幻想に溶けた微笑
急遽、撮影相手のモデルさんが来れなくなったらしい。それで代理が必要なのも分かる。
「春歌」
「もしもし、一ノ瀬さん?」
「今からAスタジオに来て頂けますか」
「えっ、何かトラブルでもありました?」
「まぁ…春歌が来れば問題ありません」
まさか、私に白羽の矢が立つとは思わなかった。衣装もメイクも担当の方がやってくださるけど、カメラに映るのは緊張してしまう。
「春歌、急に頼んでしまってすみません」
「お仕事ですしこういう時もありますよ」
そう言ってみたものの、緊張で心臓が煩くなるのは隠せない。顔は赤くなってるだろうし、手は軽く震えてる。
「本当にあの子で平気か?一ノ瀬」
「大丈夫ですから心配いりません」
「おまえが言うなら…信用するからな」
「ありがとうございます!」
後ろではそんな会話がされていて、ますます緊張感が走る。モデルさんと違って私は素人だから、監督さんが心配するのも仕方がない。
「大丈夫ですか?」
「ふぇ、あ、大丈夫です!」
「ふふっ、春歌は緊張し過ぎですね」
彼は既に撮影用の衣装に着替えていて、髪型もそれに合わせたモノになってる。今回のテーマは「天使と悪魔の恋」らしい。
「これを私が着るんですか?」
「そうですよー七海さん」
「モデルに合わせたものだけど、あなたなら着れるわ!」
衣装さんは楽しそうに手を動かしアレンジを施す。
「素がいいからメイクのやり甲斐があるわね」
メイクさんは何故か気合いが入っていた。そうして完成した私は彼の恋人役で、対になる白いドレスを纏っていた。
「背中が開きすぎじゃ…」
「いいの!あなたにピッタリのコーディネートなんだから」
「素が綺麗なのですから自信をもってください」
後から覗き込むように現れた彼。黒を基調にした衣装にモノトーンのセット。黒いキングサイズのベッド、所々に散る薔薇が色鮮やかに存在感を主張している。それらをぼんやりと照らす光が織り成す世界。
「春歌は私を見ていれば大丈夫です」
「それだけで…平気なのでしょうか?」
「私があなたの表情を引き出しますから」
‐感じた気持ちのままに‐
ちゅっ
「い、一ノ瀬さん!!」
「心配しないでくださいね」
撮影開始の声がかかった。一ノ瀬さんは?としての顔になり、妖しい光を宿す瞳が私を映す。
彼はベッドへ座り込む私へ絡みつくように動いた。
「あっ」
伸ばされた指先が首筋に触れる。近くに吐息を感じて、敏感な私にはなにもかもが刺激になってしまう。
「んっ」
「春歌」
恥ずかしさでギュッと目を閉じれば、耳元で囁かれる、心地好い声に再び開いてしまう。
「私を見てください」
「ふ、っ…一ノ瀬さ、ん」
生理的な涙が伝う頬に、彼は唇を寄せた。
「綺麗ですよ」
シャッターが切られるのも気にせず、紡がれる音に気持ちは躍るようだ。彼の声が全て、求める唯一。同じように彼に触れてみる。
暖かい手は私よりも骨張っていて、一回りくらい大きい。
「………愛してます、一ノ瀬さん」
ちゅっ
自然に言葉が零れた瞬間だった。まさか仕事で言うとは思っていなかったみたい。彼は先程までの雰囲気が嘘だったかのように素の表情をしている。
クスクスッ
それも数秒間だけの事。
「今日の春歌はイジワルさんですね」
「ふふっ。一ノ瀬さんが言うなら、きっとそうなんですよ」
お互いに身体を寄せ、息さえも溶け合う距離。もちろんカメラには死角を作っていないから、スタッフの皆さんにも見えている。
ちゅっ
「春歌は…とても可愛いですね」
交差する視線のみで本来の会話が成される。カメラの前…他者の前では口に出さない言葉たち。
「あいつら、完全に二人の世界を作ってやがる」
「え、えぇ…見てる私たちが恥ずかしいですよね」
「でも一ノ瀬さんと七海さん、見劣りせず綺麗に映えてます」
「流石だな…撮影はアップにするか」
見守る人たちの呟きを聴いて、私たちは微笑を浮かべる。
しばらくして撮影終了の声がかかると、我にかえった私はあまりの至近距離に火を吹きそうになった。それを見たスタッフさんたちが呆れたように笑い、隣にいた一ノ瀬さんに連行されて帰宅。
後日。発売された雑誌を買って二人で見てみると、そこには黒い世界に色を纏った私たちがいた。中央に自分とは思えない私と一ノ瀬さんが映っている。
はぁ…
「仕事とはいえ、春歌がカメラに映るのは勿体ないですね」
「へ?どうしてですか?」
大きな溜息をついた彼は、私の首筋に顔を寄せて呟く。
「あんな雰囲気を醸し出しては、悪い虫が寄りそうですから」
「悪い虫?」
虫ってあの生きてる虫の事でしょうか…意味がわからず聞き返せば、困った表情でまた溜息をつく。
「あの時の春歌が別人のようですね」
苦笑いしながらピンナップに触れる彼。そこにいるのは、どこか妖しい笑みを浮かべる私だった。