左回りの時計(前編) 「いらっしゃいませ」 後ろ手でドアを閉める音に重なって、店の奥からそんな声がかかる。天気が悪いというのも勿論原因としてあるだろうが、いつ来てもこの店はどこかぼんやりと薄暗い。シックにまとめられた壁も家具も全て影に飲み込まれ、その中にひとつ――カウンターのスタンドライトだけが、橙を灯して浮かび上がる。 踏み出した足が水滴を踏み潰し、甲高い音を上げた。手首にかけていた傘の先からぼたぼたと滴が落ち、カウンターの方へ向かう細い筋を作って。 そうしてスタンドライトの近くでこちらを気にかけながらも作業を続けるその男の前に、手首から外した時計をゴトリと置く。 「――午後、七時二十八分から……十一時四十五分まで『リペア』で」 ぼそりと、しかししっかりと伝わるように。 すると正面の男はニンマリと口元に弧を描き、大袈裟に頷いて見せた。 「かしこまりました。……ところで、そろそろあなたの方の『リペア』はなさらないんですか?」 「ああ……『あっち』はいいんだ」 腕を組み視線を外して、緩く首を横に振る。そうしてなんとなくショーケースへと目を落とした。作業台と併設されているそれの中では細身の女性用腕時計が等間隔に鎮座しているが――その一番端の腕時計、それ一つだけが男性用のものだ。 カウンターの男の器用な手先が弄っている、『それ』と同じ型。 じっとそれを見つめていると、器用に時計を解体していきながらその男がまた口を開く。 「お言葉ですがお客様、いきなり広範囲のリペアを行いますと、生活に支障をきたす可能性がございますよ」 「いや、いいんだ、する気がないから。もししないで支障が出たって……それはそれで構わないよ」 「……そうですか。でしたら、失礼いたしました」 パチン。男の手の中で、何か張り詰めた糸でも切れるような、そんな些細な音がする。 それは聞き慣れたものだったけれども、ついいつもの癖でそちらに顔を向けてしまった。するとそこには心底楽しそうな男の笑った口元があって、俺は背中が何かヒヤリと冷たくなるのを感じる。 酷く不気味だ。 「何か?」 堪え切れずにそう訊ねれば、ますます楽しそうに口角を釣り上げながら男が首を横に振る。 「いいえ。少々、愉快だなぁと思っただけです」 「……愉快?」 「ああ、お気になさらないでください。こちらの話ですので」 パチン、パチン。小さな火花でも散っているみたいなその音が、男の語尾にかかって言葉を掻き消した。 雨が窓を叩く音がする。しばらくすると聴覚がそればかりで溢れ返って、鼓膜の辺りがむず痒くなった。 × × × コンビニ袋を引っ提げて向かう先は、だいたいいつも決まっている。 うちの会社はビルが縦に長いから各階にひとつ喫煙スペースがあって、正直タバコを吸わない自分としてはそこを喫煙スペースではなく休憩スペースっていうかラウンジにしてくれればいいのになと常日頃思っていたりする。そこにさえ入れればオレだって毎日フロアの端から端まで歩いて非常階段に繋がってるドアを開けて、狭っ苦しくて錆々な階段をカンカン踏みならしはしていない。そんな愚痴を同僚に零せば、毎度ながら「じゃあ昼にフロアで食べればいいだろ。別にその時間なら皆食ってるんだから」などと言われるわけだが……そう、『その時間なら』。その時間じゃないから問題なんだ。その時間――昼は、プチ残業というか、プチサビ残というか……いやまあ要するに午前中に終わらせとくべき仕事が終わらないから昼まで使って片付けてるって話なんだけど……だから昼飯の時間がズレこんで、休憩のお許しが出た頃には皆さん席に戻ってキーボードを叩いたり受話器を取ったりしている、と。そこでまさか昼飯なんて食べられませんと。なんだったかなこの感覚。幼稚園の頃にご飯食べきれなくて保育士さんが昼休みまで付きっきりであともうちょっとだよとかいって食べるところ応援されるあの気持ちに似てる気がする。 ――まあつまりなんだ、落ちこぼれの末路か。 自虐的なその考えに、溜息をひとつ。つくけれども、そんなものすぐに風に吹き飛ばされてしまった。ビル風って強くてやっかいだな。そんなことを思いながら、清掃員が掃除してくれる比較的綺麗な階段に腰を下ろす。 ガサガサと小さく暴れるビニール袋に手を突っ込むと、アボカドサンドを取りだした。ああ、やっと昼にありつける。実は今朝、ジャーの中にご飯がなくて朝食が食べられなかったのだ。その分も含めて二倍、水気の抜けてパサパサのコンビニサンドが美味しそうに見える。 そうして手で持って、あんぐりと口を開け、かぶりつこうとした――その時。 「たーかやーまくん。もしかしていま昼?」 頭上でそんな声がしたもので。 「……んあ、あみじょう」 「わーマヌケ面。なに? 今日もサンドイッチ? 好きだねーそれ」 口を開けたままの応対に、上から覗き込んできたそいつが馬鹿にして笑う。そうしてそのまま近くの段に腰を下ろすと、オレと同じ店で買ったのだろう、一緒のデザインかつサイズ違いのビニール袋から缶コーヒーを取りだした。 