【田夏】時間軸のその向こうで



 コンコン、コンコン。
 何か固いものを叩くような音に、夏目はそっと瞼を持ち上げる。視界がぼんやりとしてよくは見えないが、とにかく夜なのだということがわかった。
 瞬きを、一、二回。繰り返す度に世界がクリアになって、暗闇に慣れた目が自室の天井を映し出す。
 体の上には布団。差し込む月明かりがそれをうっすらと照らして、夏目は目を軽くこすった。
 
 先ほどの音は何であったのか。目を瞬きながら、そっと音のした方向を見やる。多分、窓を叩く音だったと思うけど。
 カーテンの閉められたそこに視線をさまよわせると、見たことのあるシルエットがそこにある。まんまるくて、頭の上の方に小さな耳が二つ。

「……ニャンコ先生。こんな時間までなにやってたんだ」

 夏目が布団から出て窓を開けそう問うと、窓から部屋に入った先生は何やら不思議な声を上げながら先ほどまで夏目が寝ていた布団まで足を進めた。その足取りが少し危なっかしい。またどこかで飲み会でもしてきたのだろうか。

「頼みごとをしようと思ったらとんだ無駄足だったからその辺で酒をひっかけてきたのだ」
「頼みごと?」
「ああ。昔に交流があった妖怪でな。ちょっと特殊な能力のあるやつで、今回そいつにやってもらおうと思ったことがあったんだが無駄足だった」
 ごろん、と布団の上に寝転がる。時刻は深夜。夏目も眠くないわけではない。けれど話の内容も少し気になって、布団を占領している先生を持ち上げ自分の布団に潜ると、腹の上に丸くて少し重いそれを置いた。

「無駄足って、何だ? 見つからなかったのか?」
「いいや、死んでたんだ。数年前にな」

 ドクン、と心臓が一回大きく音を立てる。

「死……って、なぜだ…?」
「なんでも祓われたらしい。人間ごときにやられるとは、情けないやつだ」

 腹の上で先生が、ぺろぺろと毛づくろいをする。
 口では友人――という関係ではないと本人は言いそうだが――の死を語っているのに、赤い顔の彼はいつも通り何でもないように右足を舐め、何でもないように夏目の腹の上でくるりと丸くなった。

 そうだ、妖怪も死ぬんだもんな。
 夏目はその様子を見守りながら、微かに眉間にしわを寄せた。
 妖怪は不死身じゃない。完全でもない。もちろんきっと、先生だって。

「先生も気をつけろよ」
 小さく呟くと、もう寝る体制に入っていた先生が顔を上げた。
「何をバカなことを言っている。私がやられるわけがなかろう」
「でも、何があるかわからないだろ。実際ちょっと危なかったときがあったんだから」
「……けれど死にはせん」
「自信過剰はよくないよ」

 話が平行線になることを見計らってか、先生はそれ以上返してこなかった。そのかわり小さくため息をついて、それから夏目の頬をべろりと舐める。ざらざらの舌に目を眇めた。

「私より自分の心配をしたらどうだ夏目。そもそも人間という時点で脆い存在なのに、お前は死に急ぐ傾向があるからな」
「そんなことしないよ」
「どうだか」

 ぷい、と顔が背けられる。明かりを落とした部屋の中に沈黙が落ちてきて、夏目はそっと腹の上の重石のようなぬくもりを撫で、口を開いた。
「……先生、」
「なんだ、うるさいぞ夏目。私はもう寝る。邪魔をするな」
 けれど遮られてしまう。マイペースはいつも通りだけれど、酒が入ると身勝手に拍車がかかるから困る。

 先生、ともう一度呼びかけてみるが、返事はない。
 眠ってしまったのだろうか。
 暗闇の中、しっかりとは見えない天井を仰ぐ。小さい頃はほぼ毎晩そこに何かしらのあやかしが張り付いていたものだが、最近はこうして先生が近くで眠っているせいか物音もしないほどに静かだ。
 胸を撫で下ろし、そっと目を瞑った。




× × ×





「あれ、夏目?」
「……田沼」

 振り返ると、河原の風に色素の薄い前髪がなびく。夕日は赤というよりは橙色に近い光を放っていて、水面に乱反射するそれに目を眇めた夏目は、少し小高いところにいるその人物に視線を投げた。

