ふたりで地獄に落ちようか | ナノ
短編「しあわせを願う」の続編です。


あれから二度ほど季節が過ぎ去っていった。
春になり周囲は浮き足立っていたが、オレは相変わらず寝て起きて仕事に行くだけの無気力な生活を送っている。安いアパートの一室で、夜な夜な物思いに耽っては窓の外を眺める。
円堂くんと別れて以来目に見えて酒の量が増えたオレの身を案じていたらしい緑川や姉さんは、数週間に一度うちを訪れては何かと世話を焼いてくれた。

「あなたはいつまで経っても子供のままなのね」
ある日の晩、姉さんの口から吐き捨てるように飛び出た言葉に、大きな衝撃を受けた。
互いが納得した上で別れたのではないかと常々自分に言い聞かせていたが、それでもずるずると彼との思い出を引きずって感傷に浸るだけの惨めな自分を憎んでいた。
そんな中、子供のままだと言われたオレは、まるで傷口を彼女のハイヒールの爪先で押し広げられるかのような感覚に陥った。
心のどこかでは姉さんの言葉が正しいのだとわかりきっていた。子供の自分が駄々をこねているだけなのだと。

「お前はなんでこんなになったのか、一度考え直した方がいい」
全身に酔いが回って動けなくなったオレを介抱していた緑川は、優しくそう語りかけると部屋の電気を消して部屋を出ていった。部屋を出る寸前に見えた表情は酷く心配そうで、自分が情けなくなる。もうとうに二十歳を超えて自立しているのに、他人の力を借りなければ生きていけないのか。
ベッドに横になったまま、生まれて初めて自分を殺したいと思った。死にたいのではない。この惰弱で脆弱な自分を殺さなければならない。そう思った。

(なぜ、なんて)
オレがこうなった理由なんてひとつしかなかった。
(円堂くん)
誰よりも彼のことが好きだった。誰よりも彼のことを愛していた。しかし、彼のことを愛せなくなってしまったから、別れた。
そう思っていた。
彼が涙すら見せずこの部屋を出ていった日のことを思い返す。オレではない誰かが、彼を心の底から幸せにしてあげてほしい。そう願ったのを今でもはっきりと覚えている。オレにできなかったことを、他の誰かに押しつけようとして。
彼の最後に見た表情が脳裏に焼き付いて離れない。本当は引きとめてほしかったのではないか。あの苦しそうな表情の本当の意味を知りたかった。


酒の回ったはっきりとしない頭のまま、ベッドから手を伸ばし机の上の携帯電話に触れた。届くか届かないかの位置にあったそれを指先で引きずりこちら側に寄せ、掴む。手の中に収まる色気のない黒い携帯電話を開く。暗闇に慣れた目は急に届いた光に驚き、目の奥に痛みを伝えた。
カチカチとキーを押し、電話帳の中のひとつのページを開く。
円堂 守
緩慢な動きで受話器のマークを押す。電話に耳を当てると、プルルル、と無機質な音が耳に届いた。

1コール、2コール。彼は、まだ出ない。
…15コール、16コール。まだ、出ない。

23コールを数えたところで、その無機質な音がぷつりと途絶えた。そして、さあさあと空気の動くような音が聞こえる。
「……もしもし?」
オレは恐る恐る口を開いた。相手が円堂くんなのかすらわからない。
しかし受話器越しに、微かな物音が聞こえる。確かに電波の先に人がいるのだ。
「えんどう、くん」
応えてくれないことが切なくて悲しくて、彼の名前を呼ぶ。彼でないとしたら、何故応えてくれないというのだ。円堂くん、円堂くんと連呼すると、相手が息を吸う音が聞こえ、オレは口をつぐんだ。
「………ヒロト」
少し高めの男性の声がオレの名前を呼ぶ。確かにそれは彼の声だった。それを聞いた途端に、再びオレは彼の名前を繰り返す。
「円堂くん、円堂くん、円堂くん、えんどうくん、えんどう、く、」
「ヒロト!」
久々に彼の声を聞けたのが嬉しくて、悲しくて、切なくて、寂しくて呼び続けると、怒ったような声で彼がオレの名前を呼んだ。
うるさかっただろうか。まるでストーカーやいたずら電話みたいだ。思い直すとオレは黙りこむ。
「…どうしたんだ、突然」
円堂くんの声は落ち着いていた。やはり彼は大人になってしまったのだと少し寂しくなる。
「……少し、会って話がしたいんだ」

