踊ろ1 | ナノ
蒸し暑い夜だった。ほぼ完全な円に近付いた月は地を照らすが、壕の中にまで光は届かない。年若き戦士達はすでに床へと就いており、静まった壕内は寝息だけが響く。闇に包まれ周囲は何も見えないが、円堂は手のひらに伝わる温度が平常心を保たせてくれることを知っていた。
「風丸」
「俺はここにいるから。…おやすみ円堂」
心細さを紛らわせるようにほんの小さな声で風丸の名を呼ぶと、風丸は安心させるように優しく囁き円堂を寝るように促した。二人の手は硬く繋がれている。数週間前から上官に見つからないようにとこっそりと始めたこの行為は二人の関係を明確に表していた。

所謂、恋仲。その一言で表せる容易な関係ではあるが、それも戦争という環境が生んだものだった。極限状態での中での唯一の逃げ道が、幼馴染である少年を愛すること。互いが互いの支えとなり、情を交わす。未だ体を繋げたことはなかったが、それでも十分だった。
齢十四という幼さは、心の拠り所が存在するというだけで十分だったのだ。その関係が崩壊の兆しを見せていたことは、まだ二人は知らぬままであったのだが。



その日、少年たちは水浴びをしていた。当然風呂などはあるはずもなく、敵に見つかる可能性もある手前、危険も承知の上での行為だ。しかしその表情は溢れんばかりの笑顔だった。皆が皆、栄養失調で痩せ細った体を空気に晒している。
風丸の長い髪が濁った水に浮いている様子を、円堂はぼんやりと眺めていた。「お国のために」と猛り立つ男児達の中、円堂はひとりその言葉に疑問を抱いていた。果たして自分達のような子供が命を犠牲にしてまで、この戦争に意味はあるのか、と。
元は円堂自身も愛国心溢れる勇敢な少年であった。しかしみるみるうちに無残に倒れてゆく仲間たちの姿を見ると心が痛んだのだ。水汲みに命ぜられ井戸端へと向かえば、常にそこは死体の山だ。水を汲みに行けば撃たれては死に、撃たれては死ぬ。掃いて捨てられるような少年兵への扱いに、円堂はいたたまれない気持ちになった。

垢を落とすよう体中を擦りながら風丸を見つめていた円堂は、一度頭まで潜ると、水から出て体を乾かした。支給された軍服を広げ、そこに貼り付くようにしていた衣虱を指でぷつりと潰す。虱の吸った血が爪を赤く汚し、円堂はそれを傍の水で洗い流すと軍服を羽織った。
軍服が支給された後の数日間は皆その格好良さに浮かれ、はしゃいだものだった。しかし今は何の感慨も浮かばない。
「円堂」
「わっ」
汚れがこびりついて洗っても落ちないほどに黒ずんだ袖口を眺めていた円堂は、いつの間にか隣に佇んでいた風丸の姿を見、心臓を跳ねさせ驚きの声を上げた。
「お前、最近集中力も注意も散漫だ。危険だぞ」
「うん、ごめんな」
ごめんなじゃなくてだな、と説教を始めようとする風丸の声が遠く聞こえる。円堂はやはり風丸の言う通り、ここ数日自分の世界に入り込むことが多かった。現実逃避の一種であろうか、しかし考えることは戦争についてのことばかり。楽しいことなど思い浮かぶはずもなかった。

円堂が皆を思いやる反面、風丸はまさに愛国心の塊とも言うべき日本男児だった。戦前は、正義感の強い子供と評されることが多かった。円堂も同じく正義感は強かったが、それとはまた違うスタンスだ。
風丸は正しい道を行く人間だ。僅かな過ちも許さない。戦争が始まった途端、その考えはより強固なものとなった。「お国のために」がまさに口癖とも言えるであろう。また「非国民」という言葉も非常に多用していた。そして何より、米人を、米兵を心から憎んでいる。まさに国に身も心も捧げたような、そんな風丸の姿に円堂は心を痛めていた。


