前編02





樹季には真奈美という婚約者がいる。けれど彼女との関係は大恋愛の末だとかいう類のものではなく、親同士が持ちかけた形ばかりのもので、お互い好意なんてありはしない。
そのくせ彼女は事ある毎に何かとうるさい。女性と少しでも関わり合いを持つだけで、夜通し電話で婚約者の自覚がないだのと罵ったりするから不可解だ。自分は樹季以外の男と関係がありながら平然としているくせに。
何にせよこの状況も、彼女の電話のネタになるのかもしれない。
樹季はちらりと視線を前に投げた。目の前にいるのは、洗面器に張ったぬるま湯に手を浸すその人。

樹季は今年で三十になるが、とりわけ好きな相手もいない。言い寄ってくる者もなくはないのだが、あの婚約者を説得して別れるほど好きにはなれない。面倒なことを厭う性格のため、積極的に婚約を解消しようという気にもさらさらなれやしないのだ。
彼女とは同棲もしていないし、住んでいる場所もここからやや離れているから、とりあえず真奈美とこの人が鉢合わせるという最悪な事態は起こらないだろう。訪問なども今まで一度もなかったから心配ない。

「今度はこっちに手をつけてくれる?」
色違いの洗面器に水を入れたものを差し出すと、その人は言われるがままそれにちゃぷ、と手を沈めた。そして冷たさに肩を震わす。
「寒い」
「そりゃ水だもの」
「冷えを治すのに冷たくしてどうするんですか」
「どうするもなにも、これが霜焼けの治療法なんだから仕方ないよ」
「でも」
「あとは確か、針を刺す方法があったけど?そっちにする?」
少し意地悪な気分で軽口を叩く。さてどんな反応が返ってくるかと顔を覗き込んだら、その人は妙な顔をしていた。驚いたような、それでいてどこか困ったような。
「ご、ごめん。嘘だよ。針は刺さないから」
冗談が効かない人なのだろうか。表れた沈黙に焦りを感じてそう口にすると、押し黙っていたその人がはっと顔を上げた。
「あ、違うんです。少しドキッとしただけで」
「うん。意地悪言ってごめ……」
「そうでなくて」
小さく笑いながらの謝罪は、やや強めの口調に遮られてしまう。じっとこちらを見据えるその底の見えない瞳に思わず口を噤むと、その瞼がそっと伏せられて弱々しい声が返ってきた。
「名前を呼ばれたのかと……思っただけ、です」
「名前?」
「はい。僕、『ハリ』っていうんです。漢字二文字で、王偏に皮と離れると書いて、ハリ」
――『玻璃』。それがこの壊れそうなほどに美しい人物の名前だというのか。
玻璃とは硝子の別名だ。あまりにも似合いすぎているが、両親は何故そんな名前をつけようと思ったのだろう。
「あなたは?」
頭の中を駆け巡るそんな思考に押し黙っていると、そんな質問が降ってきた。
「俺?俺はサクラバタツキ。桜の庭に樹と季節の季って書く」
「綺麗な名前ですね」
「そう?」
「ええ。よく似合っています。日本庭園に咲く満開の桜のようで」
「そんな大したものじゃないよ。それに綺麗さなら君の方が上だ」
そう言葉を返すと、何故だかじぃっと目の奥を射抜かれた。焼かれるようなその視線に、気まずさよりも焦りに似た気持ちが込み上げる。
「じゃ、ちょっとお墓を作ってくるよ。君は、そのまま手を温めてて」
澄んだ玻璃の眼差しが夢の扉を開ける前にと、樹季はそそくさと玄関に向かった。次いで玻璃がその背中に声をかける。
「ぬるま湯二分に冷水を数秒、ですか」
「うん、多分それくらい。十分くらいで戻るよ。誰かが来ても出なくていいからね」
「わかりました。子猫をよろしくお願いします、タツキ」
いきなりの呼び捨てに、ドックン、と一回心臓が跳ねる。悟られぬよう返事はせずに軽く頷き、ドアを開けた。

外は先ほどよりも強い風が吹いていて、それが傘を持つ樹季の右手に雪を叩きつけていく。
そういえば玻璃は傘を持っていなかった。帰る時には何かしら持たせよう。それとこの雪の中に和服では、どう考えても凍えてしまう。確か家には婚約者が何年も置きっぱなしにしているストールがある。少しグレーがかった色味だったはずだが、色合い的におかしくはないだろうか。いや、こげ茶色の手袋を渡した男が言えた義理ではない。あれを首に巻くといい。
気がつけばそんなお節介事が頭の中をぐるぐると回り続けていた。

つい先程まで見ていたはずの幻想は、跡形もなく消え去ってしまっていた。それは樹季のよく知っている寂れた狭い公園。白い地面に付いた足跡は、自分と玻璃が歩いた時のものだ。その先にぼんやりと黒いものが浮かび上がる。
樹季はそれをそっと穴へと寝かせ、そして丁寧に土で埋めていった。夜のように黒いそれがどんどん埋もれ、最後には白で覆われてしまう。土と雪をかけるのに、わざとスコップは使わなかった。刺すように冷たい雪が掌を朱く染めたが、あの薄紅色とはほど遠い。

本当は今日、樹季はこの雪に埋もれてみるつもりだった。
人目のないこの公園の深い雪を棺桶に見立て、誰も参列しない葬式の予行練習を執り行おうと思っていた。それで本当に屍となったならば本望だ。けれど自分は誰よりも自分に甘いから、おそらくそこまで追い詰まる前に公園を後にしただろう。そういうことをやり遂げる勇気すらないのである。

思わぬ先客が樹季の願いを叶えてくれたからか、それともあり得ない夢に出会ってしまったからか。今日はもうそんなことはどうでもいいと思えた。引いていく波のように体中の黒いものがどんどんなくなっていく。
「……帰るか」
黒いそれをベンチの真下へひっそりと寝かせて、樹季はもと来た道を引き返す。ふわりと広がる白い息が、哀しげな空の青にじわりと滲んでいった。




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