「誰……?」 いきなりの登場に法生が呆然として呟く。 鏡の前にいたのは、まるで平安時代の衣裳のような白い狩衣姿に、漆黒の髪に黒曜の瞳をした少年。 年齢としては十五、六歳くらいだろうか。 法生と同じくらいの年代に見える。 だが、少年が人でないことは明白だ。 まずもって一番に言えるのは、宙に浮いていること。 それを見れば誰でも少年が人間でないことくらいわかる。 「こんにちは、そんでもって初めまして。何かお困り?」 軽い口調で、にぱと笑う少年に一同の気が一気に抜ける。 あまりの軽さに本当に頼れるのかと、全員の胸に一瞬疑問が過ったが、鏡にしか当てがないので仕方がない。 「あんた、鏡の神だよな?」 「神様は神様だけど、付喪神だよ?学校をまるごと護れるくらいの力はあるけど」 そう言いながら、少年はくるりと片足を軸に宙で一回転する。 その際に狩衣の袖がばさりと音を立てて揺れた。 「君の仲間、消えちゃったんだね」 「……ああ。どうやったら、あいつらは戻ってくる?」 「この怪異が終われば」 「終わらせるには?」 「大元……つまり、あの蜘蛛だか蛇だか女だかわからない妖怪を消さなきゃ、この怪異は終わらない」 くるりと今度は反対に少年は身を翻して一回転する。 そして音もなく片足を床に付け、唇を歪めて笑みを象った。 「僕の領域で好き勝手するなんて許さない。お仕置き、しなきゃね」 くすくすと笑う少年は、顔は笑っていても目はまったく笑っておらず、冷え冷えとしている。 しかし少年は心底楽しみだというように無邪気に笑う。 一同はその笑顔に、背中に氷解のように冷たいものが落ちたのを感じた。 少年は不意に笑みを深めると、音楽室の入り口を示す。 「――来るよ、化け物が」 そう言った途端、かさかさと何かが床を這う音がし始めた。 それは段々近付いてきて、入り口側にいた女性陣が更に中の方へ身を寄せる。 「きゃ……っ」 扉の開いた入り口から見えた物に、真砂子が両手で口元を覆った。 侵入しようと針金のような足だけを見せているのは、智羽達五人を消した化け物だ。 体の大きさのせいで音楽室に入ってこれず、入り口でもがく。 何度も繰り返しているとようやく屈めば入るという考えに辿り着いたらしく、化け物は身を屈めて音楽室に侵入してきた。 だが、目の前に立ってている少年を目にするとピタリと動きを止めてしまった。 「やあ、僕の領域で好き勝手してくれてありがとう」 静止している、むしろ怯えて後退っている化け物に少年は首を傾げた。 「どうしたの?そんなに怯えて。何か僕が怒るようなことしたの?」 足音もさせず、笑顔のままの少年は化け物に歩み寄りながら言葉を重ねていく。 「ああ、そう言えばそこにいる生徒の仲間襲ったんだって?ここにいるのを許した時、この学校の生徒に手を出すなって、僕はちゃんと言ったよね?」 手を伸ばせば化け物と触れ合える距離で足を止めた少年は、今の今まで浮かべていた笑みを引っ込めた。 無表情になった少年は、それでも冷え冷えとした瞳の輝きはなくなるどころか冷たさを増している。 「まだ化け物同士で喰い合うなら可愛いものを……掟を破ったんだ、それなりの罰は受けてもらう」 少年は化け物の顔に向かって手を伸ばし、強く拳を握ると化け物は呆気なく消滅した。 すると止まっていた時計の長針が何回か回転し、短針が九時を示すと再び動き出す。 「これでもう終わったよ。消えた仲間も、戻ってきた」 「最初からあんたが出てきてやればよかったのに」 舌打ちしそうな勢いで法生が毒吐く。 それを聞き、少年は先程とは打って変わって無邪気に微笑むと、一瞬で法生の前に降り立った。 驚く法生の頬を両手で包み込み、口を開く。 「名前は?」 「は?」 「な、ま、え!何て言うの?」 まるで幼い子供が初めて友達を作る時にでも言うような態度だ。 子供扱いされたことに法生はむっとしつつも、自分の名前を返す。 「滝川……ああ、煌瀧寺の。法生ね、わかった」 「あんたの名前は?」 一応神様なのだが、法生は態度も口調もまったく崩さず少年に問うた。 少年はわずかに首を傾け、「ないよ」と即答する。 「ない?」 「だってさ、普通はただの付喪神に名前なんて付けないでしょう?名前呼ばれた覚えもないし」 「ふうん……」 「法生が付けてくれるって言うなら、別だけど?」 「俺が!?」 瞠目して素っ頓狂な声を上げた法生に少年は悪戯っぽく笑い、「駄目?」とねだる。 法生は眉を寄せて少し考え込むと、溜め息を吐いて首肯した。 「わかった」 「本当に!?」 「ああ」 喜ぶ少年に法生は苦笑する。 