ここから始まる物語    [ 1/9 ]

その日は本当になんでもない日だった。
いつものように起きて、いつものように仕事して、打ち合わせに行って、いつものように疲れ切って家に帰り着く。
一般的には花の金曜日だけれども、土日が休みというわけでもないから私には関係ない。
そもそも恋人もいないし、飲み会の予定もない。

家でテレビを見てまったりと過ごして、仕事をして寝る。
それで終わりだと思っていた。



「ん?」


違和感に気付いたのは、玄関前で家の鍵を探していたときだった。
顔を肩にかけた鞄に向けるといういつもと変わらない行動の、いつもと変わらない視界の端に、いつもと違うものを感じたのだった。
手入れをサボりがちになってから自由に生えるようになった花々が、街頭の明かりにぼんやりと照らされているのが見えるはずだった。
しかし、そちらに目を向けると、街頭の明かりに照らされていたのは、可憐な花々ではなく、大きな塊だった。

いや、思わず動揺して塊なんて言葉を使ってしまったが、紛れもなくこれは人間だ。


しかも上半身裸の男だ。



変態!?


叫び声をあげそうになった口を押さえたのは、その人が俯きで横たわったまま、まったく動かなかったからだ。
もしかして、死体とかじゃないわよね。
それならば、すぐに警察を呼ばねばならないし、病人や怪我人なら救急車を呼ばねばならない。

そのためには、近づいて息があるかを調べないといけない訳で、私は書類鞄を一応盾のように持ち、勇気を出してゆっくりとその人に近づいた。


すぐ横まで来ても、起き上がってくる気配はなかったので、盾代わりにしていた鞄から、いったん手を離した。
邪魔になった鞄は、それでも万が一のためにすぐ手の届く範囲に置いておいた。


空いた手で、首の脈拍を測る。
微弱すぎて、自分の指の脈を感じているだけなのか、分からなくなった。
脈が駄目なら、呼吸か心臓の鼓動の確認を…
体は俯きではあったが、顔はさすがに横向いていたので、口元に耳を近づけて、呼吸を確認する。
苦しそうではあったが、微かに息をする音が聞こえた。
ほっと胸をなでおろす。




「良かった。生きてる…」



これで死体だったら、私素手で脈取っちゃったから、容疑者になるところだったわ。

でも、息が苦しそうなのは気になる。
俯きに倒れているからだろうか。
仰向きにして、気道を確保した方が良いのだろうか。
でも、もし頭打ってたら動かさない方がいいって言うわよね。
どうしよう…

悩んでいる間にも、息はますます苦しそうになっていった。

一か八か…
頭部に外傷がないかを確かめる。
顔色も悪くはなさそうだし、表情もつらそうではない。

彼の頭部を手で支えながら、体を仰向けにする。
仰向けにした後すぐに、気道を確保してあげると、
呼吸音から苦しそうな音がなくなった。

ふう。なんとか息は大丈夫そうだわ。

この男性はいわゆる細マッチョな体型のようで、予想していたよりも大分重かった。
吹き出た汗を手の甲で拭う。

さて、どうしたものか。
普通に考えて、救急車を呼んだ方が良い状況なのだろうけれども、何かが阻んでいてどうしてもその気にはなれない。
緊急時に何を言うかと思うだろが、気乗りしなかったのだ。

とりあえず、外に置いておくのもかわいそうだし、衛生的に悪いし、家にあげてしまおうか、という結論に至った。
幸い、庭に面しているリビングの窓は大きいため、頑張れば運びこめそうだ。

よし。
運び込んで、怪我の状態とか見てから、救急車を呼ぶかどうか決めましょう
そうしましょう。

家の鍵を開けて中に入り、荷物や上着など邪魔なものを放りながら、リビングへと向かう。
リビングの窓にたどり着き、そこから外を様子を伺うと、当たり前だが男性は変わらずそこにいた。
実は幻だったんじゃないかという気持ちはまだ半分くらいあるが、まだ幻は消えないようだ。
窓の鍵を開けて、窓を大きく開け放つ。
少し考えて、寝室から客用の布団を持ってきてみた。
窓から少し端が垂れるように布団を敷く。
これならサッシの部分で傷つくことはないだろうし、移動させるのも楽だろう。

窓から外へと降り立つ。
男性の両脇にそれぞれ腕を差し込んで抱え、そのまま引きずる。
部屋へとあがるときは苦労したが、全身を使い、何とか上半身は部屋へと引き上げることが出来た。
そのまま布団の力を借りながら、下半身も引き上げる。
全身を部屋にあげることが出来たときには、先程の比ではないくらい、汗だくになっていた。


「疲れた…」


もうひと頑張りと、布団をリビングの空きスペースへと移動させる。
まずは、ファーストミッションクリアといったところかしら。

開けっ放しであった窓を閉め、カーテンも閉めて、ようやくリビングを電気をつけることが出来た。
蛍光灯の眩しさに少しほっとする。
このままベッドに倒れこみたい。
だがしかし、明るくなった今からこそ本番である。
男性の傷の状態を確認せねば。

そう思い目を向けた男性の姿に息を飲んだ。



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