novel
「入ります」
ノックをしてからひと声かけて、なまえは部屋の中に入った。
相変わらず薄暗い部屋だ。かの男の指定席であるデスク付近だけをランプがぼんやりと照らしている。それは良く言えば雰囲気たっぷり。悪く言えば陰気。なまえからすれば後者であるのは間違いなく、男の根暗な性質をまんま形にしたような酷くどんよりとした室内に、内心舌打ちをしていたのだった。
「持ってきました」
心の中で毒づいておきながらもそれを表に出すことなく、なまえは何食わぬ顔でかの男が居座るデスクへと近付いていった。
手には湯呑みを乗せたトレー。夕食後、腹が落ち着いた頃に部屋まで茶を持ってくるようにと、かの男から指示を受けたのだ。
立場上かの男の命令は絶対で。あの部屋に行きたくないと思っても、かの男と二人きりになりたくないと思っても、断る術をなまえは持ち合わせていなかった。
「ここに置きますから」
湯気のたつ湯呑みをデスクの端に置くと、なまえはすぐにドアの方へと身を返した。重苦しい静寂に包まれているこの部屋から、できるだけ早く立ち去りたかったからである。
それでもまだ、かの男は何も言わなかった。手元の本に夢中になっているのか、はたまた気付いている上で無反応なのか。些か謎ではあったが、できるだけ男と関わらずにいたいなまえとしては、そのどちらであろうとも別に構わなかった。
そうしてひとつの会話もなく役目を終えたなまえは、早々と部屋を後にして、茶を運んできたトレーを戻すために再び食堂へと踵を返した。
「……ん?!」
が、廊下を歩きだしてすぐのこと。
パッと。まさに瞬きひとつの一瞬で、目の前の景色が突如として変わってしまった。
先まで続く廊下をランプが煌々と照らし出す明るい視界から一転、辺りは薄っすらとした闇に包まれている。一体何が起きたのかと、驚きもさながらに急ぎ周囲に目を凝らすなまえであったが――ほどなくして、それに気が付いた。
薄暗い場所。ぼんやりと灯るランプ。未だ一寸の変化もないままに同じ形でそこに広がっている光景を呆然と瞳に映しながら、事態が呑み込めたなまえは、ドッと疲れが押し寄せてくるのを感じて肩を落とした。
「むやみやたらに能力を使うのはやめてもらえませんか。こちらにも都合ってものがあるんですよ」
デスクについてぶ厚い本に目を落としているかの男に刺々しく告げると、ここへきて始めて、両者の間に会話が成立した。
「戻っていいと、誰が言った」
「はァ? まだ何か用があったとでも?」
呆れ半分に問うてみても、男は答えない。視線も本へと向いたままだ。
なまえは疲労の滲む顔でこれ見よがしに溜め息を吐いてから、部屋備え付けのソファへと向かい、そこへ何の躊躇もなく堂々と我が物顔で腰を下ろした。
「逆らえないのをいいことに捕虜で遊ぶなんて……本当いい趣味してるよ。死の外科医――トラファルガー・ロー」
今度はもう感情を隠そうとはしなかった。取り繕っていた仮面が剥がれ落ちたように、ガラリとかの男、ローに対する態度を変えたなまえは、あからさまな不機嫌をその顔に浮かべて今一度溜息を吐いてみせた。
仮にもハートの海賊団が船長を相手取り、こんなにも厚かましくふてぶてしい姿を晒せる理由。それは、なまえが今、自の意思に添わずこの船に乗っているからに他ならない。
なまえは元々、他の海賊団に所属していた。
長らく身を置いていたそこは、お世辞にも強いとは言えぬ、力も器量も世界を渡るには不十分な半端者の集まりだった。そんな彼らが珍しく躍起になって、とある島でたまたま鉢合わせたハートの海賊団に果敢にも勝負を挑んでしまったことが、そもそもの間違いであり、また始まりでもあったのだ。
