novel



 嫌な夢を見た。
 それはかなしい夢でもあった。
 目を覚ました時、両の目尻には涙の流れた形跡が残っていた。指先で拭って、ベッドサイドテーブルに置いていたペットボトルに手を伸ばし、一口水を含んだ。
 数度深呼吸して、気持ちを落ち着けることに集中する。すると隣から小さな寝息が耳に入った。隣には、気持ちよさそうに、枕に左頬をうずめて眠るテツヤが居た。

 父が死ぬ夢だった。
 私が見たのは、焼かれて骨になった父を箸で拾う母の姿だった。
 家族なのに、どうしてか私はそれを離れた場所から眺めて、ただ、悲しんでいた。母は私に背を向けていたため、どんな顔をしているのかは分からなかった。でも、その背中がいつにもまして小さく、触れたら消えてしまいそうなものに見えた。
 そしてその光景を見て、気付いた、いや、思い出したことがある。

 この世には、いくら人類が科学という武器を所持して立ち向かっても抗えない、不条理があるということ。
 人はいつか死ぬ。
 それが、生まれたばかりの赤ん坊であろうとも、明日還暦を迎える老人であろうとも、まだ囲われた社会しか触れていない学生であっても、死という魔の手は容赦なく忍び寄って生を刈り取る。
 誰だって、死ぬ日時を事前に知ることは出来ない。灯が消えかけてようやく知るのである。
 死は誰にでも平等に訪れるのに、その存在があまりに日常の中では不確かであるが故に、知らず知らずのうちに忘れてしまう。明日も明後日も一ヵ月後も一年後も五年後も生きていて当たり前だと思ってしまう。
 生こそが常であり、死なんて異常だと思っている。だが、その考えこそが異常であるのだ。
 五年後もしくは一年後、いや、明後日、それとも明日、私は死ぬかもしれない。
 未来を生きている確かさなんて、砂の城のように脆くて危ういものである。

 父の死ぬ夢を見て、私は普段は考えないように、気付かないようにしていた、当たり前の不条理を思い出した。
 ――私もいつか死ぬ。死んで、消えてしまう。
 想像するだけでも怖くなった。ブラックホールのような、無限の暗闇が怖くて堪らなかった。昨夜は来月の海外旅行が楽しみと浮れていたというのに、今の私は同一人物とは言えないくらいにシリアスになって震えあがっている。
 けれど、テツヤの寝息が聞こえると、その恐怖も次第に薄れていった。安心感みたいなものが染み渡っていったような気がする。それに縋るように、シーツに潜り、彼の胸元にすり寄った。寝息に合わせて、彼の肺も動いているのを肌で感じた。
 テツヤは生きていた。それがなによりもうれしかった、有難かった、救いだった。
 だけど、変な所で回転する頭が嫌な光景を映し出した。
 ――もしも、あの、夢の父がテツヤだったら。骨を拾う母が、私だったら。
 さすがにそれ以上は考えたくなくて、考えるのを止めた、放り出した、遥か彼方へ投げつけた。
 でもきっとそれは忘れてはいけないことなのだ。当たり前のことだから。人はいつか死ぬ。私もいつか死ぬ。テツヤも、死ぬ。


 結局、その夜は寝付けなかった。
 寝よう、寝ようとするその思考自体もいつかは消えてしまう、と考えてしまうと恐くて堪らなかった。必死にその恐怖から逃れようと、テツヤの胸元に縋り付いたが、とうとう寝付けなかった。
 外から鳥の鳴き声が聞こえた時、愕然とした。サイドテーブルの上にある目覚まし時計の針が、四時を差すのを見て、またショックを受けた。
 今日は久しぶりにテツヤと出掛ける予定だったのに、この調子じゃ、予定を昼過ぎに押し倒すか、もしくは取り止めにするしかない。
 一体私は何をしているんだろう。せっかくテツヤと休日が被さったのに。テツヤの背に腕を回して、ぎゅうぎゅうとしがみ付きながら、一睡もしなかった自分を省みる。
 すると、「くるしいです」と寝起きのせいで掠れた声が傍から聞こえた。距離を取って見上げると、ずっと寝ていたテツヤがぼんやりと目を開け、私を見ていた。

