「何……あれ……」 絶句する一同の心中を代弁して、呆然と麻衣が呟きを洩らす。 闇の中から現れたのは、一言で例えるならまさしく異形。 体は蜘蛛、尾は蛇。 だが顔は能面のように白い無表情の女性。 一同がいる場所は電気も付けていないのに、周囲が見渡せるくらいの明るさだが、廊下の奥はまるで闇に包まれているように何も見えない。 それなのに、なぜか現れた異形の姿だけは鮮明だった。 「機材がないのが惜しいな」 淡々と、けれど好奇心に満ちた口調でナルは言う。 恐怖も感じられず、ただ心の底からの言葉にリンや麻衣が咎めるように視線を向けるが、ナルは気にしない。 対して法生達が唖然としていると、異形が細い前足を一歩踏み出した。 続いて更に一歩、もう一歩とゆっくりと近付いてくる。 異形の歩みに合わせて一同も後退り、リンとジョンが前に、その後ろに綾子が出て法生達を庇う。 「わっ……」 後ろ向きに歩いていたため躓いたのか、小さく誰かが悲鳴を洩らした。 悲鳴につられ、前方を固めていたリン達は、一瞬だがついそちらへ意識を向けてしまう。 それがいけなかった。 異形は一瞬の隙を突き、先程とは比べ物にならないスピードで突進してきたのだ。 リンが指笛で式を放ち、ジョンが聖水を撒き、綾子が九字を切るが間に合わない。 異形はリン達三人を見向きもせず、力を持たない無防備な聖へと鋭い刃と化している、針金のような細い前足を振り上げた。 思わず悲鳴を上げる真砂子や麻衣に構わず、前足は振り下ろされる、が。 「っ聖!!」 一番近くにいた未渡が駆け寄り、聖の体を突き飛ばした。 突然の衝撃に聖は何歩か歩いたところで尻餅を付き、同時につい先程まで聖がいた場所へ前足が完全に振り下ろされた。 「く……ッ!」 顔を顰め呻き声を上げ、未渡が左肩を押さえて蹲る。 左肩からは鮮血が溢れ、押さえた指の間から止めどなく流れ出る。 「み、と?」 「よかった……聖」 放心している聖へ痛みに耐えながらも笑みを作ると、未渡の姿は一瞬にして、消えた。 「み……と……?」 呆然と名前を呼ぶが、返事はない。 それでようやく何が起こったのか理解できた聖は、目を見開いて体を震わせる。 異形は今度こそ座り込んで動かない聖へ標準を定め、反対の前足を振り上げる。 それにいち早く気付いた藤哉が叫ぶが、聖が気付いた時にはもう遅かった。 異形は未渡の血が付着した前足で、聖の腕を切り裂いた。 聖は堪えきれない痛みで体を縮こませ、涙で廊下の床を黒く染める。 「聖!!」 慌てて駆け寄ってきて膝をついた藤哉を聖は顔を上げて見上げ、小さく大丈夫、と告げて姿を消した。 「聖……」 「藤哉、逃げるぞ」 思い詰めた声で名前を呼ぶ藤哉の腕を法生が引っ張る。 藤哉も抵抗せず、ただ一拍空けて頷くと立ち上がって法生と共に駆け出した。 その後ろをナル達は走り、更にそれを異形が追ってくる。 近付かれるたびに何度も攻撃をしているのだが、異形は数瞬怯むだけですぐにまた追ってくるので、いずれ異形に捕まるのは目に見えている。 「きゃっ」 大分後方で悲鳴が上がったことに足を止めて振り返ると、真砂子が着物の裾に足を取られ転んでいた。 起き上がろうとするも、すぐ背後には異形が迫っていて逃げ切るのは難しい。 「原さん!!」 安原は顔色を変えて咄嗟に駆け寄ろうとしたが、彼より早く真砂子に走り寄った人物がいた。 「智羽!?」 隣にいた彼女がいつの間にかいなくなっていることに今更気付いた速水が驚いて声を上げる。 