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沢山の笑顔を

温泉なんて何年ぶりに来たんだろう。

夜の冷えた空気の中、私は彼と少し離れた温泉へと足を運んでいる。

大学の友人が「行けなくなったからあげるね」なんて言って、笑顔で譲ってくれた優待券はペアチケットで。

「かなり混んでますね、イッキさん」

「きっと日曜日だからだね」

入場手続きをするだけでも大行列の有名な場所。

「あっ…」

「マイ?」

「必ず浴衣着用みたいですね」

数種類の浴衣から選んだものを着て施設内を巡るらしい。お土産屋さんや甘味処なども浴衣で見ることになりそう。

「ふーん…」

見本と私を交互に眺めて、笑みを浮かべる姿はとても綺麗なのに嫌な予感がする。

「脱がし…」

「駄目です」

「残念。君を感じられると思ったのに」

「は、恥ずかしいこと言わないでください!」

「真っ赤になっちゃって、可愛いよ」

ちゅっ、と頬に口づけられて思考は少しずつ溶けていきそうになる。まだ肝心な温泉に入ってもいないのに。

「早く浴衣を、選びましょう」

「じゃあ僕は……アレで君はソレ」

係の方に彼が頼んだのは、紺のシンプル模様入りのもの。普段からこだわりのある彼にしては、すぐにデザインを絞ったと思う。

私用にと選んでもらったピンクの浴衣もすごく可愛らしい。蝶と花を散らして、春を感じさせる色合いは自分好みのもので余計に気分が高揚していく。
「うん。やっぱり可愛い」

「選んでもらえて嬉しいです」

「まぁ、マイならどれも似合うと思うんだけどね」

「それを言うならイッキさんでしょう」

端正な顔立ちで、身長も高くてモデルさんみたい。服装もセンスがあるし…隣に立ってると一人だけ特別な雰囲気を放っていると錯覚さえ感じる。

「んっ…くすぐったいです」

頬に触れるだけのキスをした彼は、少し寂しそうな表情を見せていた。
「僕は君にかっこいいって、思ってもらえれば十分だよ」

「あっありがとう、ございます」

「それじゃあ、また後でね」

今までの恋人となった女性たちは、彼の瞳に惑わされたものだから…彼自身を好きになったとは言わない。

虚しさばかり募る恋愛に終わりを告げたきっかけは、私なのかな。

遠ざかる背中をいろんな感情がぐるぐるしている。

もちろん、私にとってはイッキさんはかっこいい恋人。

だけど…

一緒にいるのに、あんな寂しそうな笑顔を浮かべて欲しくはない。

「もっと、楽しんでもらわなきゃ!」

選んでもらった浴衣をぎゅっと抱きしめて、早足で更衣室へ向かった。


title by 雲の空耳と独り言+α
宝石言葉より エメラルド・幸福

後編に続く






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