冷えた空気に身が竦む。
やはり冬の朝の空気は冷えているが澄んでいて、自然と身が引き締まる。
まだ息が白くなるほどではないが朝早くは本当に寒い。
部員達が冬の朝練は避けたいと言うのが少しわかるものの、冬の朝が好きな自分にとってはこの時季の朝練は気分が良い。
生徒用玄関から体育館まで向かい、向かい側にある武道館の更衣室へ。
武道館は剣道部や柔道部、空手部が活動する場だ。
着替えをすませると武道館に入る。
部活開始時間より早いのでまだ誰もいない。
踏み慣れた畳の感触に息を吐いて、瞠目した。

「おや、どうした。お前がこんなところにいるなんて」

艶やかな長い赤髪に、片目は隠れているが紫水晶のような切れ長の目を持った幼馴染み。
普段のように気だるげだが、彼がここに来ることなど滅多にない。
ましてや、こんな朝早くに。
そこまで考えて、疑問が浮上してきた。
おかしい。
朝が苦手な彼が、ここにいるなんて。
用があれば電話かメールですませるのに。
どうして、彼がここにいる。

「お前……誰だ」

竹刀を構え、警戒しながらもいつでも動けるように全体に気を配る。
彼でないのなら最近起きている怪現象だろう。
なら自分が勝てるとは思えない。
自分にはそういう力はないし、実体がないのなら剣道はきっと効かない。
だが、丸腰より精神的にましだ。
何よりも彼から貰ったお守りがある。
きゅと胸元を握って感触を確かめる。
常に身に付けろという言葉通り、そこにはきちんとある。
彼の姿をしたそれは、ふらりとこちらに近付いてきた。
そこでまた疑問が生まれる。
まったくこちらに危害を加える気配がないのだ。
それはふらふらと自分に手を伸ばしてくる。
だが触れる手前で電流のような青い光が走って弾かれたように手を引いた。
お守りを付けていると分かったようだ。
表情を悲しげに歪めたそれに目を見開いた。

(なぜ、そんな顔をするんだ)

目の前の、彼の姿をした何かがしようとしていることが、気持ちがわからない。
それは口を開いて、彼の声で言葉を発する。

「桜……が……」
「桜?」

聞き返したところで、それは霧散した。
呆然としていると武道館の隅にタオルと水筒と共に置いていた携帯が鳴った。
個別の着信音にしているから誰から一瞬で把握する。
何かあったのだと慌てて出ると、いつもより焦りがちな声が聞こえてきた。

『唯涼、今学校やな?』
「ああ、武道館にいる」
『そうか。……瑞焔の様子がおかしなってな。前にあったあれや』
「また起きたのか?今は」
『落ち着いて寝とる。学校は行くから、にわちゃんに報告しといてほしい。携帯に出えへん』
「わかった。何かあったらまた連絡してくれ」
『うん、頼んだで』

そこで会話は終了して、電話を切る。
これは部活どころではない。
時間を見るとまだ余裕がある。
袴姿のまま、宿直室に走った。



教室はボイラーなのになんで会議室はエアコンなんだろう、と素朴な疑問を抱きつつ、麻衣はお茶を人数分淹れ、配る。
宿直室から移動してきた丹羽にも渡すと「ありがとさん」と礼を言われたので笑顔で返して、自分の席に戻った。
朝早いせいか、部活で練習をする生徒しか学校に来ない。
先程も女子生徒が校庭を横切っていった。
寒いのにすごいなあ、と感想を洩らしているところで、思い切り勢い良く扉が開かれた。
あまりの勢いの良さに驚きを通り越して関心するくらいだが、室内にいた全員が驚いてそちらを見る。
扉を片手で押さえて立っていたのは袴姿の少女。
走ってきたのだろう、息が乱れている。少女は室内を見回し、目的の人物を見つけるとかつかつと歩み寄った。

「丹羽先生」
「お、おう。どうした藤枝。改まって」
「瑞焔が、あれを起こしたらしい。恵から連絡があった」

少女の言葉に、丹羽が瞠目した。
思わず立ち上がり、本当かと少女に問う。
少女が無言で頷くと大きく溜め息を吐きながら、ずるずると座り込む。

「あー……そうか。あれが起きたか……」
「学校は来るらしい。その前に先生に報告をと」
「懸命な判断だ。つっても、俺は何もできんが」
「そうでもない」

フォローになってねえよ、と苦笑する丹羽に本気で言ったのに、と少女が返す。
聞いていた四人は話がわからず、ナルが話せと言わんばかりの視線を送る。
それに気付いているのかいないのか、丹羽はずずとお茶を啜った。

「それでは、私は部活へ行く。またあとで」
「ああ、頑張れ」

ひらひらと手を振る丹羽に少女も手を上げて、会議室を去っていった。

「丹羽先生、あれとは何です」
「ただの発作だよ。霧薙は意外と体が弱くてな。それでも学校に来れるならまだ軽い」
「確か保健室にいる理由も半分は具合が悪いからでしたね」
「そうなんだよ」

