しまった、思った時には身体が傾いていた。
「っ、シャチ!」
意識が無くなる前、誰かが名前を呼んだ、気がした。
「っ!!」
己の呼吸音で目を覚ました。
走り回った直後のようにどくどくと脈打つ心臓と、汗でべたりと肌に貼り付いた服が不快感を膨らませる。
大きく酸素を吸い込んで、どうにか肺に取り込む。落ち着け、落ち着け、頭の中で繰返し言い聞かせながら胸元のシーツを掴んだ。
「は、っ…ぁ、は、…」
幾分呼吸が整った所で、シャチはぐるりと視線を巡らせた。どうやら医務室のベッドの上のようだ。
嗅ぎ慣れた筈の薬品の匂いがやけに鼻を突いて、シャチは僅かに目を細める。
静かすぎる部屋に一人、ただ漠然と思考を働かせた。
嗚呼、おれはどうしたのだろう。
そうか、倒れたのか、戦闘中だったのに、船長に迷惑かけたかな、ペンギンが此処まで運んでくれたのだろうか。
おれは、どうして今更血に恐れているのだろうか。
「シャチ」
「っ!」
ふいに掛けられた声に、シャチの肩が跳ね上がる。声の主は船長であるローで、いつの間にかベッドサイドに立ってシャチを見下ろしていた。
「…せん、ちょ…」
「吐き気は?頭痛と腹痛は?」
「…無い、です」
「目は?見えてるか?」
「はい、正常だと思います…」
気遣うような口調で質問をしながら、ローはシャチの首筋に手を当てて脈を図る。
ひやりとした手は心地好く、向けられる視線が柔らかい事にもシャチは擽ったさを感じた。
「あの、おれ…」
「最近は無かったのにな。ま、こればっかりは治るモンでもねェからどうしようも無いが」
「すんません、…戦闘中に」
「良い。謝るな」
ぐしゃりとオレンジの髪をかき混ぜてから、ローは緩く微笑んでみせる。
「後でバンが粥作って持ってくるから、それまで寝とけ」
「……はい」
今の自分はどうしようもなく情けない、酷く足手まといだ。自覚しているだけに悔しくて仕方が無い。
シャチが唇を噛み締めたのに気付き、ローはもう一度「寝てろ」と呟いて布団を被せた。
シャチの視界を布団の白が埋める。
それでも、目蓋を閉じればそこに映るのは血の色だった。
シャチは昔、文字通り血を浴びたのだ。
頭の先から、角膜の表面に至るまで血染めになった。
誰の血かなどもはや分からない、誰が敵で誰が味方なのか分からない、そんな世界に生きていた。
そこから救い上げたのは、ロー。
地獄の底に垂らされた一筋の蜘蛛の糸を、シャチは確かに掴んだ。
救われて、掬い上げられて、シャチは今此処にいる。
けれど稀に思い出す。あの赤を、むせ返る臭いを、叫び声を。思い出して、たまらなくなるのだ。
一般的にトラウマと呼ばれるであろうその衝動を、シャチは心に飼っていた。時折それが暴れては、意識を飛ばす事になる。
ローはシャチの目を治し、心を治し、共に歩む道を示したけれど、根底に巣食う悪夢からは解放してやれなかった。
シャチは自分の問題だと理解している。
忘れようなどと考えてはいない。
受け入れて、押さえ付けるしか方法はないと知っている。
頼りたいと、すがりたいと思う心は悪じゃない。
昔からローに言われている言葉を思い出す。
シャチは強く目を閉じて、眠りの淵へ意識を沈めた。
(20120511)