「上条だっていっつもその缶コーヒーじゃん」 「いやいや。コーヒーは選択肢少ないから仕方ないでしょ。ご飯はもうちょいさ、あるじゃん。飽きないの?」 「別に? 美味いもんは何回食っても美味いからいいんだよ」 言って、中断していた食事に取りかかる。上条はどうやら高山の返事に納得も満足もしなかったようだけど、特に広げる話題でもないと思ったのか、「ふうん」と軽い相槌を返した。 同期の上条とは、昼を一緒に食べる仲だ。特に何の約束をしているわけでもないのだけれど、頻繁に昼飯にありつく時間が被り、しかもお互いこの非常階段を休憩場所にしているから自然とそういう関係になったというわけだ。最初のうちは気まずく目を合わせないようにして各々無言で昼食を貪っていたものの、会社全体の飲み会で意気投合してからはすっかり打ち解けて、今ではこの通り。なかなか気も合うし、楽だし、良い付き合いをしていると我ながら思う。 「――そういえば向坂さん、ついにライン始めたんだってね」 『向坂さん』。サンドイッチのもうひときれに手を出そうとしたところで、上条がその単語を出してくるものだからつい手が止まる。目を瞬き、仕切り直すようにそれを手に取った。 「ああ、うん。そうみたい」 そうしてそんな、素っ気ない返事をひとつ。 向坂さん、というのは、オレの先輩だ。同じ営業課の、五つ上の先輩。最初はオレが一方的に懐いていたから構ってくれていただけだったのに、最近課長から「ちょうどいいから高山の教育係になれ」というお達しがあって、それ以来うちの課公認の――バディ、と言ったら生意気だけど、相方……違うな。やっぱり教育係という表現が一番合っているのだろうか。ともかくオレは会社に居る時間のほとんどをその『向坂さん』と過ごしていて、ちょっと懐き過ぎている自覚が薄々あるくらいにはべったりなのだ。 つまりは尊敬できる先輩だ――なんて表現じゃ全くもって薄っぺらに聞こえるかもしれないけど、実際そうなのだからそう言う他ない。生まれ変わったらオレこの人になって生きたいな、なんて思うくらい何事に関しても秀でていて、まさに人生の師匠だと思っている。――言ったらキモがられるから言わないけど。 「んで、ID教えて貰ったわけ?」 空になった缶を片手で弄びながら、上条がそんな質問を投げてきた。 そもそも上条は向坂さんがラインを始めたこと自体を物珍しがっているらしい。まあ若干古風な人だからついこの間までガラケーだったし、それをスマフォに変えたんだからラインを始めたっておかしくない。オレが気になるのは、なんで今までケータイは電話とメールさえ出来りゃいいんだよとか言っていた向坂さんがついにスマフォを買いに行ったのかというところのみなのだけれど。 まぁそれは置いておいて。 「ううん、まだ。今度飲み行ったときに聞こうかなって思ってるところ」 そう緩く首を振れば、高山でも教えてもらってないの? と上条が驚いた顔をする。 「課で教え合ったりとかしなかったの?」 「えー……そういうのって初期段階じゃないとやらないような気がしない?」 「いや、今が初期段階でしょ? というか、ふつう仲いい人には教えるでしょ。じゃないとSNSの意味がないじゃん」 眉を寄せた上条に、高山は首を捻った。 「まあそれはそうだけど……」 「見たところ向坂さんと一番仲いいの高山だし……高山に教えないで誰に教えるんだろ」 「いやいや仲いいなんてそんな! 俺なんてただの後輩だし、全然だって。ていうか課長とか……上役としか交換してないのかもだし」 「えー、でも普通同じトコなら交換しとくもんじゃん。不便だもん」 そうか確かに、業務連絡用に登録したというならばその通りにすべきだろう。ふむ、と高山は顎に手を当てた。 ――でも実際、俺は教えてもらっていない。聞き出す機会を常に狙っているのだけれど、毎度上手くいかなくて困ってしまっているくらい、ぶっちゃけ教えてもらいたい。でも相手から言われていないのに、むしろ教える気がないのに「教えてください」って迫るのって、なんかそういうの押し切るみたいで強引じゃないかなとか、そんなことを考えてやっぱり結局聞けないから。 (うーん、どうするべき?) 捻れども捻れども適切な解決方法が思いつかない。なんて貧困な頭なのだろう――なんて、内心溜息をつきながら何の気なしにラインのアプリアイコンをタップした。瞬時に開いたその画面に目を落とせば、「友達」というリストにズラリとカラフルなアイコンと名前が並んでいて。 ――不意に、目を、見張る。 「え? あれ……?」 そうして何気なく画面をスクロールしたところで、見覚えのある名前を一覧に見つけたのだ。思わず高山は目を瞬き、間抜けな声を上げた。見間違いかと思ってもう一度確認するが、やっぱりそうだ。 どうしてだろう、向坂さんの名前がそこにある。 「高山? どした?」 「いや、これ――」 若干呆けながら上条に画面を見せれば、ひょいと覗き込んだそいつもまた目をぱちぱちと瞬いて。 「ン? あれ、なんだやっぱ向坂さんの教えて貰ってんじゃん。