前編05



二日後、約束通り玻璃に会った。樹季は駅前で待ち合わせた玻璃に忘れ物を手渡しながらも、真偽の程を確かめたく思ってぎこちない態度を取ってしまっていた。

今日は雪だるまを作りたいからと、玻璃は例の公園へ足を進めて行った。何でも、作ったことがないので一回やってみたいのだそうだ。
雪の降る地域に住んでいながら雪だるますら作ったことがないとは驚きだ。もしかしてここらに越して来たのは最近で、生まれは違うのだろうか。それも知らない。知らないことが多すぎる。

「雪玉というのは、直径何センチメートルくらいですか」
「いや、決まりはないから好きなように作るといいよ」
玻璃は口調こそ静かなものだが、少し上擦った声が興奮を隠せずにいるようだった。今日の公園にもまた、人の踏み入れた痕跡はない。屈んで雪玉を転がす玻璃の下駄だけが、平らな地面に規則的な足跡をつけていく。樹季はそれを暫くぼうっと見守っていた。
青白い世界に佇む雪女。最初はそう思ったものだった。それがまさか男だったなんて。つまりは雪男ということになるのだろうか。けれどそんなイメージは全くない。今も目の前のその人は消え入りそうに儚くて、ぞっとする程美しい。
ふと樹季は玻璃の首元に視線を投げた。男女の体の差が出るならば、おそらく首と胸と手と足だ。胸と足は着物に隠れてしまっているし、手は手袋ですっぽりと覆われている。残るは首しかない。けれどそこには、樹季があげたストールがきっちりと巻かれていた。当然だ。外に出る時に肌をさらすと霜焼けになると教えたのは、他でもない樹季だった。なのに外してみてくれと思うのは理不尽な考えだろう。
ならば室内にいる時はどうだったか。それを考えてはっとする。どんなに記憶を遡ったところで、脳裏に焼き付く玻璃はいつでもストールを巻きつけていた。

「タツキ?」
声をかけられて我に返る。至近距離に近づいた玻璃の目が、ぱちくりと不思議そうに瞬いていた。
「どうかしたんですか?さっきからずっと呼んでいるのに、何故返事をしてくれないのです」
「あ、ああ。ごめん。ちょっとぼーっとして」
考え事に集中しすぎて、全く聞こえていなかった。不審に思われるのも無理はない。
「何かあったんですか?」
「そういうわけじゃないよ」
「それならばどうして?」
「どうしてって、なにが?」
「僕に何か、話したいことがあるような顔をしていますよ」
ギクリとして、つい顔が引きつる。こんなに近いところで顔を合わせているのだ。それを玻璃が見逃すはずもなかった。
「何かあるなら言って下さい」
「いや、大したことじゃないから」
「大したことでなくても、言った方が楽になることもあります」
聞きたい、聞きたい。教えて欲しい。その気持ちは本当だ。でもどう切り出すべきかがわからない。それに真実を知って、傷付きはしないだろうか。
「いや、言うほどのことでもないよ」
傷付くというのはどちらがだろう。自分の方か、それとも玻璃の方か。

「僕のことについてですか?」

白い息と共に放たれた言葉に不意打ちをくらって、思わず目を剥く。すぐに取り繕おうと表情を和らげたが、もう手遅れだった。
「当たり、ですね。……いいんです。いつかこうなるのはわかっていたので。正直に言って下さい。巾着の中身を見たんでしょう?」
そんなことを言いながら、玻璃はふっと哀しげに微笑んだ。罪悪感と焦燥感と戸惑いが、一気に押し寄せてくる。
「ごめん、わざとじゃないんだ。鈴を入れようとしてたまたま目に入って、それで」
こんな言い訳が通るはずもない。それなのにそんなことばかりが零れ出る。
「どこまで見ました?学生証を見たんですか?」
「あ、うん」
「では、僕の名字は?」
「た、たちばな」
「ええ、そうですね。では、僕の性別は?」
言葉に詰まる。答えていいものだろうか。答えなくてはならないのだろうか。
「もう一度聞きます。僕の性別は?」
小さく唇がわななく。
「……おとこ……?」
消え入るくらい小さく答えた。けれど玻璃の耳にはしっかり届いただろう。もう取り消せはしない。