「あ…ごめん。起こしちゃった、よね」
「いま、何時ですか」眠たそうに、ゆっくりと瞬きするテツヤが訊ねる。
「えぇっと、四時過ぎ」何度見たって、時計の針は四時を差していた。
「ずいぶんと、早起きですね」暖をとりたいのか、テツヤが私を引き寄せながら、でも、やはり眠たそうにゆっくりとそう口にする。
「あぁ、うん。早いでしょ」夜中ずっとしてきたように、テツヤの胸元に頬を寄せた。
「それにしても、覚めてますね。ちゃんと、寝ましたか」寝起きのテツヤの声は、途切れ途切れで、また、いつもと比べてずっとスローペースだった。
「…ううん、寝付けなかった」
「どうして」
「ちょっと、嫌な夢を見ちゃって。それから怖くなっちゃって…寝付けなくなった。ごめんね、せっかく朝から出掛ける予定だったのに」
「そう、ですか。嫌な夢、いやなゆめ…どんな、夢だったんですか」
「…すごく嫌な夢。口にしたら、きっとテツヤびっくりするから言わない」
「…すみません、すごく眠たくて…もうすこし、寝てもいいですか」
「うん。ごめんね、起こしたりして。好きなだけ寝ていいよ」
「なまえも、寝ましょう。僕が、傍に居ますから、安心して、寝て…」
 テツヤはスッと眠りに入ったみたいだった。途切れてしまったけど、最後まで言葉を紡ごうとしてくれた優しさを(すこし心痛めつつも)享受する。

 テツヤと言葉を交わしているうちに、恐怖でガチガチだった私の心が和らいでいくのを感じた。テツヤはまるで私の精神安定剤のようだと思った。
 テツヤの寝息が聞こえる、肺が動くのを肌で感じ取る。夜中と同じもののはずなのに、会話のおかげか、より一層安心感を与えられた。
 テツヤは生きている。そしてテツヤはそれが当たり前のように捉え、生を堪能している。
 それを見ていると、何だか、死に怯えていた私が馬鹿らしく思えてきて、自然と目を瞑れたのも、そのすぐ後のことだった。


 懐かしい夢を見た。
 テツヤも私も高校生である頃の夢だった。
 読書好きのテツヤは、暇を見つけては本を開いていた。その影響か、気付けば私も彼に釣られて、その隣や向かいで本を開くようになっていた。夢の中の私もそう。図書室の自由席に座る彼の向かいで読書していた。
 私の読んでいた本がなんて名前の本なのか、誰が書いた本なのかは、はっきりしない。夢って、必要最低限のことに関しては迫力やら現実味やらがしっかりしてるけど、よくよく思い出すと、細部はボヤボヤで案外造りが粗かったりする。
 ずっと共に歩んできた妻を亡くした夫が、紆余曲折を経ながら、生きることに対して前向きになるという話だった。夫は妻を失うその喪失感のあまり、自暴自棄になり、一時は死ぬことすらも考える。
 それを読んだ夢の中の私は、話に没頭するのではなく、もしテツヤを失ったらと自らの立場に当てはめて想像していた。
 そして、私語厳禁であるはずの図書館で、当たり前のようにテツヤに話し掛けた。

「テツヤは、私が死んだらどうする?」
「なんですか、藪から棒に」私の問い掛けにテツヤが頭を上げる。
「いや…この本が、大切な人を亡くした後を描いた話でね。私達だったら、どうなるんだろうって思って」
「そうですか。でも、それにしたって唐突すぎる質問ですよ」テツヤは見開きに紙の栞を挟むと、本を閉じた。
「私ね、すこし想像してみたんだ。もしもテツヤが私より先に、その、逝っちゃったらって」
「…『逝く』はやめてください」
「あぁ、その…死んじゃったらね」
「呆気ない言い方ですね…まぁ、いいです」
「すっごく悲しいなぁって思ったの。もう二度と会えないと思ったら、何て言ったらいいか分からないけど、こう…うまく例えられないんだけど、その…絶望?みたいなね、きっと、今まで私が抱いたことのないものを抱え込むことになるんだろうなって思った。そして、それに耐えられる自信がないとも思った。きっと潰れちゃう。テツヤはどうなの?私が先に死んだら」
「なまえが先に、ですか」

 テツヤは、視線を閉じた本に落として、しばらく思考した。
 彼はいつだって優しい男だった。私の突拍子のない問いかけにも、無視などせず、しっかりと考えた末に答えてくれた。それは夢の中でだって同じことであった。