嘘ついたね?」 「いや、違……教えて貰った覚えないんだけど、オレ」 そう返すと、上条が怪訝な顔をする。 「この前向坂さんと飲みに行ったんでしょ? その時に教えて貰ったんじゃないの?」 「え……そうだったかな」 眉を寄せて、考えを巡らせる。向坂さんと飲みに行ったのはつい数日前の事だ。いつだったか忘れてしまったと言い訳をするには間が空いていないはず。けれど、――覚えてない。 疲れてるみたいだし、飲みにでも行くかと誘われて喜んでついていったのは覚えてる。店もどこだか把握してるし、どこと言葉では言えないけれど自分たちが座っていた席だってちゃんとわかる。 けれど。 飲んだ酒の種類、飲んだ本数、それから向坂さんと話した筈の数々の話題。――それが完全に抜け落ちてしまっているのだ。この、ラインの話だけじゃない。その他にも色々話したと思うのに、全然記憶にない。正直めちゃくちゃもったいない。多忙を極めている向坂さんとサシで飲みに行けるなんて、めったにあることじゃないから。なのに。 「……思い出せない」 正直にそう告げると、こちらを心配そうに覗き込む男が眉を寄せた。 「また? 最近飲み過ぎじゃない? この前も記憶なくなるまで飲んだって言ってたじゃん」 「それも向坂さんと飲みに行った時だ。あれは他の人もいたけど……もったいない……なんで覚えてないんだろ……」 「いやもったいないとかじゃなくてさ。危ないよって言ってんだってば。いつか急性アルコール中毒になるよ」 「はい……」 ピシャリと窘められて、小さくなる。仰る通り、かなり危ない。向坂さんと飲みに行くと楽しくてついついペースが上がっちゃうとか、甘えて飲んでもいいかなって気が大きくなるとか、そういうことではなく身体的にかなり危ないのは、自分でもそう思う。 (……でもなんか、酒だけのせいじゃない気がするんだよな) 気のせいだと思いたいというのと、これ以上確証もないのに上条に心配をかけるのは良くないと思って言っていないけれど、実を言えば飲んだ時だけじゃない。もっと日常的に――本当に最近、めちゃくちゃ忘れやすくなった気がするのだ。 人の顔とか名前とか、そういうのは忘れない。そういった類のことを覚えるのが元々得意だというのもあるのかもしれないけど、忘れてる気がしない。けれど時々――自分でまとめたらしいファイルの内容に覚えのないものがあったり、家に買った覚えのないお菓子があったり、かけた記憶の無い発信履歴があったり。 日常生活で忘れっぽいだけなら個人的被害があるくらいで済むからまだいいけれど、ごくたまにそれが仕事に支障をきたすから困る。この前だって折角調べたはずのユーザー様の研究内容をまるっと忘れてしまっていて向坂さんに変な顔をされた。あの顔はもうなんというか、「なにやってんの?」というのを通り越して「は?」みたいな。もはや一言でリアクションというか。もう二度とそんなミスはしないと心に誓った瞬間だった。 ああ、思い出すだけでも胃が痛い。その節はすみませんでした。ほんとに、ほんっとに。 「ね。話変わるけど、そういえばそれ、時計変えた?」 「へ……っ!?」 そんなことをモヤモヤと考えていたせいで、不意打ちをくらったみたいに驚き変な声をあげてしまった。 見れば口に付けたコーヒー缶を傾けながら、上条がオレの手元を指さしている。 そこではワイシャツの袖からこっそりとはみ出た銀色の時計が日の光を反射して鈍く光っていた。 「あ……ああ、うん。随分前の話だけど、変えた変えた」 「えっほんと? 全然気が付かなかった」 見せてとばかりに覗き込んでくる上条に、ほら、とそっとシャツの袖を捲くってそれを見せてやる。 「極力傷つかないように袖捲ってないからかも。前のやつガッツンガッツンぶつけてボロボロにしちゃったから」 「あー、物持ち悪いもんね。ガサツなんだよ高山は基本さぁ。それだと買い換えで金かかって仕方ないでしょ」 そう言う上条だって一ヶ月にいっぺん靴を破壊する驚異のシューズクラッシャーのくせに、という文句は飲み込むことにした。シンプルなデザインだけれど実用性に長けて品がある。高山は手首につけたそれに目を落としながら、不意にニヤリと微笑んだ。 「やー、まぁ、それもあるんだけどさ……」 緩んだ顔のまま、するりと優しく時計を撫でて。 「向坂さんから貰ったの、コレ」 「…………、えっ……、は?」 事情が呑み込めないらしい上条が、大きくぱちりと瞬きをする。その反応に高山は満足気な表情を浮かべ、そうしてもう一度説明をしてやった。この新しい時計は、向坂さんから誕生日にもらったものなのだと。 「えっ、ちょっ……仲良いとは思ってたけど、そんな!?」 「へへ、まぁね」 やっと事実関係が把握できたらしい上条が、驚きやら戸惑いやらを浮かべた顔で大きな声を上げた。しまいには「なんだそれずるい」と子供のようなことを言い始めて――オレはますますいい気分になる。 そうやってひとしきり騒いでいると、階段の下の方からカンカンと誰かが上ってくる音がした。誰だろう、こっちの階の人だろうか。