novel
このまま2人でどこかへ行ってしまえたらいいのに。誰の手にも届かない場所へ、誰の目にも触れられないような場所へ。
そんな夢とも言えない愚かな願いが浮かんでは沈んでいく。ふと、零れたため息は、そんな沈んでいく願いのように重いものだった。
「なまえ」
愛しい、そんな感情を抱く声が耳をくすぐる。わたしは顔を上げて、笑顔を浮かべるように努めた。
「お疲れ様、エドガー」
とても広い、エドガーの私室にあるソファに腰をかけていたわたしは、部屋に戻ってきたエドガーに声を掛ける。
一体いつの間に扉を開けて部屋に入ってきたのか。どうやら考え事をしすぎて、そんなことにも気付けなかったようだ。
わたしのかけた労いの言葉にエドガーらふわりと柔らかな笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。そうしてわたしの隣にエドガーが腰を下ろすと、ソファのクッションが深く沈む。わたしの身体はバランスを崩し、ぐらりと倒れてしまった。
ソファに倒れるよりも、ほんの少し硬い衝撃。けれど、ソファよりもずっと暖かい、人肌の温もりが感じられた。その温もりを感じながら、ずっとこの腕の中に居続けることができればいいのに、なんてことを思う。
「ねぇ、エドガー」
「うん」
声を掛けてもなお、エドガーは相槌を打つだけで、今日はなにがあったのか、と言うことを話そうとしない。その様子で十分に悟ったわたしは、思わず零れそうになるため息を必死に飲み下した。
「大好きよ」
「あぁ。俺も、大好きだよ」
軽やかな言葉がふわふわと、風に乗る羽根のように舞っていく。言葉なんてものはどうしたって軽やかで、なんの重みもないのだと、その現実がわたしの胸を締め付けるようだった。
エドガーの恋人として傍に置かれてから、もうどれだけの時間が経ったのだろう。旅をしていた頃はよかったと、今はもう、随分と昔に感じられる記憶を辿る。
エドガーに、フィガロにおいで、と、言われて。そうして言われるままに着いて行ったわたしに降りかかったのは、どこまでも冷たい現実だった。
エドガーの恋人になると言うこと。即ち、一国の王と関係を持つと言うこと。それが一体どう言う意味を持つのか、わからなかったわけではない。何度も、何度も考えてきたことだ。
それでも、こうして現実をまざまざと見せつけられる度に、わたしはわたしの気持ちと居場所を失って行くようだった。
「ねぇ、エドガー」
軽やかな声音は、まるで冷えた夜の砂漠に舞う砂のようにも感じられる。
――二人で、どこか遠くへ。
どこまでが冗談で、どこまでが本気だろう。
心の中に広がっていく願いのような呪いのような言葉が、じわり、じわりとしみを作っていく。
あまりにも軽やかな声音であったから、それが冗談とも本気だとも取れない。少なくとも、わたしにとってはどこまでも冗談で、けれどそれ以上に、どこまでも本気であったけれど。わたしはただ、笑みを貼り付けていることだけで精一杯だった。
「恐ろしいと、思うかい?」
「……え?」
綺麗な顔をじっと見つめていると、ふいにエドガーの寂しげな声が落ちる。闇に濡れる声は、わたしのそれとは違う。重く、のし掛かるようなものだった。
「今ここで、君を殺してしまえたら。君を殺して、その後を追えば、ここではないどこかで一緒になれるかもしれない」
「……エドガー、」
「そんなことを考えてしまう自分が、とても恐ろしいよ」
ふ、と、浮かべられた笑みは悲しそうだ。エドガーの指がわたしの喉元にかかり、けれどその様子をわたしは瞬きもせずに感じていた。
青い、綺麗な瞳が。空のように澄んだ青が、まるで深海の底のような濃紺色に見える。
綺麗な瞳を見つめながら、深い、深い濃紺の世界を見つめながら、そこに映る自分の姿を見つめながら。
「わたしも、同じことを考えていたの」
「え?」
「二人で、どこか遠くへ行ってしまえたら、って。誰の目にも届かない場所に行けたらって。この世界から離れてしまえば、それもできるのかもしれないのね」
わたしの言葉にエドガーは驚いたように目を開き、次いで、あぁ、と憂うように目を伏せた。
腕が伸び、わたしの身体を拘束する。強い力を持って、エドガーの腕がわたしの身体を強く抱きしめた。
「なまえ、君のことを愛しているよ」
「……ん、わたしも」
「このまま……このまま、本当に、どこかへ行ってしまえたら、いいのにね」
その願いが叶わないことをわたしたちは知っている。エドガーも、わたしも、エドガーが自分の国を捨てることなどできないのだと、わかっているのだ。きっと遠くないうちにわたしはこの人の傍にいられなくなって、この人はわたしを愛することを許されなくなる。
そんな未来が見えているのに、わかっているのに、それでもわたしたちは叶わない願いを、深海に沈ませるように声に乗せるのだ。