直後、鏡が光った。 少年が現れた時のように輝き、強い光が音楽室を目映く照らす。 反射的に閉じた目蓋を強すぎる光が焼いたかと思えば、七人の意識は一瞬で遠退いた。 沈んでいた意識が浮上し、七人は目を開く。 身を起こすと動いたままの機材や、カップと割れた鏡が乗った長机があり、戻ってきたのだと安堵する。 しかし、滝川の姿が見えないことに会議室内を見回せば、からからと少々間抜けな音を立てて扉が開いた。 一斉に目を向けるとポットを持った滝川がいた。 滝川は全員から注目されたことに戸惑い、思わずポットを両手で抱える。 「え、何?俺、何かした?」 「いえ……どこに行ってらしたんです?」 いち早く立ち上がったリンが入り口に立ったままの滝川へ歩み寄る。 さりげなく彼の腰に片腕を回し、滝川の腕の中にあるポットを見下ろす。 「お湯、なくなりかけてたから入れてきたんだ」 「ぼーさん、いつ起きたの?」 リンの腕から抜け出した滝川はポットを机に置いて、「ずっと前に」と麻衣の問いに答える。 「鏡が光って、ほんの数分くらいかな。意識が飛んでたんだけど目が覚めて。なのにお前らは起こしても起きないし。だから護符を多めに作って、お前らに持たせて一人で待ってたんだよ」 「なぜ、ぼーさんだけが」 「さあなー」 軽い口調で返答しながら、滝川は麻衣にお茶をねだる。 すかさず便乗してナルや綾子、真砂子も希望し、麻衣は苦笑しながらもお茶の準備をしに会議室の奥へと向かった。 その途中で、麻衣は視界の隅にきらりと光る物を見つけた。 近付いて手に取ると、自分の顔が映る。 わざわざ確かめずとも、何かわかりきったそれに麻衣は大きく目を見開いた。 「ぼーさんっ!あった、あったよ!!」 「へ?」 間抜けな声を上げた滝川に麻衣はお茶を淹れるのも忘れ、何かの破片らしき物を持って駆け寄ってきた。 怪我をしないように気を付けながら差し出されたそれに、滝川は目を見開く。 「これ……」 「何でかあったよ!ていうか落ちてた!」 何で?と連呼する麻衣に構わず、滝川は破片を受け取るとそれを鏡へ嵌め込む。 一つ分だけ空いた隙間に、その破片は違和感なく嵌まった。 瞬間、鏡が輝いたかと思うと次の瞬間には鏡の上空に一人の少年がいた。 平安時代を思わせるような白い狩衣姿に、漆黒の髪に黒曜の瞳の少年。 それは過去で、七人が見た怪異を治めた憑喪神だ。 少年は視線を下げて無表情に滝川を見つめる。 滝川も目を逸らさず少年を見返し、暫し二人は見つめ合う。 十分ほど経った頃、先に視線を逸らしたのは少年だった。 「……ずるいよ、今頃会いに来るなんて」 「……ああ、わかってる。今まで会いに来れなくて、悪かった」 申し訳なさそうに目を伏せる滝川に、少年は緩く首を横に振る。 「僕もね、法生が忙しくて会いに来れないことくらい理解してたんだよ。でも、納得はできなかった。ずっと、何で法生は会いに来てくれないんだろうって思ってた。頭で理解してるのに、心では納得できなかったんだ」 だから、すごく寂しかった。 悲痛な面持ちで話す少年に滝川が顔を俯けてしまう。 握った左手の上から右手を重ね、拳が強く握られる。 「それに本体の鏡が割れたことが重なって、暴走しちゃったんだ。もうこの鏡も寿命だしね」 自分の真下にある、破片を集め形だけでも元に戻した鏡を見やり、浅く溜め息を吐いた。 そうして滝川の目の前に降り立ち、にこりと笑う。 「怒ってるわけじゃないんだよ。ただ、寂しかっただけ。でももう、こうして会ってくれたから良いよ」 自分より二十センチも背の高い滝川を見上げて、俯けている顔へ手を伸ばした。 柔らかく両手で白い頬を包み込む。 「だからもう、自分を責めなくていいよ」 泣いている幼い子供を宥めるような、優しく囁く声音。 少年の言葉に滝川はゆっくりと目を見開く。 次いで目を伏せ、眉宇を寄せて頬を包む少年の手に自分の両手を重ねる。 「……悪かった」 「うん」 「もう、約束は破らない」 「うん」 「ちゃんと魂流しの日にはお前に会いに来る」 「……うん」 今にも泣きそうな表情の滝川に対し、少年は場違いなほど穏やかな笑顔だ。 滝川は少年の様子に安堵したように表情を緩ませる。 少年も穏やかな笑みを無邪気なものへと変え、滝川の頬から両手を離した。 「名前、呼んでよ」 「名前?」 「まさか忘れたとか言わないよね?」 笑顔で口調だけを厳しくする少年に滝川は苦笑し、忘れてないと首を振る。 そしてふわりと微笑んで、自らが付けた名前を呼んだ。 「――――マコト」 少年は、この上なく嬉しそうに笑みを深めた。 |