エレベーター使わない人口は圧倒的に少ないから珍しいな、なんて上条をあしらいながらそんなことを考えつつ音の方に目をやると、よく見知った、というか、今まさに話題に上がっている、その人と目が合って。 「……下まで丸聞こえだぞ、バカ共」 「こ、向坂さん!」 階段の狭い踊り場部分で腕を組み呆れた表情をしている、そう、この人が噂の向坂さんだ。向坂樹。何度でも言うけどオレの尊敬している先輩。 「えっ、下って、どれくらい下ですか」 そんなに声が大きかったかなと、慌ててそう訊ねると向坂さんの溜息がひとつ。 「ドア開けたらどの階でも一発だっつーの」 「ど、どこから聞いてました?」 「俺の悪口でも言ってたのか? よかったな、聞こえてねーよ」 違いますよ! と必死になって否定すれば、知ってるよ馬鹿、と向坂さんが笑う。 向坂さんの笑い方は、なんというか、整ってくっきりとした顔に似合う笑い方だ。並行で黒々とした眉を少しだけひそめて、ちょっと困ったみたいに笑う。ぱっちり二重と高い鼻、薄くて大きい口の、どこもバランスを崩さないまま上品に、「くすっ」という音がまさに聞こえてきそうな笑顔で――オレはそれを見ると、なんだかわからないけど胸のあたりが少しむずむずと痒くなる。 気が済んだのか、ふと笑みを解きながら向坂さんは隣の上条に視線を投げた。声が聞こえていたということは上条のことも認識していたのだろう。「そうだ」というような顔をして、向坂さんがまた口を開く。 「……あ、そうそう上条。お前の課の……なんつったかな、てら……てらしま?」 「てらそま、ですか?」 「ああそれ。そいつがお前探してた」 「あっ、ほんとですか。んじゃちょっと戻りますね。わざわざありがとうございます。――じゃな、高山」 「ン。またな」 向坂さんの言葉を受けて、上条は上の階のドアの向こうへと消えていった。それを見届けてから向坂さんへまた視線を戻すと、ばっちりと目が合う。 「上条に御用でした?」 「いや、アレはついで」 「じゃあ、オレですか?」 「他に何があんだよ」 眉をひそめる向坂さんに、酷く愉快な気分になって立ち上がる。こちらまで呼びに来たということはつまり、休憩終了の合図なのだろう。仕事に戻れということだ。本来ならば仕事なんて面倒なだけだから戻りたくないとダダをこねたくなるところだが、向坂さんが呼びに来たならもちろん話は別。 「昼飯は食い終わったのか?」 「はい、ばっちりです!」 カンカン、と二人分の足音が重なる。向坂さんのつむじを見下ろしながらその後をついていき、ふとあることを思い出した。 「あの……先輩、この前はすみませんでした。あの案件、大丈夫でしたか?」 「? 『あの』?」 「アレです、オレが研究結果をまとめ忘れてしまったユーザー様の……」 「あ。ああ、……アレな」 忘れっぽいのだ、とさっき言ったが、これもそう思ったひとつの要因である。オレは仕事が得意な部類ではないけれど、それでも言われたことは時間をかけてもちゃんとやる。まさか頼まれた仕事をすっかり忘れて一週間も二週間も放置なんかしない――はずなのに、忘れてしまっていたのだ。とんだ大失態だ。向坂さんに頼まれていたデータの収集とその結果のまとめレポート提出を、面と向かって出せと言われても一瞬何のことか思い出せなかったくらいにはすっかりさっぱり忘れ去ってしまっていて。最終的に向坂さんがフォローしてくれることになったのだが―― 「いや、うん。大丈夫だから。やっといたから気にすんな」 どうなったのか、という問いに、向坂は何故かそう言いながらバツの悪そうな顔をした……気がした。上手くいかなかったのだろうか。もしかして上司に怒られた……とか? いやまあそりゃ怒られるよな。本来オレが怒られるべきものを、向坂さんが被ってくれたんだから。 ぐるぐるとそんなことを考えていたら、自然と眉が寄って難しい顔になってしまっていた。足を止めた向坂が、その眉間にデコピンを放つ。 「気にすんなっつってんだろ、アホ」 「あいたっ……で、でも……」 「お前な。俺がお前の失敗をフォローしきれなかったことがあるか?」 「な、ない、です。いつもお世話になってます」 「だろ。じゃあ別に今回もいいだろ。……この話は終わり」 「! は、はいっ」 パンパン、と手を打った向坂の背中を追う。一瞬曇ったその表情の意味をやっぱり掴みきれないけれど、向坂さんがそう言うのだから、もしかしたらそれも自分の気のせいだったのかもしれないと思い直すことにした。 ――向坂さんは第一印象が怖いだけで、なんだかんだいって楽しいし優しい人だとオレは思う。多分仕事に真面目で、整っていて隙のない顔つきだから冷たい印象に取られるのだと思うのだけれど、実際全然そんなことはない。真面目でイケメンなのはその通りだけど、人を突き放すなんてことは滅多にしなくて、面倒見もいいし、オレが失敗しても毎度こうやってスマートにフォローしてくれる。しかもオンとオフがしっかりしていて、オフモードの時には冗談だってかなり言うし、それがまた面白くって堪らない。