ローのオペオペの実の能力の前には誰もが無力で。圧倒的な力の差を見せつけられると、途端に命が惜しくなった仲間たちは我先にと逃げ出していった。そんな中、最後まで逃げることなくローに立ち向かっていったのが、人一倍負けず嫌いのなまえ、ひとりだけだったのである。
幸か不幸か、そのせいで少なからずローに印象を与えてしまったらしく。精一杯戦い尽くした後に意識を失くしたなまえは、次に目覚めた時には“海の中”という、信じがたい状況に置かれていた。
これが、どうして恨まずにいられようか。
「何のつもりで私を攫ってきたのかは知らないけど……いつまで遊んでるつもりなの? いい加減、さっさと次の行動に出てよ。ヒューマンショップに売るとか、私の仲間に交渉するとかさ。何かあるでしょう?」
一方的に囲って働かせておいて、敬えるはずもない。使いたくもない敬語を無理に並べ立てても、心根まではどうあっても変えられなかった。
海賊として生きてきた半生。プライドを捨てきれないなまえが皮肉をたっぷり含ませて言うと、デスクでローが「ククッ」と愉快そうに喉を鳴らしたのがわかった。
「めでてェ奴だな。まだ捕虜のつもりでいたのか? あれから何月経ったと思ってやがる」
「……っ、」
「怪我した仲間を置いて逃げるような奴らだぞ。それでよく、あそこに戻る気になれるもんだ。奴らはとっくにお前を見放してる。奴らにとって、お前はもう死人なんだよ」
言われなくても。
元々薄かった仲間意識はあの一件で完全に消えてなくなったし、未練だってこれっぽっちも残ってはいなかった。
ただ、悔しかったのだ。
非人道的な行為を強制させられない、居心地の良い現状が。
以前までの暮らしが、どれだけ腐っていたのかを思い知らされて。
「捕虜じゃないのなら……この先のことは私が自分で決めていいってことだよね」
「勘違いするな、積み荷同然のただ飯食らいが。この船の一員にもなりきれてねェお前の主張なんて、通るわけねェだろ。それから……覚えておけ。ウチはヒューマンショップにだけは手を出さねェ。金で人を従えるのは、クズの中のクズが好む遊びだ」
「……へェ。じゃあ……私をあんたの下部(しもべ)にでもするつもり?」
「ハッ。お前みてェなクソ生意気な人間に、下部なんて大役は務まらねェよ」
ローが嘲笑う。あんまりな物言いにカチンときたなまえは、ソファから立ち上がると苛つきをあらわにしながらローへと詰め寄っていった。
「だったら……っ、下部にするつもりは無いっていうんなら! その証拠に今すぐ返してよ!」
「返す? 何をだ」
「惚けないでッ! 私があんたと戦ったあの時に……盗ったんでしょ!? あれからずっと、穴が空いたままだもの!」
そう言ってドンッとなまえは強く自身の胸を叩く。するとそこでようやく、本から目を離したローがなまえの方へと僅かだけ視線を投げて寄こした。
「お前のものなんて、おれは何一つ持ってねェ」
「……嘘ッ、」
「“おれの好きにできる心臓”ならひとつ――確かに持ってるがな」
「!」
椅子に座っているローの目線はなまえよりも低い。だから帽子の影に隠れてその目元はよく見えなかったが、露わになっている口元が悪戯に弧を描いているのはわかったので、ここは取り乱した方が負けなのだと、なまえは必死に昂る感情を抑え込んだ。
「……そうだね。ハハッ、そうだった。残忍で有名だったものね、あんたは」
いっそのこと発狂してしまいたい。なまえは自然と笑っていた。勿論楽しいからではなく、命を握られているという状況に、何だかもう色々と考えることが面倒になって、全てを投げ出してしまいたくなったからだ。
「あんたが死ぬその時まで、私の胸には穴が空いたままってことか……。あーあ。これじゃもう、抱いてもらえないなァ。こんな不気味な体、きっとみんな嫌がるだろうし。……せめて、女としての魅力がなくならないうちに、元の体に戻りたい」