少しの沈黙があった後、雪玉を転がしていた玻璃がすっと立ち上がった。そしてこちらを真っ直ぐ見据えて口を開く。
「帰ります」
「え」
「帰ります。今日、会えてよかったです。それと今までありがとうございました」
その言葉の意味するところをわかってやれないほど鈍くはなかった。言い放ったきり走って逃げようとする彼の手首を捕まえる。ほっそりとした腕だ。
「離して下さい」
「どうして」
「もうあなたとは会いません」
「なんで」
「だって……軽蔑したでしょう?」
抵抗していた手から、ふっと力が抜けていく。俯いてしまったため、その表情は見えなかった。
「軽蔑?俺が君を?どうしてそう思うの」
「だって!」
いつになく声を大きくした玻璃が勢いよく顔を上げる。
「男なんですよ。男なのに、こんな格好して。気持ち悪いと思うのが普通です」
「俺は気持ち悪いだなんて思ってないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
ピシャリとそう告げる。すると玻璃は一瞬驚いた顔をしてから、また力無く顔を伏せてしまった。繋いだ手は、そのままに。
「軽蔑なんて全然してない。ただ俺は、理由を聞きたいだけなんだ」
「理由?」
「どうしてそんなことをしているのか、それが知りたい」
その言葉を聞いて、玻璃はぎゅっと眉を寄せてこちらを見つめてくる。苦しそうな表情だ。
「言ったら多分、嫌われてしまう」
ポツリと、狭間から掠れた声が漏れる。
「だから出来れば言いたくない。……嫌なんです。あなたに嫌われるのがとても嫌だ。怖くて苦しくて。それならばいっそこのまま消えて、僕のことなど忘れて何もなかった事にしてくれた方がいい」
「嫌いになんかならないよ」
「まだ何も聞いていないのに、どうしてそんなことが言えるんですか」
「どうしても」
玻璃の目が『そんなの信じられるか』と、はっきりそう訴えていた。確かにその通りだ。信じろというのは嘘臭い。けれどそれは本心だった。掴みきれない何かが、きっと大丈夫だと囁く。むしろ彼から逃げることの方が悪である気がしてならない。
一歩だけ近くに踏み寄る。すると玻璃が一歩だけ後ずさる。捕らえた手首を心持ちしっかり握り直すと、ふらふらと視線を泳がせた玻璃が、ようやく口を開いた。
「なら、嫌いにならないと、誓って下さい」
「いいよ。誓う」
「それで、もし嫌いになっても嫌いになったと言わないで下さい」
「そんな心配はいらない」
そう言葉を返したら、ややあって捕まえた手首がするりと抜け、樹季のコートの胸の辺りをくしゃっと掴んだ。その動きに気を取られた瞬間、玻璃が重たそうに口を割る。

「僕はずっと、自分は女であるべきだと思って生きてきました」
震える息を吐き出し、布を握る手が力を増す。
「僕の母は、僕にそっくりだったそうです。出産してすぐに亡くなって、おまけに写真も残っていないので見たことはないのですが、祖母がいつもそう言っていました」
玻璃の祖母は実の娘である玻璃の母を溺愛していた。しかし母は病弱で常に寝間着姿のまま生活していたため、それを悔やんでかその娘の生き写しのような玻璃に、叶わなかった夢を託した。女物の着物やワンピース、時にはウェディングドレスを着てみてくれと言われたこともあったらしい。そんなようなことを、玻璃はつらつらと口にしていた。
「祖母は可愛い可愛いと誉めてくれました。最初のうちは、それが嬉しくて女装を続けていたんだと思います」
淡々と語る玻璃の表情はピクリとも動かない。
「じゃあ女装は元々趣味だったってこと?」
「そういう訳でもないです。あくまで祖母に喜んでもらう為の手段でしかありませんでした。それに、むしろ興味なら普通の男性用の服の方にあります。着ていた時期もあったのですけれど、すぐにやめました。色々と面倒だったので」
「面倒?」
「祖母に構って貰えなくなるだけではなく、その他にも色々と。僕の顔は女にしか見えないから、男の格好で出歩くとむしろおかしく見えるんです。だから中学高校はそれが大きな悩みでした。女の癖に男の制服を着ているのは何故なのだと言われ、散々苛められました」
子供というものは純粋だからこそ残酷だ。確かに目の前の玻璃は、男だと明かされた今ですらそうは見えない。