 なにしてるんだ? なんて聞きながら、田沼が自分の斜めがけの鞄に手をかけた。そしてそれを肩から外すと、夏目の隣まで足を進めそこに腰を下ろす。今日の風は強くもなく弱くもなく、夏目の真似をするように河原の草むらに座り込んだ田沼の、黒髪がそよそよと揺れた。

「放課後からずっといるのか? まだ夜は冷えるし、水の近くは寒いだろう」
「うん、まぁそうだね。でもちょっと、考えごとをしていたから」
「…あ、そうなのか。ごめん、邪魔したよな」
「えっ…あ、」
 悪い、と腰を浮かそうとする田沼の手首を、反射的に掴んでしまう。その行為に頭が追いつくのに若干時間がかかって、脳に伝達したその瞬間、赤面とともに手を離す。目を瞬いた田沼は驚いたような顔をして、そしてこれは夕日のせいだったかもしれないけれど、その顔が赤くなっているような気がした。

「ご、ごめん。…い、いいんだ。ここに居てくれ。深刻な話じゃないし、それに…今は人と一緒にいたいから……」
 言葉を濁した夏目を、深く追求しないのが田沼という男であった。地面に生える青々とした草に目を落とし、そう小さく呟いたその先を彼は訊きはしないが、その代わり口を噤んだまま、じっ、とこちらを見つめてくる。

 心配してくれているのか。ふと目をあげてみると、案の定覗き込む田沼と目が合った。瞬時に心臓が大きく音を立て頬が紅潮するものだから、夏目は一瞬ののちに目を逸らす。

「……特に、悩み事ってわけじゃないんだ」

 風が止んでいたせいで、小さく呟いたそれはしっかりと田沼の耳に届いたようだった。曖昧なその言葉に彼が首を傾げるのを見て、「物思いに耽ってただけだよ」と付け足す。

「ーー物思い?」
「…うん。ちょっとね。昨日、ニャンコ先生の話を聞いて、思うところがあって」
 ポン太が? と聞き返されて、その響きの間抜けさに笑う。指す対象は間違ってはいないけれど、その名前はどうなのか。
 ひとしきり笑って、それから河原に目を投げた。

「…友達の妖怪がさ、死んじゃったんだって」

 夏目の言葉に、隣から息を呑む気配がする。そのことにひどく安堵した。普通の人間ならこんな脈絡もなく妖怪の話なんか振られたところで、きっとこんな反応はしない。
 田沼だから。わかりあえるから、きっと。

「……妖怪も、死ぬんだな」
 いや、そうか、祓われれば――そこまで言って口ごもった田沼が、顎に手を当てて何かを考えていた。真剣な表情でしばらく押し黙り、それからゆっくりと口を開く。

「ポン太は、その場面を見たのか?」
「いいや。訪ねに行ったところで、亡くなっていることを知らされたらしい。明るく振舞ってたけど気にしていると思うよ。…それを見て、なんか色々考えてたんだ」
「……『妖怪の死について』を?」
「ううん。そんな難しいことは考えてないよ。…ただ俺は、ニャンコ先生よりも先に死ぬことになるなって、そんなことを思ってただけ」

 足元に落ちていた小石を拾い上げる。手の中にすっぽり収まるサイズのそれは水流に削られたものなのか角が取れて丸かった。夏目はそれを川と出来るだけ水平に投げつける。手から離れたそれが数回波紋を作って、ポチャリと沈む。

「…夏目は」
 一緒になってそれを目で追いかけていた、田沼がそっと呟いた。
「寂しいのか?」
「……え…」
「妖怪よりも先に死んでしまうことが、寂しいのか?」

 それはたぶん夏目の言葉を否定するための疑問ではなく、ただ単純に事の真意を問おうとしていた。真っ直ぐ見つめてくるその目を見つめ返しながら、夏目は緩く首を振る。

「それはちょっと違うかもしれない。…多分、なんかちっぽけだな、って思ったんだ」

 小石をまた拾い上げる。それを先程と同じように川へと投げ入れるが、サイズが小さかったからかもしくは形がいびつだったからか、微塵も跳ねずに水の中に消えた。

「俺の――人間の存在なんて、妖怪の時間軸から見たらちっぽけなものだろ? 今はうちに入り浸ってる先生でも、百年後、二百年後…俺は絶対生きてはいないから、その時に先生が俺を覚えてるっていう確証はないんだなって、そう思って……」