総じて多方面に関して魅力的な人物で、だからオレはこの人について行くって決めたし、現状憧れるのをやめられなくって本当に尊敬の念を抱かずにはいられない。 まさに理想の先輩だ。仕事ができて後輩想い。でもあんまりそういうのを前面にアピールしてこないっていうのも、なんか自分としてはすごくグッとくるものがある。――グッとくる、というのが何がグッと来ているのかはよくわからないのだけれど。 「あの、言い訳するとかじゃなくて、あとさっきの話の続きとかでもなくって、相談なんですけど……オレほんと最近忘れやすくって……なんか病気ですかね? 病院行った方がいいかな」 困ったことがあったら向坂さんに相談、という癖がついてしまっている。そんなこと訊かれたって答えようがないはずなのに、向坂さんは面倒がる素振りも見せずさらりと言葉を返してきた。 「まぁ、それくらいのド忘れよくあるだろ。そんな気にすることでもねーよ」 「そうですかね……オレ、覚えがいいのが取り柄だったのでなんかびっくりっていうか」 「歳だ歳」 そうして適当な切り返しをした後、「俺はタバコ吸ってから行くから」と手を振った向坂さんに、俺は納得しきれない顔でウィッスとだけ返事をした。 × × × 入社二年目の高山翔太郎という男についてどう思う――という質問に対して、個人的に贔屓目に見積もっても仕事が出来るとは言い難い不器用な男だという評価しか下せない。 世間一般的に見たら俺はお気の毒な社員だろう。そんな仕事の出来ないやつの教育係に任命されて、高山のミスはお前の監督不行き届きが原因だと小言を言われる生活なんて、普通の人からすれば迷惑以外の何物でもない。――はずなのだ。そう、客観的に見れば。 (けどな……迷惑かって言ったら、何か違うんだよな) 手元のファイルからそっと目を上げて、向坂はチラと棚からひょいひょいファイルを引きだす高山を見やった。身長が高いから、こういった作業は向坂よりも高山の方が向いている。その作業を監督兼待機しながら、向坂はまたひとつ内心首を傾げた。 確かにミスされるのは困る。責任も尻ぬぐいもこっちに降りかかってくるのだから、そんなの無い方がいいに決まってる。けど、こいつの、なんというか……愛嬌のせい? なのか? どうしてもつき離せない雰囲気があるというか。 たとえるなら子犬だ。いや、図体からして全くもって子犬ではないが、さしずめゴールデンレトリバーの中身がチワワになったみたいな、そんなやつ。黙ってりゃただの男前なのに、喋り出すと噛むわ早口だわ何言ってるかわかんないわの三拍子。何か仕事で問題があるときょろきょろと俺のことを探して、ハの字に眉をひそめながら「向坂さぁん」なんて情けない声をあげたりする。仕方ねえなと行って解決してやると、餌をもらった犬みたいにご機嫌で擦り寄ってきて―― なんだろう、本当に犬だ。犬のしつけをしてる気分なんだ。だから苦じゃない。……んだと思う。多分。 「先輩、たぶんこれで全部です」 埃っぽい資料室の棚から形の同じファイルを何個も取り出して、高山がこちらに声をかけてくる。やっと作業が終わったらしい。やっぱりお世辞にも仕事が早いとは言えない。けど、まあいいか。 「おう。半分よこせ。持ってくぞ」 「はい」 じゃあこっちの山お願いしますね、と言って高山は傍らのファイルの山をひとつ持ち上げる。残りの分は自分が、と思って持ち上げ、向坂は眉を寄せた。 「半分って言ってんだろ」 「やだなぁ、半分ですよ」 さらりと笑ってみせる高山に、溜息をひとつ。 そういう気の回し方は、女にすべきなんじゃなかろうか。自分よりも明らかに量の多いファイルを軽々と運ぶ高山の背中を見つめながらそんなことを考える。 (ほんと、仕事さえ出来れば完璧超人なのになぁ……) 天は二物を与えず? でもこいつの場合、二物か三物くらいは与えられてる気がする。ただ最後に、ちょっと欠点をおまけされただけ。高身長のモデル体型にこの愛嬌があれば、女は放っておかないだろう。自分みたいに第一印象が悪いタイプでもないし、人ともすぐ打ち解けられるし――「モテますよ」と言われても「そうか」と簡単に頷けてしまうくらいには世の中に評価される人種だと思う。 (でもそういえば、女っ気ないよな、こいつ) そこがこの高山という男の不思議なところでもある。向坂の人間観察に長けた目をもってしても、どうにも誰かと付き合っているとか言い寄られているとか、もしくは言い寄っているといったようには見えないのだ。こんなにも魅力的な人物なのに。 何度も確認したが、やはり今日も左手の薬指に輪っかはついていない。こいつのことだからいつしかしれっと婚約指輪だとか結婚指輪だとかを「付けるの忘れてました」とか言って付けてきたっておかしくないと思うのに、今のところそんな事態は一度も起こっていない。 何だ。何でだ。何でこいつそんなに女っ気ないんだ。おかしいだろ。 毎度のことながら頭を悩ませるが、今回も向坂が納得するような答えは落ちてこなそうだ。 