ざあっと風が吹き付ける。
絹糸のような緋色が揺れて、彼は鬱陶しそうに紫水晶の瞳を眇める。
季節は春、風は真冬の冷たさ。
カーディガンの隙間から突き刺さるような冷風が吹き込む。
あまりの冷たさにぞわりと、肌が粟立った。
勢いよく振り返ると視界の先には桜並木。
霧薙の御神木は桜だが、大学内の桜には中身がない。
つまり存在するはずの樹精はおらず、肌が粟立つような原因はそこにはない。

(……どこだ)

気配を探ろうとするがなかなか見つからない上、風がだんだん強くなってきている。
背筋に冷や汗が流れてどくどくと鼓動が強くなる。
瑞焔は、巫女ではあるが退魔の術はほとんど持たない。
護符だけでは自らを護りきることはできない。
逃げろと、脳内が警鐘を鳴らす。
瑞焔の視界の中には視えない何かがどこかにいる。
危険なものが、自分に害なすものがすぐ近くにいる。
逃げなければ、今すぐに。
そう思うのに体が縫い付けられたように動かない。
心臓は早鐘を打ったまま、胃の辺りが竦んだかと思えば、くらりと視界が揺れた。
そのまま徐々に横転していくのを頭だけが冷静に転倒を理解する。
体がコンクリートの地面に叩き付けられる寸前、しっかりとした腕に抱き止められた。
膝と首の裏に腕を差し入れられ横抱きにされる。

「瑞、大丈夫ー?」
「……ああ……雪……か……」

友人の顔を見た途端力が抜けた。
どっと滅多にかくことのない汗が噴出して、指先が氷のように冷たい。
安堵した瞬間に全身に廻る倦怠感と気持ち悪さにどれだけ緊張していたのかと苦笑した。
恐怖、ではなかった、あの感覚は。
貧血にも似たあれは、得体の知れないものに出遭った時の違和感と異物感。
加えて悪意のあるものから発せられる瘴気。
護符があったからこれだけですんだが、なければもっと酷いことになっていたのは確実だ。
倒れるだけではすまなかっただろう。

「何かいたねー。気にあてられた?」
「……らしいな。きもちわるい」
「わー、重症だね……」

地面、下手をしたら自分の身長より高い位置で揺られながら瑞焔は息を吐く。
軽々と持ち上げてくれた友人は、やはり平然と学舎に向かって歩いている。
一定に揺れる振動と高い体温がどこか心地好くて、回る視界を無視して目蓋を伏せた。
今回は巻き込まれない気だったのに。



春になって日が長くなってきたとはいえ、やはり夏と違い六時には暗くなり始める。
昼間は陽光で多少暖かいものの夜は肌寒くなるため、麻衣は荷物から薄手の上着を引っ張り出した。
機材はすべて設置ずみ、今夜は泊まり込んで経過を見なければならない。
夕飯はもちろん自炊で、給湯室を少々借りて簡単に料理する。
機材設置で培った筋力ゆえに保温機能に優れたポットと五人分の軽食を運ぶくらいは楽勝だ。
しかし今回は安原が一緒にいるため、どちらかというと重いポットを持ってくれている。
いつもは滝川が付いてきてくれるのが、彼は早々に仮眠中だ。
スタジオに缶詰でろくに睡眠も食事も摂れていないそうで、ナルが効率を考え、リンが強制的に仮眠に入らせた。
何もなければ日付が変わる頃安原と交代し、その前に麻衣も仮眠に行く予定である。

「霧薙くん、結局会わなかったね」
「この大学も広いからね。そもそも学部が違うだけでめったに会わないなんてざらですし」
「巻き込まれてないといいけど……」

桜牧の件は彼が主軸にいた。
だが今回はそうではない、彼は無関係でむしろ巻き込まれる側にいる。
だからこそ心配なのだ。
きっと巻き込まれたら彼は回避できないから。

「あれ」
「どうかした?」

窓の外へ顔を向ける安原に気になって問えば、学舎の反対側の廊下を示される。
麻衣達がいるのは校門から見て正面、南棟。
反対側の北棟は器楽室や実験室、研究室などが並ぶ特殊棟だ。
サークル用の部屋もあちらにあって南棟と同じく学生の出入りは頻繁にある。
しかし現時間は午後七時、残っている学生はほとんどいない。
少数の学生が残るなか、一際目立つ姿。