その晩、円堂はカンテラの僅かな明かりの下で、爪を噛んでいた。爪切りやハサミといった気の利いたものなど無い。だから、血や泥で汚れた爪を歯で食いちぎり長さを調節する。
「いたっ」
親指の先からじわりと血が滲む。爪を深くまで千切りすぎたのだ。円堂は血のついた指先を舐めてから、軽く吸った。どうせバレたら風丸に怒られる、手の怪我など致命的だと。そんな思いを胸に。ふと自分を呼ぶ声に気付いた円堂は、立ち上がると声の方へと歩んだ。
声の主は上官だった。上官はのように恐ろしく、学徒隊の少年たちからの評判はすこぶる悪かった。まるで兵への気遣いは見られない、鬼畜の極みのような人間だ。
「円堂、水を汲みに行け」

水汲みは円堂が最も苦手とする任務の中の一つだった。水汲みだけでどれほどの犠牲者が出ただろう。しかし命令に背くこともできない円堂は、素直に壕を出て近くの井戸へと向かった。
地には死体がまるでごみか何かのように転がっている。暗い夜道では稀に死体に気付かず、それを踏んでしまうこともあった。円堂は辺りに漂う腐臭や血肉の臭いに顔をしかめながらも歩んだ。
井戸の傍にもやはり元は生きた人間であった残骸がごろごろと転がっていた。もしかすれば、今頃米兵が自分に銃の照準を合わせているかもしれない。そんな不安に抱かれた円堂は死体をかいくぐるようにし、ようやく井戸へと辿りつくと、水桶いっぱいに水を注いだ。

桶を地面に置いた瞬間、ぽん、と肩に何者かの手が置かれた。円堂は体をびくりと揺らしたが、その手の正体への心当たりがあったため、落ち着いた表情で振り返った。
長い髪を頭の上の方で一つに束ねたシルエット。風丸一郎太に他ならなかった。
「円堂、俺、久々に二人で話がしたくて」
「うん、わかったから、とりあえずどっかに隠れよう」
風丸はどこか落ち着かない様子だった。円堂は重くなった水桶を両手で持ち上げると、生い茂った草木の陰へと風丸を先導した。
鬱蒼とした長い草葉の中に死体の気配はない。そのことに安心した円堂は、再び水桶を地面に下ろすと風丸の腕を引きながら、身を隠すようにしゃがみ込んだ。
円堂に腕を引かれるままに同じくしゃがみこんだ風丸は、そのままの勢いで円堂の頭を強く胸に抱いた。円堂は水汲みの緊張と夏場の気温の高さから全身びっしょりと汗をかいていたが、それを気にする素振りもなく強く、強く円堂を抱きしめた。
「むぐ、風丸…?」
「円堂、えんどう」
風丸は長い髪を振り乱し、円堂に縋りつくようにしている。円堂は風丸の背に手を回し、落ち着かせるように優しく撫ぜた。暫くして落ち着きを取り戻した風丸は、円堂の肩に手を置くと真正面から向き合うようにその瞳を見つめた。しかし月明かりしかないこの場ではその表情も、瞳の色も、何も窺い取ることができなかった。
「俺、円堂がどこか遠くに行ってしまいそうで怖いんだ。なあ、円堂、あまりぼんやりしないでくれ。頼むからお前だけは馬鹿な死に方をしないでくれ」
悲痛な声色で風丸は叫ぶように言う。もちろんここが井戸端の草陰であることを考えてあまり大きな声は出さなかったのだが、それでも十二分にわかるほどに風丸は切羽詰まっていた。

円堂は風丸の言葉の裏を汲み取り、眉を寄せた。それは風丸の精一杯の愛情だった。自分の愛する円堂にだけは、清く正しい日本男児として国のために死してほしい。犬死にだけはしないでほしい。
「なあ、キスしていいか」
風丸が息を荒くして言う。円堂は無言で微かに頷き、それを受け入れた。風丸は円堂を愛している。円堂も風丸を愛している。円堂は顔が近づいてくる気配に瞳を閉じた。
二人の唇が合わさる。一瞬離れて、もう一度。しかしそれ以上は進まない。二人の仲は非常にプラトニック、精神的な愛であった。暫く同じようにすると、自然と二人の唇が離れる。離れる直前、風丸はぺろりと円堂の唇を舐めた。
何故だか唇を合わせるだけのその行為が気持ちよくて、円堂はふわふわと頭が浮くような感覚にとらわれた。風丸は微笑んで円堂を愛おしげに見つめた。漸く瞳を開き風丸のその澄んだ瞳の色を見た円堂は、ほっと胸を撫で下ろした。

瞳を閉じる直前に見えた、鈍く光る瞳がまるで気違いのようで気持ちが悪くて。