「それなら、何であの写真は男の格好で写ってたの?一旦は女装を止めたってこと?」
「はい。大学では男として生きて行こうと思ったんです。いい加減祖母から自立しなければと思って。けれどすぐに、また女装をし始めてしまいました」
「え、どうして?」
「それは……」
ええと、と返答が濁る。先程までは尋ねればポンポンと答えが返ってきたのに、急に黙りこくってしまった。その視線から何かを考えているのがわかる。
「あの……座りませんか」
少しの沈黙の後、玻璃は流し目でベンチを指した。急に言葉を出し惜しみし始めるだなんて、そんなにも言いたくないことなのか。
玻璃が例のベンチに腰掛けようとしたところで、樹季はその手を引いた。
「そっちはまだ濡れてる。右側に座って」
かろうじて積もってはいないものの、そこには溶けた雪の名残がある。だからそう勧めると、玻璃は一瞬だけ虚をつかれたような顔をし、そしてそっと腰を下ろした。樹季はそのベンチの裏へと回り、その木製の背に組んだ両腕を乗せて寄りかかる。
それで?と玻璃に続きを促すと、少し躊躇ってから軽くこちらに体を向けて話し出した。
「大学に入ってから、女と間違えて声をかけられる回数が格段に多くなったんです。最初のうちは嫌だったのですが、そのうちそれを利用することを思いついてしまって」
「え、どういう……」
いきなり飛躍した話に頭がついて行かず、眉根を寄せた。
「あなたには縁のない話だとは思うのですが。でも、知ってはいるはずです」
読めない行間に首を捻る。玻璃はこちらにちらりと目をやってから、深く息を吸い込んだ。
「……僕は、男です」
「うん」
「でも、僕は男が好きなのです」
「なっ……」
思考が一瞬ショートを起こす。男が好きな男。それを何というのだったか。
「つまり僕はいわゆるゲイです。ホモセクシュアルと言った方がわかりやすいかもしれませんね」
ニコリと笑ってはいるが、その顔の裏には余裕のなさが滲んでいる。ここで動揺してはいけないのだと、樹季は必死に気を張った。
「え、でも、そこに女装がどう関係するの?別に男のままでいいんじゃ」
そう口にすると、玻璃が腰を折って前へと手を伸ばし、一本の細い小枝を手に取った。
「世の中では、僕のような性癖を持つ人間はそういません。全然いないとは言わないけれど、やっぱり少ないです。普通の男の人は、女性に恋をする」
言いながら玻璃は雪に小枝を突き立てて、足下にぐるりと大きな円を描く。
「例えばここに沢山の人が居たとして、中から恋人候補を探すこととします。もしタツキが選ぶとしたら、まず第一段階として考えることは何だと思いますか?」
「……まず?」
不思議な質問に首を傾げつつ答えを探していると、玻璃は円を縦方向に半分に割った。そしてその左半分に大きなバツ印をつける。
「質問には答えなくてもいいです。けど今タツキはおそらく、群団の中の男性の存在を完全に無視し、この残された半分の『女性の集まり』を見つめているはずです。違いますか?」
「え、あ……」
図星を刺されて言葉に詰まった。
「それが普通の考えです。僕もそれを知っている。だからこそ女性に化ける意味がある」
ふ、と嘲けたような笑いが混じる。
「僕が男の群団にいたら、タツキのような異性愛者と恋仲になることなんて夢のまた夢になる。けれど、もし女性だったなら?女性の群団の中に身を置けば、選んで貰える可能性がゼロではなくなるでしょう?」
「それは……」
派手に引き裂かれた円の左半分を見つめていたら、そこに小枝が投げ出された。
「僕の考えはこうです。世の中にはゲイじゃない人の中にも、とっても素敵な人がいる。その人と恋をするには、恋愛対象という最低限のスタートラインに立たなければならない。ならば僕はそこに並んで、この容姿を逆手に女性としてその人を振り向かせる」
かちりと視線が絡む。
「そうでもしなければ、意識させることすら叶わないのです」
その涼しげな目元が、哀しい笑みを作った。それはまるで精巧に作られた人形のごとく無機質で、それが無性に胸を締め付ける。
言いたいことはわかる。同性愛者として苦しい部分があることも、自分の容姿を利用しようと考えることも、何となく理解は出来た。けれど実際それで上手く行くのだろうか。もう子供でもないのだから、肉体関係に持ち込まない男ばかりではないはずだ。そうすれば隠し通すことなど無理に等しいのではなかろうか。そう尋ねてみると、玻璃はあっさりと首を縦に振った。
「ええ。その通りです。付き合えば大半はセックスをしようと言われて、性別を明かす羽目になります」
「え、それは大丈夫なの?」
「大体は。してしまえば考えが変わるのかもしれませんね。そこからゲイに目覚めてしまう人もいました」
「そ、そうなんだ……」
あられもない玻璃の言葉にたじろぐ。もし自分が誘われたらどうだろう。そんな考えが頭を掠めたが、すぐに振り払った。