「大丈夫?」 「ええ……」 真砂子の腕と腰を支えて立ち上がらせながら智羽が問うと、真砂子は小さく頷く。 それを確認して、真砂子のスピードに合わせながら二人は走り出した。 けれども異形との距離は離れるどころか縮まる一方だ。 速水は傍観しているだけなのは堪えきれなくなって、智羽と真砂子へ駆け寄る。 安原もその後をすぐさま追い掛けて、智羽とは反対側から真砂子を支える。 半ば引き摺られるように真砂子は走りながら、背筋に冷たいものが走った。 驚いて肩越しに振り返り、大きく目を見開く。 「すぐ後ろにいますわ!!」 「な……っ」 真砂子の叫びに全員が振り返れば、彼女らのすぐ真後ろまで異形が迫っていた。 異形は後ろ足を動かして歩みを続けながら、器用に前足だけを高く持ち上げる。 前足の真下にいるのは智羽で、真砂子は叫んで警告する。 しかしそれよりも、前足が振り下ろされるのが早かった。 「智羽!!」 法生と速水の呼び掛けが重なり、次いで小さく智羽が悲鳴を上げた。 直後、前足が振り下ろされる。 鋭い刃を受けたのは新夜ではなく、速水。 「速水!?」 突然突き飛ばされ、数歩前でたたらを踏んだ智羽が愕然とした。 智羽の代わりに刃を受けた速水は背中を袈裟懸けに切られ、大量の血を流している。 痛みに顔を顰め、荒い息のなか速水の無事を確認すると表情を緩めた。 「智羽……良かった、無事で」 心の底から安堵の表情を浮かべ、嬉しそうに微笑む。 そして速水も、消えた。 「う、そ……」 ほんのつい少し前まで速水がいた場所を見つめ、智羽は硬直して動かない。 その彼女の肩を法生が叩くと、智羽ははっとして隣にいる法生へ目を向ける。 「速水はきっと大丈夫だ。俺達は早く逃げよう」 「ああ……うん」 頷いてから、智羽は駆け出し、真砂子も安原に手を引かれながら走る。 法生は後ろを意識しつつも智羽と並んで走り続けた。 「こっちだ!」 一階と三階へ繋がる階段とは反対に、ナルは東館へ繋がる廊下へ駆ける。 全員がその廊下に行くと思いきや、なぜか智羽と藤哉が足を止めた。 その様子を視界に入れた法生も少し先に行ったところで足を止めて、怪訝げに声を掛ける。 「智羽、藤哉!何してんだよ!?」 法生の声に先を行っていたナル達も走るのを止めて立ち止まり、三人を振り返った。 「何してるの!早く来なさい!!」 「危ないから、早く!!」 「あなた方も消えてしまいますわよ!?」 女性陣三人が必死で叫ぶが、智羽と藤哉は聞こえていないかのように返事をしない。 「どういうつもりだ?」 対して固いが落ち着いた法生の声音には反応し、二人揃って振り向く。 驚いたことに、異形がすぐそこまで迫ってきているというのに、二人は笑みを浮かべていた。 「俺達はここでお別れだ」 「あたし達が食い止めてる間に、法生は逃げてな」 何でもないかのように軽い口調で二人は言う。 今の状況からしたら信じがたい言動に後方の女性陣達は何度も叫ぶ。 しかし法生は比例して冷静に問い掛けた。 「……必ず、生きて帰ってくるな?」 「ああ、約束する。大丈夫、破らないよ」 「絶対に生きて帰るさ。まだやり残したことが山程あるしな」 明るく笑ってみせた二人に法生は何拍か間を空け、首肯した。 「わかった」 くるりと背を向け、前方の麻衣達に合流する。 「走って」 「でも……っ」 「いいから走れ!」 