目の前でローが意地悪く微笑んでいることが、尚更なまえの反抗心を煽った。なかば自棄になりながらなまえが愚痴るように言うと、ローはことさら嬉々として、デスクの上で頬杖を付き意味ありげに横目を流してきた。
「叶わねェ願いだな」
「どういう意味よ」
「お前の心臓がお前の体に戻ることは、もう一生無ェってことだ」
「……だから、能力者のあんたが死ねば――」
「わからねェ奴だな。先に死ぬのはてめェだと言ってる。おれが死ぬ時、お前も死ぬんだ。このおれが、お前の心臓を握り潰すからな」
「は……はァ? な、んで?!」
「おれは遠からず死ぬ。いつどんな場面でその時が来るのかはわからねェが、ただで殺されてやるのも癪だからな。余興ついでにお前も道連れにすることにした」
「〜〜〜っ、何それ! 絶対嫌だから! そんなの!」
「アレがおれの手元にある限り、お前に選択肢はねェんだ。諦めろ。どうせ一度亡くした命なんだ。せめて最期くらい、人の役に立ったらどうだ?」
なんて言いぐさだ。
傲慢で身勝手。わななく拳を握りしめて、なまえはローをきつく睨み付けた。
けれどローはそれすらも楽しむかのように、余裕綽々とした表情を崩すことなく、真っ向からなまえの苛立ちを受け止めていた。
「お前をここから逃がしてやる気はねェし、許可なく死ぬことだって許さねェ。少しでも楽に余生を過ごしたけりゃァ、精々この命運に抗ってみるんだな」
「勝手なことばかり言わないで! 〜〜〜私はあんたと、心中する気なんてないッ!」
すっかり頭に血が上ったなまえはいきり立って叫ぶ。すると直後、なぜかローは面食らったようにぽかんとなった。
普段から勝気で狡猾な男の、そんな意外な反応を目の当たりにしたなまえは、思わず怯んでしまう。
「な、なによその顔。ふざけてるの?!」
「……」
「何か言いなさいよッ」
「……」
それっきり黙りこんでしまったローだが、数秒後にふと我に返ったらしくいつもの無表情に戻ると、ふいっと、いかにもわざとらしくなまえから目を逸らした。
「……お前、もう戻れ」
「へ?」
「用は済んだ」
戸惑うなまえを放ったまま再びデスク上の本に視線を落としたローが、吐き捨てるように言う。
なんて理不尽なのだろう。本当なら小言のひとつくらい言ってやりたかったが、言ったところでまた揉めるのも面倒だったので、そこはグッと堪えた。何より部屋を出る許しをもらえたことにホッとして、なまえは釈然としないながらも、追い出されるようにしてスゴスゴ船長室を後にしたのであった。
「ペンギンでーす。船長、入りますよー?」
なまえが去り、しばらくして。用あって船長室を訪れたペンギンは、ノックをしつつ素早くドアを開け、部屋主の許可など始めから必要としないかのようにズカズカと遠慮なく中へ入っていった。
「……あれ?」
礼儀を欠いたその行動に、いつもならギロリと鋭い視線が向けられるはずなのだが。珍しく今日はそれがない。不思議に思ったペンギンがローの顔を覗きこめば、彼は何か考え事をしているらしく、その瞳がぼぉっと宙に向けられていた。
自分が来たことに気付いていないわけはないのだろうが。ここまでわかりやすく無視をされると、立場がないというもの。
今後の航路について話したかったのに、この調子ではいつできるようになるやら。できれば考え事の邪魔はしたくなかったが、このままずっと立ち往生しているのもなんだったので、意を決してペンギンはローへともうひと声掛けてみることにした。
「あの、目ェ覚めてますか? 船長」
「……」
「ロー船長ォ?」
「…………――ぅ」
「へあ? 今なんて言いました?」
