前編01 ![]() それは酷く幻想的な光景だった。 一瞬本気で白昼夢を見ているのかと思ってしまうほどに。 確かに自分は自宅付近の寂れた公園を訪れたはずだ。 けれど昨晩から降り続いた雪のせいか、見慣れた風景は一面こんもりと白いもので覆われて、植木や花壇や砂場までもが一様にその姿を隠してしまっていた。張り詰めた空気の中、水で薄めたようなゼニスブルーが丸裸になった木々の間を塗りつぶしている。きん、と耳鳴りがするほどに音はなく、まるで自分だけが世界から切り取られたようにすら思える。 静まり返った白銀の世界。 そこにあるのは、瞬きを忘れた眼と、凍てつく外気と、そこに溶け込む儚い人影。 例えるならば雪女だ。 桜庭樹季(さくらば たつき)は、痺れた脳がそう呟くのを聴いた。 彼の視線は、ただそこだけに注がれる。 六花に佇み真珠色の着物を纏う、その人に。 地に足がついているのがむしろ不思議だった。 後ろが透けて見えないのもおかしく思える。 精霊というものがいるならば、およそその人で間違いない。 息をするのも忘れた。 頬を撫でた気まぐれな風が時の流れを教え、それは同時にその人の髪をも靡かせる。その背に流れる烏羽色の髪は淡い色合いの名古屋帯のお太鼓にかかって、それをすっぽりと隠してしまっていた。 チリリ。 上品な鈴の音がしてその人がしゃがみこむ。 すると足元の白い海が瞬く間に黒く染め上げられる。 凍えそうなほど冷ややかな風が樹季の背中をぐい、と押した。 浮かされたように虚ろな頭のまま、足が勝手に前へと進む。 雪が擦れる音がする。その人に聞こえてしまわないだろうか。 思った途端、はっとその人が振り返った。 視線が絡んだその刹那、水をかけられたように動けなくなる。 残された距離は、自分の影2つ分。 魔法にかかるには充分すぎるくらいだった。 雪と見紛う純白の肌に、切れ長の目。絶妙なバランスで配置されたそれはもはや『美』という言葉では到底足りない。じっと見つめると、控えめに色づいた薄い唇がややあって小さく波を打った。 「……あなたは?」 狭間から滑り出したその声が鼓膜を揺さぶる。信じがたいほどに甘美な響きだ。 「あの」 押し黙ってその瞳に捕らわれていると、不審がる声色が耳を掠めた。そこでようやく忘れられていた現実に舞い戻る。霞んでいた風景がくっきりとコントラストを強め、木々のざわめきと傘を叩く雪の音が一気に耳殻へと雪崩れ込んだ。 「あ、その……いまさっき通りかかって。人がいるのが珍しくて、それで」 悴んだ樹季の口が、ぎこちなく開閉した。痺れの残る頭では上辺だけの会話すら浮かばない。景色がはっきりと色彩を帯びた分、今度はこの完璧なまでの美しさが酷く作り物のように思えてしまう。まるで日本人形だ。 「ここにはあまり人が来ないんですか」 頬から下が全く動かない。もしかしたら絡繰り人形かもしれない。 「俺はあまり見かけないけど。ここらの人じゃないの?」 「はい。ここから駅を六つ行ったところに住んでいます」 もし本当に人間なのだとしたら、おそらく年齢は自分よりも五つほど下だろう。全体的な雰囲気と立ち振る舞いからは妖艶な色気が漂うが、こうして間近で見てみるとなかなか目元が幼い気がする。 「ところで、こんなところで何をしているの?」 聞きたいことは山積みな気もしたけれど、まず気になるのはそれだった。近頃この公園で人と会うことなど一回もなかったのだ。だからこそ今日こうして足を運んだというのに。 その人は何やら地面を見下ろしている。樹季は傍へと近づき腰を屈め、そしてその手に有るものに目を落とし息を呑んだ。 「そこの上で冷たくなっていたんです」 その手の上にあるのは、雪とは相容れぬ毛色の黒猫。まだ片手に乗せられるほどに小さいが、死後硬直で手足は強張っている。 「ベンチの?」 「そう。そのままだと寒いでしょう?だから埋めてあげようと思って」 言いながら、猫の乗っていない方の手で厚い雪の層を掘り起こしていく。その手は薄紅色に染め上がってしまっていた。 「素手で穴を掘るの?」 「駄目ですか」 「いや、駄目って言うわけじゃないけど」 子供のような返答にたじろぐ。声はこんなにも深みがあって艶めいているのに、似合わず言動は幼い。 樹季が黙るのを横目に、その人はまた掘る手を進めた。白を掬うその朱があまりに痛々しくて、思わず口を開く。 「素手で掘るのは止めた方がいい。だったらスコップとかを使おう。じゃないと、雪はともかく土が凍っているから無理だ」 樹季はそう言って、ポケットからおもむろにハンカチを引っ張り出した。 「それに……君の手が霜焼けになってしまう」 一瞬躊躇ってから、手が触れ合ってしまわぬようその真っ赤な指をそっと包み込む。ちらりと顔色を窺うと、寒さのせいだろうか、その頬はうっすらと桜色に染まっていた。 「僕、スコップなんて持っていません」 「え」 不意打ちの衝撃に、つい声を上げてしまった。 その整い過ぎている美貌は恐ろしさをも感じるほどであるのに、あろうことかその唇が紡ぐ一人称は「僕」。樹季の常識の範疇では、雪の妖怪の一人称は「私」であるべきだった。雪女、という形容は些か間違いだったか。そう思い直さずにはいられない。 「スコップなら俺の家にあるから」 「貸して頂けるんですか」 「うん、いいよ。ただ、埋めるのは俺がやる。君は手を温めたほうがいい」 公園に墓を作るのはあまり気が進まない。けれどその人の静かな熱意に宛てられたのか、迂闊にも手を貸したいなどと思う自分がいた。 ひとまず家へおいでよと手招きする自分の後ろを、その人は何の疑いも持たぬ顔でひっそりとついて来る。樹季としても特にこれといった下心があるわけではないが、何しろその姿は視界に入れた途端にまた夢の中へと引きずり込まれそうなほど美麗なのだ。変に意識するなというのが無理な話である。 真っ赤な手がどうにも気がかりで、道中、樹季は自分の嵌めていたこげ茶色の革手袋を手渡した。頭のてっぺんから爪先まで白に占拠されているその人にこげ茶は些か不自然であったが、しかしそれに不平を漏らすでもなく、ありがとう、と儚くその人は呟いたのだった。 前へ 次へ |