そうしていつもの癖で高山の手元に目を落とすと、ファイルの山を持つその手首に、随分と年季の入ったように見える腕時計がつけられていた。どこのメーカーだかさっぱり見当がつかないが、細くて筋張った手首に似合わず結構ゴツいデザインだ。 (案外趣味がロック系だったりすんのか?) そんなことを考えていると、視線に気がついたらしい高山がパッと手を引っ込め、恥ずかしそうにその腕時計を袖の中へと隠す。 「これ、安物なんでメッキ剥がれてきちゃってやばいんですよね。そろそろ買い換えないととは思ってるんですけど」 えへへ、と笑ってみせるそいつに、向坂は「ふうん」とだけ相槌を打った。それは頭に高山の趣味がどういったものなのかという疑問が湧いてそちらのことばかりを考えていたがゆえの素っ気ない返事だったわけだが、高山にはおそらく興味がなく見えたのだろう。気まずさを埋めるときの笑い方で、口の端を持ち上げる。 そうして落ちてきた沈黙の中、ふと、向坂の頭にひとつ気になることが浮かびあがって。 「……そういやお前来月誕生日だって言ってなかったか」 ページをめくって、口を開く。 「あ、はい。あれ? オレ教えましたっけ?」 「『誕生日会開いてくれよ』って上条に泣きついてるの見た」 つい先日他部署との飲み会に連れ出されたときに、酔った高山が声を大きくそう叫んでいるのを聞いたのだ――疑問そうに首を傾げる高山にしれっとそう返してやると、一瞬口を戦慄かせたそいつの頬がカッと赤く染まる。 「あ……ああ〜……はい……なるほど……」 お恥ずかしいところを、と小さくなる高山を見やって、口元で笑った。もちろん俯いていたから見えはしないだろうけれども。 そうして気まずそうに隣で身を縮めている彼に、向坂はまた目を合わせないまま質問を投げた。 「いつ」 「えっ?」 「だから、誕生日」 「あっ、七月七日です!」 「……七夕か」 覚えておこう、なんてことを思いながら向坂がまた足を進めると、高山も慌てて後を追ってきた。向坂の発言が少し気にかかっているような素振りが斜め後ろの空気から感じ取れたが、とりあえず無視しておくことにする。 資料室の外に出るが、同じ階に会議室ばかりが併設されているせいか人通りは全くといってない。おかげで二人分の靴の音だけが廊下に反響して、妙に落ち着かない気持ちになる。 「――でもなんでいきなり誕生日なんです?」 やっぱりどうにも気になるのか、しばらくするとぽつりと後ろから高山がそう話しかけてきた。その言葉に向坂は振り向いて目を瞬くが、ここで黙って隠したところでどうせそのうちバレるだろう。どう言おうかと少し逡巡した後に、スッと先ほどの腕時計を指さして。 「いや……その、時計」 買ってやろうかと思って、とまでは言わなかった。けれども高山には十分その意図が通じたらしい。会議室の前を通っているのも忘れた様子で目を丸くしながら「え!」と驚き大きな声を上げる。 「わっ……悪いですよそんな!」 「ちょ、お前、うるさい」 「あっ、ご……ごめんなさいっ」 パッ、と自分の口を両手で押さえ、「でも」と高山は眉をハの字に曲げた。まぁ確かに先輩に突然時計を買ってやると言われれば自分だって同じような反応をするだろう。けれども向坂としてはそれを買ってやるだけの理由があった。 「いーんだって。ジッポのお返ししてねえし」 そう、ジッポ。どこから仕入れた情報かはわからないが、高山は向坂の誕生日を調べ、当日にそれを渡してきたのだ。しかもご丁寧にシックでお高そうなラッピングまで施して。しかし残念ながら紙袋の底面と持ち手がグシャグシャで、それがいかにもこいつらしいなぁと向坂は愉快な気分になったのだった。中身もなかなかのもので、値段こそ調べてはいないが見るからに高そうだ。 さすがにこれを貰いっぱなしというわけにはいけない。 どう言おうと譲らないぞ、という心構えで高山の次の言葉を待ったが、どういうことか押し黙ったままただ後ろを付いてくるだけ。いつもなら絶対に「そんな、だめですよ!」なんて頑なに先輩からは物を受け取りませんというスタンスを保つのに、一体どうしたのだろうと振り返れば、何かくすぐったそうな表情をした高山が少々俯きながら小さく口を開いた。 「じゃ……じゃあ、買い換えずに待ってますね」 「……、おう」 そう素直になられると、それはそれでなんか拍子抜けだな。そうは思うが口にはしないまま、向坂は返事をしてフイと顔を背けた。 × × × ――情が湧くきっかけなんて、些細なことで十分なのだ。 たとえばそれはミスをした高山が半泣きで縋りついてくる瞬間であったり、夜は弱いと言いながら向坂さんのメールは絶対自分が最後に返事する状態で終わらせたいんですとアホなことを言い出した瞬間であったり、常に車道側を歩くそいつの気遣いに気がついてしまった瞬間であったり。本当にそういう些細なことが積もりに積もって情が湧き――そうしてふと気がつく瞬間が訪れる。 そう、その「情」が、果たしてこの会社の後輩に湧いて差し支えない情なのかどうかということに。 