夕食を摂り待機をしていると、日が変わる少し前に滝川が仮眠から出てきた。 入れ替わりで麻衣と、当分は待機ということで安原も仮眠へ向かった。 就寝用に宛がわれた部屋はベースの真下、控え室。 講師が泊まり込む用に畳が敷かれ、簡易的な台所とユニットバスもある宿直室のような作りだ。 隣にもう一部屋ありそれぞれ男女に分かれて使用する。 安原とおやすみを言い合って中へ。 寝るために身支度をして、ふと、窓に目がいった。 カーテンが引かれていない窓の外は夜の濃い闇が覆っていて、室内の明かりの反射で鏡のようになっている。 窓に映るのは自身の姿と室内だけ。 よくホラー映画などである窓越しに人影が映ったりというのはない。 というより、そうそうあってもらっても困る。 麻衣もちらりと見やっただけでカーテンを引こうとして、留まる。 ベースとして使用している会議室は三階、つまり控え室があるのは二階だ。 正門に面した棟であるため、ちょうど玄関までの桜並木が見える位置である。 桜、と言うと思い当たるのはやはり一人で。 「……霧薙くん、大丈夫かな」 調査が始まってから彼がひたすらに気がかりで、実際会ってみない限りは無事かどうかもわからない。 会おうにも彼がどの学部かどの講義を取っているかすらも知らないのだ。 大学側に訊けば教えてはくれるのだろうけれど。 もし彼が麻衣達に会いたくないのならと考えると、やはり会いにくくはある。 月明りで微かに見える桜並木から目を逸らして、麻衣はカーテンを閉めた。 気付くと闇の中に体が浮かんでいた。 周囲には建物があり、ネガを反転したように白いはずの部分が黒く染まっている。 いつもの夢なのだと理解して建物を見回す。 前にあった調査では鬼火が至るところに存在していたが、今回はまったくといっていなかった。 まったくだ、浮遊霊さえも一つとしていない。 大学とはいえ、「学校」という括りに入る場所にこんなにも霊がいないものなのだろうか。 単純に麻衣に波長が合っていないだけなのかもしれないけれど、奇妙に胸がざわつく。 「ジーン」 呼べばどこからともなく現れる、所長にそっくりな姿。 彼はナルよりはずっと柔らかく笑う。 「ここ……なにもいないの?」 「いないわけじゃないよ。強いものがいるから、隠れているだけ」 「強い……?」 そう、とジーンは頷く。 「前にもあったけど、ええと、安原さんの学校だったと思う。ああいう感じかな」 「喰い合ってるってこと?」 「そこまで酷くないかな。一番強いのは他の霊に関心を示さない。でも弱いものは強いものを恐れて潜んでる」 「どこかに逃げればいいのに。地縛霊とか?」 地縛霊ならばそこに囚われているのだ、逃げられず隠れるだけなのも頷ける。 だがジーンはこれには首を横に振った。 「逃げられない。強いものがいる限り。……強いものがいなくなってもきっと、無理かな」 「それって」 どういうことだと詰めようとして、麻衣は言葉を続けられなかった。 落ちていたはずの意識は一気に浮上して覚醒する。 目蓋を押し上げて開いた視界、見慣れない天井に一瞬戸惑い、それが控え室だと思い出す。 充電器に差された携帯を確認すれば就寝して十分と経っていない。 夢のことは朝一でナルに話そうと決めて、再び眠りに就いた。 ことんと、控え室の扉の前で微かに物音がしたが、麻衣には聞こえることはなかった。 一限目から講義のため、だるそうにやってきた友人は、珍しくかなり嫌そうな顔をした。 そういう顔をしたくなる理由もよくわかる。 瑞焔自身もあまりここにいたくない。 「なんかやな気配するー」 「一応訊くが、ここか?」 「大学中。場所特定できなーい」 「……本格的に動き出したか」 呟くような、確信を持った言葉に友人は頷く。 「みたい。霊能者来て活発化してるんじゃないの」 「普通逆だろ。……ま、早いとこ解決できるならいいんだが」 「どうかな。できるといいねー」 「できない時はそれまでだ。信用はしてるが」 あの数日間のことは一年少々経った今でもよく覚えている。 所長もさることながら周囲のメンバーが本物ばかりで有能という、奇跡ともいえる確率だった。 気に入らないことも多少ながらあったし家の事情もあって結果的に振り回すことになってしまったが、割り合い楽しかったのも事実。 拠点とする会議室に行けば確実に会えるし、同じ学部にいるのだからうろうろしていてもいずれは会うだろう。 彼らに会いにくいとか会いたくないわけではないけれど。 かといって、積極的に会いたいわけでもない。 (話すこととかないしな……あえて言うなら霧薙の現状報告?) 依頼解決直後ならともかく、一年も経った今する義務もない。 そもそも向こうだって依頼のフォローをする程度で、解決してからは基本的に関わり合いは持たない。 依頼人に必要以上に干渉しないのが仕事を終えてからのルールだ。 ある程度の報告は高校卒業後に手紙に書いたつもりなので、瑞焔としては現時点で話すことはそうないのだ。 調査が入った昨日は月曜日なので本日は火曜日、一限目が友人と同じ講義の日だ。 講義室へ辿り着くと室内は常になくざわついていた。 「んー?」 友人が身を屈めながら出入り口から室内を覗く。 世間一般より遥かに高い身長の友人に前に出られると、少々低めの瑞焔には見ることはできない。 