躊躇う麻衣の腕を引き、無理矢理走り出せば男性陣も綾子と真砂子を連れ、法生の後に続く。 異形の気配を遥か後方で感じたが、それ以降、一度も後ろを振り返ることなく、一行は東館へ進入した。 「ねえ!二人とも、消えちゃうよ!いいの!?」 「いいから黙って走れ」 「よくないよ!友達でしょう!?」 叫びながら麻衣が唐突に足を止め、掴まれていた法生の手を振り払う。 法生もつられて立ち止まって、しかし麻衣を見ようとはしない。 「友達なら、戻って助けてあげようよ!!二人が消えちゃってもいいの!?」 「よくないに決まってんだろ!!」 麻衣の発言に間髪入れず、法生は俯いたまま怒鳴った。 突然の叫びに麻衣は驚いて、反射的に口を噤む。 「よくないけど……っ、あいつらは自分を犠牲にしてまで、俺を逃がしてくれたんだ。なのに、のこのこ戻るなんてできない」 それに、と法生は続ける。 「約束……必ず、生きて帰ってくるって約束した。だからあいつらは今は消えても、これが終わればちゃんと帰ってくる」 そう、法生は俯けていた顔を上げる。 その表情に後悔や恐怖、悲しみといった負の感情はない。 法生は麻衣を見据え、しっかりとした声音で言い放つ。 「だから俺が、原因突き止めて、こんなふざけたこと終わらせてやる」 護られてるだけなんて、絶対にごめんだ。 そう強く輝く瞳に、全員が息を呑んだ。 仲間が消えた事実にショックは受けているだろう。 だが彼は、ほんの少しも自身の強さを失ってはいない。 麻衣達を見据えるのは、気高いほどに強い輝きを宿した琥珀色の瞳。 その琥珀は、麻衣達が知っている彼と同じもので。 ああ、とリンは目を伏せる。 (やはり、この少年は彼なのだ) 彼はいつだってそうだった。 けして諦めず、けして折れない気高い強さを瞳に宿して、それでも柔らかく微笑む。 それは恋人であるリンにも変わらず、蕩けるように微笑んでいるのに瞳は気高い強さを宿したまま。 その様子が堪らなく愛しくて、だからリンは彼の笑顔が好きなのだ。 リンは目を開き、法生へ問う。 「何か当てはあるんですか?」 「ああ。桜が俺に伝えようとしてたこともわかったし、今からそこに行く」 「桜……あの女性の霊ですね。何と言っていたのです?」 法生はリンを見上げ、右手の人差し指を立てて言った。 「『鏡』」 「鏡?鏡とは、どういうことだ?」 すぐさまナルが問い返し、法生は今度は立てた人差し指で二階へ繋がる階段を示す。 「前にじいちゃんから聞いたことがある。何か困ったことがあったら、東館の二階の一番奥の教室にある鏡に頼れって。桜もその鏡のことを言ったんだと思う。学校の守護だから」 そう言って、法生は身を翻して二階への階段を上り始めた。 ナルとリンも後に続き、麻衣達は置いていかれまいと慌てて三人を追い掛ける。 二階に上りきると、迷わず一番奥の教室へと足を進める。 奥の教室は音楽室で、一段高くなっているステージの上にグランドピアノがあった。 鏡はどこかと探すと、窓際の壁に掛けてあるのを見付けた。 「あれだ」 音楽室の中に入り、法生が鏡へ真っ直ぐ向かう。 止める暇を与えず、す、と指を鏡面に触れさせた瞬間。 「っ!!」 鏡が光り輝いて、音楽室どころか廊下にまで光が溢れてくる。 反射的に目を閉じ、片手で目を覆っても光が強すぎて目蓋越しに目を焼いた。 光は波が引くように輝きを失い、やがて元の鏡へと戻る。 光がなくなったのを感じて一同が目を明けると、そこには新たに人口が増えていた。 |