「そうですね…なまえが先に亡くなったら、気が狂うと思います。とても正気じゃいられないでしょうね。もし、なまえと将来も共に過ごしているならば、尚更です。生きる希望すら、失うでしょうね。何を支えにしていいか分からなくなって、僕は、僕じゃなくなるかもしれません」
「そっか…どっちが先に死んでもそれだけ辛いなら、同じ時に一緒にポックリ逝けたらいいのにね」
「…楽観的な表現ですね。そんなこと、とてもじゃないですけど無理ですよ。同時に心臓が止まるだなんて不可能に近いです。心中でもしない限りは」
「しんじゅう?しんじゅうってあの、太宰治の…あの心中?」
「別に太宰治に限定したことではないですけど…そうですね、その心中です。一緒に自殺する、あれです」
「じゃあ、その心中でもしない限りは、私とテツヤは必ずどちらかが先に逝って、どちらかが辛い思いをするって?」
「そうですね、そうじゃないでしょうか。そりゃ、なまえが言うように、同時にポックリ逝けたらいいですけど、そんなこと非現実的すぎますし、それなら心中する方が辛い思いをしないという点に置いては有効かもしれません」

 テツヤの提案した「心中」を思い浮かべてみる。
 ズブリと互いに刺しあう心中、チャポーンと川に飛び込む心中、練炭で一酸化炭素中毒になる心中…どれもこれも想像だけで十分、実行には移したくないと思うものばかりだった。
 テツヤが先に死んだら、それはそれは辛くて苦しくて悲しくて、地獄のようなものだろうけど、でもだからと言って、心中を選ぶ気にはなれなかった。まだ命の期限も分かっていない段階で、死に至る心中を選ぶほどの度胸というか覚悟が今の私にはないのだと知った。

「暗くなりましたね。話を変えましょう。僕達が死ぬのはきっと、当分後のことですから」
「そう、かな。私達が死ぬのって後って決まっているのかな」
「どうしたんですか」
「えっと、この本のキャラクターもね、突然交通事故に巻き込まれて死んじゃったから。病気とかじゃないんだよ。お互いが死ぬことなんて全く想像もしていない中で、死んじゃったんだよ」
「…じゃあ、僕らのどちらかが先に不慮の事故で死んでしまう前に、心中でもしますか」
「それは…えっと…」自分から話を戻したものの、心中に同意できる勇気が私にはない。
「怖いでしょう。僕だって怖いです。なまえが先に逝くのも怖いですけど、共に死ぬことも怖いですよ。ならば、残された道は一つです。どちらがどれほど生きられるか、そんなものは分かりません。重病に罹るかもしれませんし、そのキャラクターのように事故に遭って命を落とすかもしれません。でも、そんな不測の事態に怯えていては、とてもじゃないですけど生きていけませんよね。たしかに死ぬ可能性がいつだってあるというのは忘れてはいけない事実です、けど、だからこそ、生きることに真剣に、前向きに取り組むべきなんです。きっと、僕達はどちらかが先に死にます。心中しない限りは。でも大切なのはその後じゃないと思うんです。どちらかが先に死ぬまで、手を取り合って共に歩み、一生懸命共に生きていくことこそが大切だと僕は思います。僕達はいつか死にます。それは自然の摂理です、変えられません。でも、それまでは僕達は一緒です。共に居られるんです。それって実はとても素晴らしいことだと思うんです。だから、なまえ、不安になるのは分かりますが、どうか挫けないで下さい。僕が傍に居て君を支えます。大丈夫です。だからどうか安心してください」

 テツヤの細く、けれど私のより大きくて骨張った手が、私の手を包み込む。
 彼の体温と言葉に安堵した私は、それを噛み締めるようにゆっくりと数度頷いた。
 夢の中の出来事だったけれど、それはたしかに、高校時代にテツヤと話したことであった。夢を見るまで、すっかり忘れてしまっていたけれど。

 そうか。
 そうだったのか。
 テツヤは、あの時に、高校生の時にすでに答えを指し示してくれていたんだ。
 人はいつか死ぬ。私達もいつか死ぬ。そうして、どちらかが先に死ぬ。想像しただけで鬱々とするような事実だけれど、項垂れるべきではないのだ。
 私達がすべきなのは、死を恐れることでも、心中することでもなく、生の大切さを時折噛み締めながら、共に生きていくことなのだ。そうでしょう、テツヤ。


「おはようございます。と言っても、もう昼過ぎですが」部屋着に着替えたテツヤが、寝起きの私の頬をさする。
「んー…寝たぁ」寝転びながら背伸びをする。
「えぇ、寝ましたね。嫌な夢はもう大丈夫ですか」
「うん。テツヤのお蔭で、もう、大丈夫」欠伸の漏れる口許に左手を添える。薬指には彼から貰った指輪が嵌っている。新婚旅行という名の海外旅行は、もう、一ヵ月を切っている。

Title by icy(http://icy.5.tool.ms/
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