それでも隙間や声から伺うことはできるので、また蛍光菅でも割れたのかと嘆息した。 「おい、雪。邪魔だ」 講義の時間も迫っている。 せめて片付けくらいはしておいた方が後々楽だろう。 そう思って声をかけたのだが、友人は生返事のまま中に入ろうとも退こうともしない。 「雪?」 不審に思い再度呼び、次いで鳴り響いた轟音に反射的に肩が揺れた。 硝子のようなものが割れる高い音と男女の驚愕に恐怖が混ざった悲鳴。 隙間から見える室内が若干暗くなる。 様子からして割れたのは恐らく蛍光菅だ。 いっせいにということはあっても短時間に連続で割れることはこれまでなかった。 (どう……なってる) やはり強まっている、のか。 「――――雪、退け」 「だめ。できない」 「じゃあ退かなくてもいい。様子は」 「……割れたのは蛍光菅だよ。でもその前に、黒板が抉れてた」 「…………黒板?」 うん、と頷く友人に瑞焔は眉を寄せた。 講義室に来た時のざわめきは黒板が原因だったということか。 それにしても、黒板。 備品が壊れていることは何度もあったが、黒板は初めてだ。 規模が大きいものはいつも窓か蛍光菅が割れるか、体育館の電灯が落ちるかだけ。 しかも抉れている状態も今までなかった。 今までなかったことが起こり始めている。 きっかけは調査が入ったことでは、ないだろう。 昨日来たばかりで慎重な所長のこと、除霊すらしていないはずだ。 外部の人間という理由も出入りが多いここでは成立しない。 瑞焔が感じた悪意、敵意。 霊ならば瑞焔がわかるはずだ、精霊も同じく。 ならばそれ以外のものとなると人間か、もしくは神にあたるものか。 瑞焔には敬愛する神がいる。 唯一の神の巫女は自分だ。 ただ彼の神は、元は樹精に属し樹精から神格化したパターンになる。 その場合ならば瑞焔はどの神でも察することはできる。 では、他の神に属するものを察せられるか。 否、と首を横に振る。 あくまでも瑞焔の神は樹だ。 樹に宿るか媒介にしていない限りは把握することは、難しい。 そうすると対象は他の神か、それとも。 「人間……?」 友人に届く前に、呟いた言葉は悲鳴と音を聞きつけてやってきた大人達にかき消された。 起きてベースに行ってみれば、朝から男性陣はモニターに張り付いていた。 ナルやリンは珍しいことでもないが、そこに滝川と安原も加わっている。 何か起きたのだろうかと比較的近くにいた安原の袖を引く。 「ああ、おはようございます」 「おはよう。どしたの?」 「どうというか……さっき一階の講義室に生徒が入っていったのはいいんですが、なんかざわついてて」 どうしたのかなって見てたんです、と続けた安原はモニターを示す。 彼の言葉通り画面には講義室出入り口で溜まっている生徒がいて、マイクからは困惑した声が聞こえてくる。 「ちょっと様子見てくるか」 「僕も行こう。リンはここで待機。安原さんと麻衣は一緒にきてくれ。ついでにテープを替える」 そうナルが替えのテープを数本手に立ち上がったところで、マイクが高い破裂音を捉えた。 驚愕して、モニターを確認する前に男女入り混じった悲鳴が流れ。 すぐさま、ナル達はベースを飛び出した。 講義室に辿り着いてみれば黒板が抉れて、室内の蛍光菅が一部割れていた。 幸い割れた蛍光菅の下には誰もいなかったようだが隅の方だけ少し暗い。 廊下には避難してきたであろう生徒が溜まり、割れた蛍光菅とは反対側にもまだ室内に数人いる。 「何があった?」 入り口付近で固まっている女子数人を見付け、滝川が問う。 怯えた表情の彼女達は見知らぬ滝川への警戒心よりも恐怖が勝っているようで、優しい声音に若干の安堵を見せた。 「最初……来た時にはもう黒板があんな風になってて」 そう指差す先には二枚の上下スクロール型の黒板があった。 上下どちらにもある黒板は二枚とも中央を中心に深く抉れていて、全体に細かい亀裂が入っている。 「また変なことが起こってるのかなって、みんなで話してたらいきなり蛍光菅が割れて」 「もうなんなのこれ……なんでこんなことが起こってるのよ……!」 「今年からなんだよね。四月に入ってから、急に」 口々に発する彼女達に呼応するように周囲にいた生徒達も不満を呟き始める。 まともに講義も受けられず、いつ怪異が起こるかびくびくしながら大学生活を過ごさなければならない。 本来楽しいはずのここはストレスの場となっているにも等しい。 (できるだけ早く解決してあげたいのに) 不安と恐怖がないまぜになった表情の生徒達を見ていると、いつかの学校のことを思い出す。 何度か調査で学校にも行ったがどこの生徒達もこうだった。 心底怯えている子もいれば強がってそれを隠している子もいる。 あまり苦にしていない子もいたけれど、多くの生徒は不安を溜め込んでいた。 もっと自分に力があればよかったのかもしれないが、麻衣にはこの事件を一人で解決できる力量はない。 自分の力でできることをするしかないのだ。 割れた蛍光菅の破片を片付け、黒板をどうするか話し合っている講師達を見やって、ふ、と息を吐く。 他に何か手がかりがないかと目線を巡らせたところで、視界の端で鮮やかな赤が揺れた。 絹のように柔らかそうな細い髪が歩む彼のスピードで流れ、残滓さえ残さず人目だけを惹いて流れる。 見知った後姿に驚いて咄嗟に声を上げた。 |