「あ、あの子って、カメラ設置するときにぶつかった」
「うん。あの髪に背丈だからねえ、目立つ目立つ」
「リンさんより高いってすごいよね。あたし初めて見た」
「どうやったらあんなに伸びるのか不思議ですね」

そういう安原も平均より高めなのだが。
少々癖のある銀髪を揺らしながら彼は一切の迷いもなく真っ直ぐ歩いていく。
この時間まで残っているということはサークルに所属しているのか、個人的な用事か。
学生数の多いこの大学といえど、あの外見ではさぞ目立つだろう。
注目してくださいと言わんばかりの髪と目、人並み外れすぎた長身。
そういえば霧薙くんは背が低めだったな、と安原は思い出す。
出会った時は綾子と同じくらいの身長だったが、あれから伸びているのかは疑問だ。
元々体が強くないというので体格も華奢で、かと言って細すぎもせず。
全体的な筋肉量は一般の男子高校生よりも少なめ、女子高校生とようやく同じくらいだろう。
肌の白さと片目の眼帯も相まってひどく儚げに見える子だ。
銀髪の彼は一直線に、二人とは反対側へ廊下を突っ切っていって、やがて姿が見えなくなる。

「荷物持ってなかったみたいだけど、まだ帰らないのかな」
「サークルかな。それにしてはちょっと遅いけど」
「何か帰れない事情とか?」

うーんと二人して首を傾げても答えは出ない。
偶然ぶつかっただけの相手だ、麻衣も安原も彼のことは何も知らない。

「ご飯冷めないうちに早く行きましょうか」

そうだね、と頷いてベースへと歩みを進める。



研究室、サークル活動用の部屋が並ぶ特殊棟と言えどもほとんどの部屋の明かりは消えている。
二階の暗い廊下を突っ切って、こちらもやはり明かりはほぼない南棟へと。
階段を下り一階、玄関の近くにある保健室。
室内のカーテンは閉め切られてはいるがベッドだけは全開だった。

「瑞」

三つほどあるベッドの手前、横たわる華奢な体がぴくりと動く。

「だいじょーぶ?まだ気持ち悪い?」
「…………だいぶ、楽になった」

寝転がったまま億劫そうに寝返りを打って、自分を運んだ友人を見やる。
蛍光灯に照らされるきらきらとした白銀の髪が少し眩しくて、目を細める。
自分よりずっと体格のいい友人がここまで運んできたわけだが、かなりあっさり抱き上げられたことに少々凹んだのは秘密だ。
友人に回収された直後に意識を失った瑞焔が休んでいる間、彼は用をすませてきたようだ。
気だるげに起き上がる瑞焔の背を支え、枕をクッションにもたれかけさせる。
はいこれ、と温かい缶のお茶を差し出せば彼は緩慢に受け取る。

「瑞、護符は?」
「ある。持ってて、こうだ」
「ありゃ。じゃあ相当強いんだね、あれ」

呑気そうに友人は言い放つ。
霧薙の護符を持っていても、瑞焔への影響力が強いのか、それとも単純に向こうが強力なのか防ぎきれないどころか気絶してしまうほどだ。
それをさも軽く強いと片付けてしまう友人の緩さに呆れると同時に、気が抜ける。
こういういい加減に緩いところに瑞焔は救われているのだ。
直接友人に伝えたことはないけれど。

「んー、瑞が狙いつけられたってことでいいのかな」
「さあな。俺がたまたま居合わせただけかも」
「とりあえず、当分は講義以外一緒に行動した方がいいね」
「……そうだな」

護符があっても倒れてしまうのなら護る術を持つ友人と一緒にいるべきなのだろう。
保健室に引きこもっていた高校時代と違い、順風満帆なキャンパスライフを送るはずだったのに。

 
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