 だんだんと尻窄みになるそんな言葉を、もごもごと口の中で回す。目線を下へと落として、橙色の草と自分のスニーカーが視界を占領する。

「……なんだ、やっぱり寂しいんじゃないか」

 そうしているうちに降ってきたそんな言葉と一緒に、田沼の手がぽんぽんと夏目の脳天を軽く叩き、おもわず驚いて目を丸くした。
 顔を上げると、困ったような、それでいて甘く優しく微笑むような表情の田沼が見えて、おまけに頭の上に乗った手のひらでそっと髪を梳くように撫でられてしまっては、赤面する他ない。
 戦慄く口で田沼の名を呼ぼうとしたが、それよりも先に弾かれたように手を離した彼に謝られる。

 ごめん、からの、いいんだ気にしないでくれ――という一連の台詞をいつも通りに。それから一息ついて田沼の方が口を割った。

「…時間じゃないと、俺は思うよ」

 え? と夏目が聞き返す。すると田沼は彼の足下に落ちていた小石をいくつか手にとって何やら選別するような仕草をしてから、そのうちの一つを川へと投げた。それが水面で一回だけ跳ねて、沈む。

「――少なくとも俺は時間じゃない。…夏目と出会ってそんなに時間は経ってないけど、人生で一番大切な時間を過ごしている自覚があるし、これからこれ以上のものは無いとも思ってる」
 ぱっぱっ、と手を払いながらの田沼の言葉に、目を丸くした。
「……大袈裟だな、田沼は。これから色々な出会いがあるんだ。そうやって制限してしまうのはよくないよ」

 頬がじりじりと焼けるような感覚があった。けれど俯いてしまわないよう田沼の黒髪に目をやって、それから顔を上げた彼と目が合い、思わず視線を逸らしてしまう。
 左耳の方で、風に混ざって田沼が口を開いた。

「いや。俺が好きでそう思ってるだけだ。…あ、いや、好きっていうのはそういうことじゃ…なくはないけど、そういう意味じゃなくて」

 えーっと、と口ごもってしまった田沼が、自分の頭をガリガリと掻いて、しばらく唸ったあとに言葉を続ける。

「あー…だからつまりなんというか、夏目の存在は全然ちっぽけなんかじゃなくて、その」
「…………うん」
 俺の中では、とか、人間の尺度だと、とか、まとまらない言葉を断片的に並べる田沼に、笑いながら大きく頷いた。

「ごめん、おれあんまり言葉が上手くなくてさ」
「十分わかるよ。……ありがとう、田沼」
 礼を口にすると、夏目の笑顔につられてか田沼もはにかんだ。それが酷く心地よくて、河原を撫でる風に乗せて、聞こえるか聞こえないか、もう一度「ありがとう」と呟く。

 ザァ、と風が草原を撫でる。それが二人のシャツを乗り上げて、髪を梳き対岸の方へと流れていった。

「風が冷たくなってきたな。…そろそろ」
「うん、…帰ろうか」

 手についた砂を払っていると、目の前に手が差し伸べられる。見上げるとそこには田沼の筋張った手があって、夏目は出来るだけ体重をかけないようにその手を掴み立ち上がった。

 山の後ろに隠れようとしている夕日が、赤と黒のコントラストを生み出している。足下で砂利が擦れる音がして、脇道にある日が射し込まない鬱蒼とした木々の中からは、何やら微かに呻き声が聞こえた。
 次いで、木の上のカラスを認識した。それが飛び立ち田沼の近くを掠めたが、焦ったのは夏目だけ。彼は特に気にすることもなく、風で乱れた前髪を軽く手櫛で梳く。視線の移動はなかった。

 ああ、なんだ。という言葉を飲み込む。そしてそっと瞬きをした。

 



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