保険医に言われてしまえばそれ以上話は続けられない。
どこか釈然としないながらも、追求をやめた。
ナルは浅く溜め息を吐くと途中だった読書を再開した。
昼休みになって、滝川と麻衣が昼食作りに行ったあと、朝やってきた少女が姿を現した。
後ろには恵もいて、難しい顔をして二人は入ってきた。

「渋谷さんといったか。話をしたい」
「この学校で起こっていることに関わりは?」
「ある、と思う。少なくとも、こんなことが起きるまでは体験したことがない」

パイプ椅子に腰掛けた少女は藤枝唯涼(ふじえだ いすず)と名乗った。
剣道部部長で二年生、瑞焔と恵の幼馴染みらしい。

「朝なんだが、私が会議室に来る前、武道館で妙なものに遭遇して」
「妙なものとは」
「そうだな、一言で言うなら『瑞焔』だな」
「霧薙さん?」
「正確には、瑞焔の姿をした何かだった」

敵意もないし、瑞焔の姿で現れた意味が分からない。
唯涼は漆黒の目に鋭い光を浮かべる。

「そもそも瑞焔の姿で現れたのが気に食わない。私の友人の姿をするなんて」
「まあまあ、唯涼。落ち着き。向こうにも悪気があったわけやないんやから」
「確かに危害を加える気配はまったくなかったが、なにも瑞焔の姿をしなくてもいいじゃないか」

おかげで一瞬勘違いした、と続けた唯涼に恵も軽く同意した。

「それで、その瑞焔の姿をした何かは、桜がと言って消えたんだ」
「桜?」
「どういう意味かは知らない。桜なんて、この桜牧にはたくさんあるし、桜に関する話も聞いたことがない」
「俺もあらへんなあ。何やろうね、にわちゃんなら知っとるやろか」
「それはないだろう。あの人、ここの卒業生でもないはずだぞ」
「でも教師になってからずっとここにおるらしいし、訊いてみるだけ訊いてみたらええんやない?どうやろか、渋谷さん」

恵の案にナルは頷いてファイルに唯涼の証言を書き込んでいく。
少し離れたところではリンがパソコンに情報を記録していて、ホワイトボードに貼った見取り図に印を付けた。
そのあと、二人は自分達の教室に戻り、入れ替わりで滝川と麻衣が昼食を持って戻ってきた。
ナルは考え事をしているようなのでリンが唯涼の話をすると、滝川が眉を寄せる。

「霧薙少年の姿をした何か、なんだよな」
「本人はそう言っていましたね」
「桜かあ。ここって春になったら壮観だろうなあ」

今が冬なのが残念、と本当に残念そうな顔をした滝川にリンが苦笑を浮かべる。
手を伸ばして頭を撫でると滝川は何度か瞬いて、ふにゃりと気が抜けたような笑みを零した。
それを真正面から見たリンは思わず抱き締めそうになって、寸でのところで踏み止まる。
二人きりなら抱き締めて甘やかし倒すのに、今は調査中。
顔を押さえて肩を震わせながら堪えるリンに、滝川が心配そうな表情をする。

「リン?」

顔を覗き込んで名を呼ぶ恋人にリンは我に返った。
じっとこちらを見つめる滝川に何でもないですよ、とわずかに微笑んで額に口付けた。
薄く頬を赤らめる滝川にますますリンが笑みを深くする。
二人の周囲だけ漂う桃色の空気を感じて、やってきた丹羽が「うわあ……」とでも言いたげな顔をした。

「えらい相思相愛だな、お二人さん。付き合ってるのか?」
「ええ」

あっさりと頷いたリンに逆に感心の眼差しを向ける。
羞恥に耐えられなくなった滝川は椅子に腰掛けた丹羽に歩み寄り、その隣に座った。
恋人が離れていったことに若干不満を覚えつつ、リンは自らの仕事を再開する。
淹れ立ての紅茶を啜る丹羽に、アイスコーヒーを淹れてもらえなかったため少し冷めるのを待っている滝川は、ふと問うた。

「そういえば、霧薙少年は?」
「来てるが、保健室で沈没中だ。病院に行くほどでもないんだが、具合悪いからな」
「大丈夫なのか?」
「いつものことだ。時間が経てば良くなる。それに今は神田と藤枝が付いてる」

そっか、と笑顔を見せた滝川に続き、ナルが口を開く。

「丹羽先生は、ここの卒業生ではないんですか?」
「誰に聞いたんだ?俺の母校はここだが」
「え、神田くんと藤枝は違うって」
「うん?どうしてそんな話になってるんだ?俺は地元もここだぞ」

不思議そうな丹羽に対し、ナルの訝しげな視線は深くなっていく。
恵と唯涼が嘘を言ったとは思えないし、吐く必要もない。
ならばなぜ、丹羽が桜牧学園の卒業生ではないということになっているのか。
どこでそうなったのか本人も知らないようで、出所を確かめようもない。
丹羽が首を捻っていると、ガラリと扉が開いた。

 
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