俺は多分、なにかの手違いでこいつに対する「情」のカテゴリー分類を間違えてしまった。普通に会社の後輩として、仕事仲間として認識して助けてあげればいいだけだったのに、どこでどう間違いが起きたのか、俺の心の中にはいつしかこいつに対する独占欲が湧き出て、それが情と溶け合って「愛情」めいたものに昇華し始めてしまっていた。情は情でも、「愛」がつくのはちょっとカテゴリーが違うだろう。しかもそれが男から男に対するものだっていうのだから、更にカテゴリーが違う。カテゴリーっていうか、本屋だったらもはや棚が違う。たぶん人目の少ない端の方に追いやられるジャンルになる。 でも断じて俺はホモではない。……はずなのだ。というか、現在進行形でノーマルだと思うのだ。だって別に筋骨隆々な男を見たってなにもそそられやしないし、女の子はふわふわ可愛くて抱きしめたいし、むしろ男とキスをするだなんてそんなこと、不可能だろう。気持ち悪い。顔が近いだけでも表情筋がひきつる。 ――のに、高山だけは違う。違うのだ。……違うから困る。 「向坂さんっ、向坂さん居ますか!」 スライド式の喫煙室のドアが、大きな音とともに外れてしまいそうなほど強く開け放たれる。 騒がしいのが来た、と向坂は顔をしかめた。それは確かに先程まで自分の頭の中を占拠していたそいつの声であったが、だからといって年齢的にも脳内花畑というわけでもないのでどこぞの青春マンガよろしくテンションがあがるということもない。 「……今度はどうしたんだよ」 ぎゅ、とタバコの火を潰し、細く煙を吐き出した。 あの、と噎せるのを堪えながら話し始めようとする高山に、喫煙室の外に出ろと手で合図をする。喫煙室には向坂の他に女性社員一人と男性社員が二人いたが、いつものことだとでも思っているのか、特に気には留めていないように見えた。 ドアの外に出て、胸ポケからスプレーを取り出す。消臭用のそれをシュッシュッと体にかけていると、高山が待ちかねていたとばかりに口早に捲し立てた。 「デ、デーリーアドバタイジングのプレゼン案作ってたんですけど、なんかキーボードの変なところポチッて押したらパソコンがヒュンッて消えてっ、そのっ、データが……っ」 擬音を使いまくるから頭が悪そうに聞こえるんだな。そんなどうでもいいことを考えながら、斜め前を歩きながらぐるぐると焦りまくる高山にピシャリと告げる。 「強制終了ボタンでも押したんだろ」 「えっ、わ、わかんないです。ふ、復活しますかね……」 「マイクロソフトなめんな、バックアップくらい取ってくれてるわ。どのパソコン使ったんだ?」 まさか上司のやつでやらかしたのか? そう思って問えば、困った顔をしたままのそいつが口元を戦慄かせて。 「あ、お、オレのです」 「お前のかよ」 × × × だから実際白状すると、ジッポのお返しだなんて口実みたいなものだ。もちろん貰ってばかりではいけないという考えもあるけれど、俺があいつからもらったものを毎日スーツのポケットに入れてるんだから、あいつだって俺があげたやつを身につければ――なんというか、いいかなと思ったんだ。 深くは考えていなかったけど、多分先輩という立場をフルに活用した上で自分のエゴを叶えられる方法のような気がしていたのだ――だから。 それにしても時計なんていつも適当に買っていたから、どのメーカーがいいのかなんてさっぱりだ。 向坂は会社帰りに寄った駅前の時計屋に入り、じっと腕を組みショーケースの中身に食い入っていた。 ぱっと見で善し悪しが分かるような目利きでもないし、そもそも値段って、人にあげるのはどれくらいのものがいいのだろう。ブランド品なんて買って行ったら、確実に受けとってもらえないだろうし――ここは素直に店員に聞いた方がいいか。 きょろ、と店内を見渡す。店に入ってからしばらくショーウィンドウとにらめっこしていたから気がつかなかったが、先ほどまで隣で懐中時計を物色していた先客はいつの間にかいなくなっていた。つまり店の中には自分一人。閉店時間ではないはずなのに――そう思いながら店の奥に位置する作業場の方へ目を向ければ、そこには一風変わった風貌の店員が手元からカチャカチャと金属音を鳴らしていた。 時計屋といえばまさに『職人』という雰囲気の年輩の男性か、もしくはきっちりとスーツを着込んで営業スマイルを浮かべる清潔感ある店員を連想する。もしかしたら俺の偏見なのかもしれないけれど、でも、いやいや、この店員はやはり『時計屋』としては特異じゃないか? どこの世界にコスプレをした時計屋がいる? 「何かお探しですか?」 声をかけられて、見つめてしまっていたことに気がついた。 どこぞの世界のイカレ帽子屋だってそんな派手な格好しないぞ。そう思いながらも慌てて口を開く。 「し、知り合いが誕生日なので、時計を贈りたくて……」 どこまで伝えるべきか一瞬迷ってどもってしまった。すると向坂の思惑を知ってか知らずか、店員の口元が弧を描く。 「さようでございますか。そうですね、女性に人気のものですとこちらに――」 「あっ…いえ、知り合いは男なんですけども……」 「……、ああ。