「けど、上手くいくばっかりではないんですよ?」
きゅ、と膝の上の拳を握り締めた玻璃が続ける。
「何年か前のことです。僕は当時、すごく、すごく好きな人がいて、いつものように女性のふりをして恋人にまで漕ぎ着けました。それで暫くしてそういうことになって、男だと明かしたんです」
食い込んだ指先が皮膚を更に白く染めていく。
「そうしたら彼は勿論驚いて。僕はそれでもいいと言ってくれるのを期待していたんです。でもダメでした。嘘をついたことに呆れられてしまったんです。何で最初からそう言わなかったのかと。僕はその時、初めて自分のしたことを後悔しました」
うなだれた玻璃は、自業自得でしょう?と力無く嘲笑ってから、その出来事のすぐ後に、祖母が亡くなったのだと告げた。
「女の格好をして嘘をつくなと言われ、誉めてくれる人もいなくなって。僕にはもう女装をする意味など無いのだと思いました」
玻璃が大きく息をつくと、ふわりと白が滲んでいく。
「けど今さら、男の格好なんて出来ないんです、僕は」
「え?」
「だって、おかしいでしょう?僕が男の格好なんかしたら」
「どうして。おかしくなんかないよ」
樹季の言葉を振り切るように激しく、玻璃が首を横に振る。
「駄目です。人は、その人に相応しく生きるべきです。男の人は、男らしいからこそそうあって然るべきなんです。でも僕には、そんな『らしさ』の欠片もない。女顔で、男の人が好きで、これではまるっきり女性だ」
語尾を小さくした玻璃の顔が、苦しそうに歪んでいる。それがあんまりにも哀しく見えたものだから、つい後ろから腕を回してしまっていた。両腕で玻璃の頭を抱え込み、あやすようにその艶のある髪を撫でる。
「ひとつ良いことを教えてあげるよ、玻璃」
そのままポツリと呟く。
「俺も含めて大半の人は多分、相応しいとかそういう難しいことは考えてない。考えるのは、自分がどうしたいのかってことだけ。俺は玻璃のしていることを間違いだとは思わないよ。そうしたいって言うんならね」
腕の中で硬直した玻璃が、小さく息を呑む気配がした。
「玻璃はこれからどうしたいの?」
「……できるなら、男になりたいです」
はっきりとそう告げる。それならそうすればいいと樹季が言うと、玻璃はまた首を振った。そして、それは怖いと呟く。
「何が怖いの?」
「僕には男らしい魅力なんてないから、だからきっと幻滅されてしまう。それが怖いんです」
しゅるしゅると玻璃が小さくなる。樹季はうーん、と低く唸ると、少し考えてから言葉を繋げた。
「ちょっと俺、今から無責任なこと言うよ」
ふと、玻璃が目を上げる。
「俺は正直、玻璃が男だろうと女だろうとどっちでもいいんじゃないかと思ってる。でも別に、玻璃の悩みが大したことないっていう意味じゃないよ?ただね、男らしいとか女らしいとか、そういうのって何か違うじゃん」
「……?」
「月並みな言い方しか出来なくて悪いんだけどさ、男とか女とか性別を決めたところで、玻璃の中身がまるごと変わっちゃうわけじゃないでしょ。少なくとも俺はそう思ってるし。玻璃の魅力っていうのは、玻璃が玻璃であるから存在するわけであって、性別に左右されるものじゃないと思うんだ。……意味伝わった?」
そっと覗き込むと、呆気に取られた表情のままの玻璃がこくりと頷く。
「だからどっちでもいいんだよ。どっちでも君は変わらない。自分で決めたことが、多分この場合一番正しいんじゃないかな」
薄く開かれた桜色の唇が、小さく波を打つ。顔を綻ばせて笑いかけると、玻璃の目からぽとりと雫が零れた。
「ご、ごめんなさい」
「なんで謝るの」
ごめんなさい、ともう一度言って、慌てて口を押さえる。その様子に吹き出すと、玻璃の目元も小さく笑った。
「それでも、まだ怖い?」
そっと尋ねると、小さな頭が横に振れる。
「あなたがそう言ってくれるのなら、怖くない」
涙を押し殺すあまりに掠れるその声が、途切れ途切れにそう呟いた。
「これからはさ、不安になったら俺に言って。力になれるかはわからないけど、一人で悩むよりずっと楽だし、答えも見つかり易いんじゃないかと思うから」
玻璃の耳殻へそんな言葉を吹き込む。するとその瞼の端から光が筋を引いて頬を伝い、それが樹季のコートに幾つもの濃い染みをつけた。

「ありがとう……」

絞り出したその声が、寒空へと溶けていく。
けれど溶けきらないうちに次の言葉が滲み出て、それが段々と空気を温めていくような気がした。

今日は凍えるほどに寒い。けれど凍てつくのは体の表面だけだ。少しの言動が、間接的な熱で内側をじんわりと温めてくれる。
自分の拙い言葉の熱は、腕の中で啜り泣くこの人に届いているだろうか。届いているなら、どれくらいだろう。
全身はきっと無理だから、せめて胸の真ん中だけでも温めてあげたい。君がくれた分だけぬくもりを返したい。

そんなことを思った。





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