何度か呼び掛けた甲斐もあって、ようやくローが応えてくれた。しかしよくよく聞き取れずにペンギンが首を捻っていると、またもや脈絡もなくけれども今度は辛うじて聞き取れる声量で、「しんじゅう」とローが呟いた。
「シンジュウ? ああ、心中か。――で、それがどうかしたんですか?」
「……」
「もしもーし?」
「……ペンギン」
「お? はい」
「“心中”の定義はなんだ」
「てっ、ていぎ?! うわァ、また急に難しいことを」
まさかそう来るとは思わなかったのでペンギンは焦った。焦ったが、聞かれて答えないわけにはいかないので、必死に頭をフル回転させた。
「う〜ん……。好き合ってる者同士が世間の色んな壁に阻まれて一緒に居ることができなくて、だったらいっそのこと二人で一緒に死んじまった方が幸せだ――て、いうのを“心中”と言うんじゃ?」
「他には」
「えっ、他ァ?! 他って何?! ええっと、あー……あ゛〜? ――あ! 別な見方としてならこういうのもありますけど。一方が相手を巻き込んで死のうとする自己中心的な行動――これも、“心中する”って言いますね」
「……それは……一方に情があるっていうのが、前提の話だよな」
「そりゃァ、そうなんじゃないですか。相手に何らかの理由で執着しているからこそ、自分と一緒に死んで欲しい、自分だけ死んで相手が生きているのは許せない、っていう思考になるんだろうから」
ペンギンの答えを聞いて、ローは途端に眉をしかめた。それから唸り声を上げそうなくらいに一点集中で何やら考え出したかと思えば、やがてぶつぶつとひとり喋りだす。
「先に話しを振ったのはおれだ……なら、こっちにそれがあるってのか? 理論立てて考えりゃ確かにそうなるが……いや、でもな……」
「あの〜さっぱり話がみえないんですけど。っていうか、わざわざおれに聞かなくても、船長ならこれくらい知ってるでしょうよ。どうしたっていうんですか、ほんと」
ペンギンが訝しげにローを見遣ると、ローはハッとしたように一度チラリとペンギンの方へ目を呉れた。が、その後すぐに視線を正面へと戻し、どこか物憂げに遠くを見つめながらぽつりとこぼした。
「あんな掃き溜めで一生燻ってるには勿体無ェ面構えだと思った」
「――え?」
「なまえをウチに連れてきた理由だ。お前には、話してあったな」
「あぁ、はい。聞きましたね」
「それだけだ」
「は?」
「それだけだった、はずだ」
「はァ」
「……」
「ちょっとちょっと、だから何なんですかって! なまえがまたなんかしでかしたんですか? クソ生意気だって話しなら、それはもうあいつの性分なんで今さらどうにもなりませんよ。つーか、さっきからやけに真面目に心中の話をしてますけど……ひょっとして、なまえが何か関係してるとか――」
ガタン。
ペンギンに皆まで言わせないためなのか、話の途中でおもむろにデスクから立ち上がったローは、傍らに立て掛けてあった鬼哭を手に取ると足音も立てずにさっさとドアへ向かっていった。
「ちょ……船長?! どこに?!」
「用があって来たんだろ。話は操舵室で聞く」
言うなりローはあっさりとドアの向こう側に消えていった。ペンギンを、ひとり船長室に残して。
「はーあァ。……いつもながら切り替えの早ェこと。さすがうちの船長だぜ」
ローが何に悩んでいたのか結局わからずじまいとなったが、普段のキレを取り戻したのならもう何を言う必要もないだろう。
ペンギンはやれやれと俯きがちに嘆いてから、クスリと笑った。そして気を取り直したように顔を上げると、足早に先を行くローの後を追ったのだった。
「執着なんかしてねェ。興味もねェ。じゃあこれは……何だ?」
そんな呟きが、人気の無い廊下にひっそりと落とされていたことは――誰も知らない。