お互い社会人だ、予定を合わせるのは中々に難しい。なんとか会える日があることを確認したオレは電話を切った。
彼は終始落ち着いていて、オレと会うことを嫌がることもなかった。あれほどわかりやすかった彼の感情がわからなくなって久しい。期待と不安を胸に、オレは眠りに就いた。



それから二週間ほど経った土曜日、ついに約束の日がやってきた。
約束の時間は彼の都合で二十時ということになっていたが、オレは約束の時間より一時間ほど早く来てしまった。休日ということもあり若者で賑わう酒屋の一角に座ったオレは、弱めの酒を舐めながら彼を待った。
一人で飲んでいるオレをちらちらと横目で見る女性たちの視線に無性に腹が立つ。自分の顔が人並み以上だということも理解していたし、時にはそれを利用したこともあったが、今オレが考えられるのは円堂くんのことだけだった。
空にしたグラスに入った氷を眺めながら、彼を待つ。時計を見れば、約束の時間まであと少しだった。

約束の時間、二十時ぴったりになり彼が入店してくる姿が見えた。デニムのパンツにTシャツという相変わらず服に無頓着そうな格好ではあったものの、彼が約束通り来てくれたことに安心した。
軽く席を立って、きょろきょろとオレを探している様子の彼に声をかける。ヒロト、と名前を呼んだ円堂くんは随分と明るい様子だった。
彼を席に着かせ、店員に大ジョッキの生ビールを二杯頼む。少し痩せたかな、と感じたものの、元気そうな様子だったことがひどく嬉しかった。

「元気だった?」
「うん、そこそこ。ヒロトはどうだった」
「オレもそこそこかな」
生ビールを煽りながら互いにいくらか質問をしては、それに答える。それを繰り返して、ふと気が付く。電話口では平淡な調子で喋っていた円堂くんが、面と向かうところころ表情を変えて話している。まるで中学や高校のころに戻ったかのような錯覚に陥った。
あのころとはまるで違うではないか。オレと付き合っていたあのころとは。オレがいない時間がそんなに楽しかったというのか。オレではない誰かが円堂くんを幸せにしてくれた、きっとそうなのだ。
あの時オレが強く願ったことが実現されているであろうという予測に、怒りを覚えた。なぜだ。なぜオレは嫉妬しているんだ。
そして、はっとした。何故嫉妬しているのか。もう自分自身の中でとっくに答えは出ていたのだ。

オレが円堂くんに会いたかった理由は、自分自身を見つめ直したいからだった。彼に会って、話して。そうすればきっと今の堕落した生活から解放されるのではないか。そう思ったのだ。
しかし蓋を開けてみれば簡単だった。オレは未だに彼にしがみついていたのだ。まだ円堂くんを忘れられないで、好きなままでいた。何故気付くことができなかったのだろう。

会話に一区切りがついたところで、俺は口を開いた。
「ごめん、円堂くん。さっき、嘘ついた」
「へ?」
「オレ、元気じゃなかったんだ。ずっと、元気じゃなかった」
訝しげな顔で首を傾げている円堂くんに、言葉を続ける。
「寂しかったんだ。寂しくて寂しくて死にそうで、腐ってて。いろんな人に迷惑かけて、怒られて、小学生みたいに馬鹿な生活してたんだ。全然、元気じゃなかったよ」
一気にビールを煽ってから彼を見ると、放心したようにぽかんと口を開けてこちらを見ていた。見開かれた瞳はまるで星のように煌めいていて美しい。やはり彼は幸せになったのだろう、そう思うと悔しかった。
「円堂くん」
一呼吸置き、唾液を飲み込む。先ほどビールを飲んだのに口の中はからからに乾いていた。
「オレは、きみのことをまだ愛しているんだ」

いつの間にかビールのジョッキは空になっていた。