするつもりなのだ、すぐさま押し返された腕を更に押し返し、雑巾を奪うと投げ捨てた。全く世話が焼ける。

女官のくせに私に世話をさせて……如何なものかと思うのだが、今はそれを言っている場合ではない。そのままなまえの腕を掴み、厩を後にして部屋へと急ぎ足で向かう。

「ちょ、張遼さん!どこに……わたし司馬懿さんのところに行かないと」
「後でいい」
「でも……」
「毎度うんざりするほど何かに付けて私のところに来るくせに」

私が来いと言った時には来ぬのか。こうして自分でも信じ難いほどことごとくなまえの言葉を遮り、早く手当てをしてやらなければと思っていることに驚きを隠せない。何故……?

怪我や病気に掛かったとしても、誰かに看てもらうというのが生来嫌で、薬も包帯も部屋に一通りのものは取り揃えてある。自分でやるとはいえ怪我の治療は面倒、動けなくなるほどの怪我を負えばしばらくの間鍛練もなにも出来たものではない。

言ってしまえば怪我をすること自体が面倒なのだ、だから怪我を負う暇がなくなるほどに強くなると、いつの日にか決めた。(勿論強くなることの理由はそれだけではないが)

「いってー!痛い痛い痛いいたたたた!」
「少しは我慢を……」
「や、違っ……目!薬が垂れて目に入ってま……しみるしみるしみる!」
「あぁ、すまんつい」
「つい!?わざとですか!」

そのお陰か戦に出ても無傷で帰還することもあったりと、怪我の数もめっきり減った。自分の怪我の手当てが面倒だと思うくらいなのだから、他人の手当てなどしたことあるはずもない。考えなしになまえの手当てをしてやろうとしたはいいが、実際自分を看るのと他人を看るのとでは大分違う。

水を含ませた布で傷口を拭き(力加減もどうしたらいいものか)液体の薬を染み込ませた布を傷口に宛がったのだが、些か染み込ませた量が多過ぎた。傷口から垂れた薬が目に入ったらしい。

「なんだこれ!ツーンて……おおお!」
(ふむ、おもしろい)

部屋に戻り、大袈裟なまでに暴れようとするなまえを押さえ付け、しばし我慢されよと今度こそわざと布に多めの薬を浸し、宛てがう。先程は本当にたまたまだった、だが今度はわざとやってみる、奇声を上げ反応する様がおもしろい。

(おもしろい……が)

全くもって滑稽だ。このくだらないやり取りが妙におかしかった、何故私が?あれほど鬱陶しかったというのに。幸いにも傷は浅い。もう血も止まっている。

「あまり暴れてくれるな」
「あ、あ、暴れたくて暴れてるわけじゃなくてですね!」
「傷口広げたいのか」
「それはいや……ぎゃああ!」

少し強めに傷口を拭えば血は止まっているものの、痛みまで止んでいるわけではない。馬に噛まれて出来た傷だ、青痣も出来ているであろうし、不用意に押さえ付けられたりすればそれなりに、痛いだろう。ただ反応がやたらと面白かった。

と、いうか馬に蹴られて怪我をした奴は幾度となく目にしたが、頭を噛まれて怪我した奴を見たのは初めてだ。

「張遼さんわざとやってますよね!」
「いや、まさか」
「すごく楽しんでますよね!」
「いや、全然」
「恍惚とした表情してますけど!」
「いや、元よりこんな顔だが」
「嘘付けぎゃああいだだだだ!」

何故だろうか。
そんなもの決まっている。これは私の女官だからだ。

今日は随分と気分がいい、後で殿の元へと参らねばなるまい。司馬懿殿の八つ当たり癖のせいで、なまえが馬に噛まれた。私の馬の気性が荒いことを司馬懿殿も知っていたはず。だから司馬懿殿には少し反省して頂かねばならぬ、なまえには私も随分と辛く当たってきた。

かといえ償い、というつもりは微塵もなくただ、女官というのもまあまあ悪くはない。
そう思った。
単純に思っただけなのだ。
ああ、今日は本当に気分がいい。


20100808
20131212修正

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