前編04



「じゃあ今日はこれで」
帰り際、薄い唇が微かに弧を描き、玻璃はふんわりと笑ってみせた。そしてからんころんと軽快な下駄の音を鳴らしながら、玄関ドアに手をかける。
「ああ待って。駅まで送るから」
樹季のその言葉に、玻璃の頬が少し色づいた。
「僕なら一人でも大丈夫ですから、お気になさらずに」
「だーめ。もう日が落ちて暗いし、女の子を一人で歩かせるのは危険でしょ」
ふと玻璃を覗き込む。すると今度は困ったようにはにかんでいた。気を使ってくれているのかもしれないけど、何かあってからでは遅い。結果的に樹季はあれこれと理由をつけて、電車に乗るところまできちんと見送ることに成功したのだった。

家に帰ってから、仕事の資料を確認しようとリビングへ向かった。数十分暗い中で過ごしていたため、まだ少し目が慣れない。樹季は大袈裟な瞬きを繰り返しながらソファへ腰かけた。そしてローテーブル上の紙の束を掴もうとして、不意に手を止める。
ガラス張りのテーブルにちょこんと乗っていたのは、玻璃がいつも持っている銀の刺繍の入った巾着だ。どうやら忘れていってしまったらしい。
樹季はジーンズのポケットからケータイを取り出すと、手早く玻璃の番号を呼び出した。一瞬嫌な予感が頭を掠めたが、案の定それは当たった。目の前の巾着が小刻みに震え始めたのだ。
大きく溜め息をつく。とりあえず電車に乗れたということから察するに財布は持っているということだ。仕方ないので次会う時に渡そう。ケータイが無いのは不便かもしれないが、明日は樹季も都合がつかないので我慢して貰う他ない。
申し訳ない気分になりながら今度こそ紙へと手を伸ばす。途端、樹季の方のケータイが音を立てた。
何事かと画面を開くと、そこに浮かんでいるのは知らない番号。間違い電話かと思いかけて、頭の番号が市外局番なことに気がつく。
「も、もしもし?」
『もしもし。ハリと申します。そちら桜庭さんのお電話で間違いありませんか』
聞き慣れた声に詰めていた息を吐き出した。
「ああよかった、玻璃か。ちょうど連絡を取りたかったところだったんだよ。これ、家の番号?」
『はい、そうです』
「そっか。あのさ、巾着忘れてったでしょ。どうする?」
『巾着ですか。それは大丈夫です。それよりもタツキの家のどこかに、僕の鈴が落ちていませんか』
「鈴?母さんの形見のってやつ?」
『はい』
「落としちゃったの?」
『ええ。さっき着いていないことに気がついて。駅で気がついたのですけど、見当たらなかったので』
「あらら。じゃ、探してみるよ。見つかったらまた連絡す……あっ」
会話をしながらきょろきょろと辺りを見回していたら、部屋のドア付近で金色の光がチカッと走った。寄っていって拾い上げ、玻璃の帯締めに絡んでいた品のいい鈴だと確認する。
「あったよ。ドアのところに落ちてた」
『本当ですか?それならよかった。では、今度会うときに巾着と一緒に取りに行きます』
「ん、わかった。じゃあ明後日ね。家電登録しておくから」
『お手数おかけします。それでは』
勿体ぶらず、ブツリと音が途切れる。素っ気ない態度はいつものことなので、気にせずケータイをポケットに戻し、拾い上げた鈴をまじまじと観察した。
これはもしかしたら純金製というやつではないのか。金属の知識が無いのでわからないが、普段目にする金色よりも一層澄んだ深みがある気がする。とりあえず傷つけてはいけない。そう思ったので巾着の中へと入れてしまうことにした。
片手でその窄んだ布地を開き、鈴を落とそうと覗き込む。
その時だ。微かに見えたのは、カードケース。しかもそれは透明で、その一番上に位置しているカードは、顔写真つきのものだった。ただの顔写真ならば気にも留めなかったろう。けれどそれに写る人物は、明らかに自分の知るその記憶とは違っていた。
鈴をコトリとローテーブルへ置き、おもむろに巾着の中へ手を突っ込む。カードケースの蓋を開けて、目を瞠った。
「在学証明書」
カードの最上部に綴られた文字を読み上げる。大学の学生証だった。
印刷された写真へと目を移すと、そこに写る玻璃は髪が短い。腰まで伸びる長い髪など存在しておらず、その毛先は顎のラインで止まっている。そして化粧をしていなかった。一応証明書の写真だから気を使ったのだろうか。けれどそれでも十二分なほどの美貌だ。
今度はその横に記された手書きの名前に目をやった。
『橘 玻璃』。几帳面な字でそう書いてある。おそらく『たちばな』と読んで間違いないだろう。名字を今まで知らなかった自分にも驚くが、問題はそこではなかった。
年齢の隣に書いてある、その一文字に絶句する。

『橘 玻璃 (24) 男』

文字列に頭をガツンと殴られる。
いや、もしかしたら見間違いだろうか。樹季はそんなことを思いぎゅっと力強く目を瞑って、またそこに目を落とす。けれどそれはどう読んでも『おとこ』としか読めない。
男。おとことは何だ。性別のことを言っているのか。玻璃がおとこ?嘘だろ?何かの間違いだ。

無意識に緩んだ口に気がつき、それをきゅっと引き結んだ。





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