溺れていく微笑みの誘惑
真夏ではないけれど。乾燥している空気が声を、歌を濁らせる。
ケホッ
小さく咳き込む。可能な限り抑えたはずの音も、彼女には聞こえてしまったらしい。
「一ノ瀬さん、休憩にしませんか?」
「そうですね。春歌が構わないのでしたら…」
「じゃあ、休憩にしましょう」
グランドピアノに見え隠れする姿が、ひょっこりとこちらを伺っていた。
「お水を持ってきますね」
明るい色の髪を軽く踊らせて、キッチンへと向かっていく。家の中だと言うのに、どこか楽しそうに見えた。
「どうぞ、一ノ瀬さん」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれたお揃いのグラス。たっぷりと入った水が渇いた喉は潤していく。
「……ふーっ」
「少し楽になりましたか?」
「春歌のおかげで、だいぶ楽になりました」
ありがとうございます、と素直に言えば頬を朱く染めて微笑む彼女。HAYATOではない私を見て、幸せそうに顔を綻ばせてくれる。それが何よりも嬉しい。
「春歌にも分けてあげます」
「え、だ大丈夫です!ちゃんとあ」
「知ってますよ?だから私の分を…」
私の為にと出された水を一口含む。春歌はこれから何をされるのか、想像していたらしい。
真っ赤な顔で焦ったように必死で逃げようとする。
「い、いち、一ノ瀬さん!待ってくだ…っ!!」
こんなに可愛いあなたがいるのに、待てるはずがないじゃないですか。
内心で呟きながら唇を交わす。驚いたおかげで開いたそこへ舌を這わせて口移しで流し込む。
「ん…んっ…」
「…っ…はぁ……ん…」
飲みきれなかった水が首を伝って広がる染み。腕の中でぼんやりとした表情で荒い息を零す彼女はギュッと手を握って心地好さに酔いしれていた。私の掌を重ねればビクリと肩を揺らす。
「春歌は綺麗ですね。こんなに愛らしい」
「…一ノ瀬さんの、いじわる」
「ふふっ、春歌が可愛いから意地悪してしまいますね」
「うー、」
ぷっくりと頬を膨らませてポカポカと叩く辺りが可愛い証拠だというのに…無自覚というか天然というか、可愛いとしか言えない。
「むくれないでください。どちらにしろ可愛く見えますよ?」
ジワジワとまた朱くなって、納得がいかないようだ。身体は素直で分かりやすい。
「あなたが…口移しなんてするから、いけないんです」
「そうなのでしょうね」
悪気はなかったけれど、お姫様の機嫌を損ねてしまったらしい。
「代わりに、しばらくこのままでいてください」
抱きついた状態を保てと言う彼女は、ちょうど心臓がある近くに顔を寄せた。耳を澄ませばもちろん服越しに鼓動が聴こえるのだろう。きっと忙しなく早鐘を打っている。
「一ノ瀬さんの鼓動が速くなりました」
「ええ」
原因は分かっているだろう笑顔を私に向けて、彼女は嬉しそうに身を委ねていた。
「一ノ瀬さんにだけ、あなたにだけは…たまに意地悪しますね」
このくらいの意地悪なら可愛いもの。あなたが想像する以上に私があなたを弄って、私だけを意識して欲しいから。
「あなたの意地悪なら大歓迎ですよ」
可愛らしいあなたの意地悪を、私は何倍にもしてお返ししましょう。
title by 空想アリア