淀む | ナノ
テレビ越しに彼を見たときの胸の高鳴りは今でも忘れられない。

「立向居ー!」
夕日が背を照らし長い影がグラウンドに落ちる。一人でタイヤを使った特訓をしていた立向居は、自分の名を呼ぶ声に振り返った。変声期を迎えていない高い声が耳によく通った。
顔を見るまでもなく、その声の正体はわかった。円堂さん、と名前を呼ぶと、その人は「やってるな」と大きな声で言った。
立向居は太陽に目が眩んだ。夕日の光は強く、目の奥がちかちかする。円堂の顔を見たかったが、逆光のためそれは叶わなかった。
円堂はジャージ姿で、左腕にサッカーボールを抱え立っていた。その手にキーパーグローブは嵌めていない。
立向居が円堂に駆け寄ろうとすると、円堂はストップ、と右手を前に出しながら言った。そして、抱えていたサッカーボールを立向居にぽんと放り投げる。立向居は慌ててそれをキャッチする。今まで夢中になって気付かなかったが、両の手に痛みを感じた。
「少し、話さないか」
先ほどまでとは違い、円堂のその声色は硬かった。立向居は円堂の顔を窺い見ようとし、ふと気付く。そうだ、彼の顔は見えないのだった。


ゆるゆると足でボールを蹴っては、またそれが返ってくる。そのことの繰り返しを少しの間続けると、円堂が口を開いた。
「なあ、立向居」
「は、はいっ!」
立向居は咄嗟に返事をしたため声が裏返ってしまったが、それはいつものことだと思い返した。いつもそうだ。この人と話すと緊張してしまう。
「お前、イナズマジャパンの一員になれて嬉しかったか?」
「もちろんです!」
円堂の声は静かだった。語尾の上がる調子やその声は年不相応で年下のようにすら感じられたが、しかしやはり円堂守とは立向居の尊敬するキャプテンであった。
円堂がボールを蹴る。そのボールはグラウンドの砂と擦れる音を立てて、立向居の足元へと辿り着く。
「でも、公式戦は二度しか出られてない」
円堂の声が少し低くなる。抑揚のないその声に、立向居は違和感を覚えた。円堂の意思が図れなかった。
「それでも、いいんです」
立向居はそう言いながら、ボールを円堂に向かって蹴る。円堂の背の向こうにはやはり夕日があり、眩しかった。
どうしてだ、と円堂は問いかけた。はて、と考えた立向居は、なにがですか、とさらに質問で返す。
「俺は韓国戦でスタメンを外されたとき、悔しかったよ。立向居だって悔しいだろう、ベンチで見ているだけだなんて」
円堂はボールを蹴り出さないで、足元に置いたままだ。ボールの影が円堂の足の影と混ざってひとつになっていた。
立向居は、なるほどと思った。円堂は立向居を案じているのだ。
立向居は一歩分足を前に出し、円堂に近付く。円堂は立向居の動きを見、ボールを蹴った。立向居は少し右側に軌道のずれたボールを足で止めた。

「俺は、幸せ者です」
上ずった声で放たれた言葉に、円堂は言葉の意味をはかりかねた。一瞬の沈黙が辺りを包む。カラスすらも鳴かなかった。
「円堂さんをあんなに近くでずっと見ていられるだなんて。俺は円堂さんを見ているだけで幸せです。幸せ者です」
「立向居?」
立向居はボールを強く蹴る。ボールは円堂の体から遠く離れた場所を飛び、塀にぶつかって跳ね返った。砂を跳ねるボールの音が響いた。
立向居はつかつかと歩きだし、円堂との距離を詰める。円堂は、動かなかった。

立向居は円堂に近付くと、自分の目線とほぼ同じ位置にあるその顔を見た。円堂は困ったような、泣きそうなような顔をしていた。
がしり、と音が立ちそうなほと強く円堂の手首を掴んだ立向居は、その手の平を自分の頬にすり当てた。
抵抗しないんですか、と問うと、円堂は顔を俯けた。立向居は普段なかなかグローブ越しでしか触れられないその手の感触を堪能する。自分のそれより大きくて、肉刺やたこができているざらざらとしたその手は、思いなしか柔らかく感じた。
「きっと俺は、円堂さんを愛しているんですね」
だから、試合に出られなくても幸せなんです。呟くように、囁くように言うと、円堂が顔を上げた。今度は、先ほどの表情に怒ったような表情が追加されていた。
立向居は自分の発言を恐れてはいなかった。この人の前では嘘などつけない。
円堂は、一瞬立向居の目を見つめると、すぐにそこから視線を外した。

「俺は、……俺だって…」
不明瞭なことをもごもごと言うと、円堂は立向居に掴まれている腕に力を籠め振りほどこうとした。しかし立向居もそれを良しとせず、円堂の手首をぎりぎりと掴みあげる。
「痛いよ、立向居」
それでも腕を離そうとしない立向居に、円堂は声を荒げて立向居の名前を呼んだ。円堂は立向居の顔を見た。立向居は笑っていた。
「言ってください、円堂さん。さっきの続き」
静かながら楽しそうな声を聞いた円堂は、背筋が寒くなった。怖い、とはまた少し違ったが、嫌な感じがした。
円堂は怯んで口を開く。
「俺は立向居が好きなんだ」
立向居は、やはり、と思った。最近の円堂から感じる視線が出会ったばかりのころとは違うことは薄々気がついていた。立向居にとっては嬉しい変化だった。
「でも、俺は立向居が好きなのに、立向居に嫉妬する。そんな自分に嫌気がさすんだ」
苦しそうな表情だった。立向居は円堂の言葉に、さらなる愛しさがこみ上げた。

「円堂さんが俺だけに汚い感情を向けてくれるだなんて、興奮します」
夕日か完全に沈みきって、辺りは暗くなっていた。