これは失礼いたしました。早合点してしまいまして」 少し間があったように感じてしまうのは、自分の中の後ろめたさゆえだろうか。目元までかぶったトンガリ帽のせいで表情が見えないから、余計に思考が読めないやつだなと思う。そんなことを考えているうちに淡いランプに照らされた時計屋が、ショーケースの向こう側で数歩横に足を進めて。 「男性用は、綺麗どころですとこちらが人気ですが」 スッ、と骨のような白い手が、ショーケースの中で光を反射するそれを指した。文字盤も全体的なデザインも、特に癖のない知的な雰囲気の腕時計だ。値段を見ても、安くも高くもなく。実に平均的で選びやすい。まあこれならいいかな、と向坂が肯定の意味を込めて首を縦に振ろうとしたところで、先ほどショーケースの上を舞ったその手が、今度はスイッと店の端の方を指さす。 「……もし、もう少し『面白い』ものをお探しでしたら、是非こちらを」 「?」 ヒールの音を派手に鳴らしながら指さす方へ歩くその人は、ショーケースの一番端にたどり着くと手慣れた様子で手袋を身につけ、ぽつんと置かれていた時計をそっと取り出した。そしてそれを傷つけないようクッション付きのボックスへ入れ、こちらに見せる。 「見た目は特に他のものとそこまで変わりませんが、こちらの商品は他のものと少々勝手が違っていまして。大変興味深いですよ」 背筋をしゃんと伸ばしたままの時計屋が、口の端を微かに持ち上げて微笑む。 「勝手が違うというのは?」 意味深な物言いに惹かれてそう質問を投げる。すると待ってましたと言わんばかりに得意げな笑みを浮かべたその人が、するりと手袋をした手で時計を撫でながら答えた。 「そうですね……平たく言えば、時計であって時計であらず。時を刻むのではなく記憶を刻んでいる――さしずめ時計界のワインでありストレージユニットです」 「ワイン? ……ストレージ?」 浴びせられる横文字を、意図が掴めず繰り返す。一体何の話をしているのか。 「まぁ実際にやってみた方がわかりやすいですからね。よろしければ、手をお貸しいただけますか?」 「は、はぁ……」 面食らいながら、そっと左手を差し出す。 「では、そうですね。あそこ。……あの鳩時計を見てください。今、何時ですか?」 スッと骨のような手が壁に掛かっている鳩時計を指さすものだから、向坂はそれにつられて目をそちらに向けた。 「えっ? ご、午後七時三十九分です」 「そうですね、……ちょうどいい。はいそれでは、私の方を見て」 今度はこっち、と言われるがままに視線を戻せば、いつの間にか向坂の左手に先ほどの腕時計がはめられている。えらい早業だな、と驚くとともに、少々気味が悪いと思ってしまう。 「あと二十秒で四十分です。それでは今度はどの時計も見ずに、ただ私の話を聞いていてください。私は五分間身の上話を致しますので、つまらなくて恐縮ですけれども耳をお貸しくださいね」 そんなことを言いながら時計屋が近くの棚から銀色のベーシックな形の時計を取り出す。見ればどうやらそれは自分がいま手首につけているのと同じ型のようだ。何をするつもりなのだろうと時計屋の顔を窺うが、耳を貸してくれと言う割に次の言葉が出てこない。 沈黙の気まずさと困惑に瞬きをしてから視線を落とし、内心首を傾げる。そうしてまたもう一つ瞬きをし、時計屋の手元を見た。すると先ほどまで確かに自分の手首にあるそれと同じ形をしていたはずのその時計が、何個もネジが外されフタが開いた状態になっていることに気がつく。向坂は目を疑ってもう一度目を瞬くが、何度瞬きをして確認したところで見間違いというわけではないようだった。 一体いつの間に解体したのか。また早業か。ちょっと目を離した隙に――いや、早業って言ってもさすがに今のは人間業じゃない。 動作の一つも見えなかったのだ。別にこちらが注意散漫というわけでもなかったわけだし、一体どうやって? もしかしてマジックの類? だとしたら今のはちゃんと反応してあげるところだったりするのか? ――え? どういうことなのかさっぱりわからない。 押し黙ってそんなことをぐるぐると考えていると、慣れた手つきでネジを留め終わった時計屋が、ドライバーを傍らに置いてやっと口を開いた。 「さてお客様。――先ほどの私の身の上話、どれくらい覚えておいでですか?」 その質問に、向坂は首を傾げる。 「え? ……いや、どれくらいもなにも今からじゃないんですか?」 向坂としては、至極まっとうな受け答えをしたつもりだった。だってそうだろう、時計屋はなにも喋っていない。知りようが無いじゃないかと怪訝な声を上げれば、その受け答えに酷く満足そうな笑みを浮かべた時計屋がスッと先ほどの鳩時計を指さした。 「さあ、今は何時何分ですか? お客様」 指し示す方に首を捻る。何時何分もなにも、さっき見たばっかりなのだからさほど変わりはしないだろうに――そう思って何気なく向けたその視線の先、長針の位置に、向坂は目を見開いた。 針の先が『9』という数字を指し示している。それは先ほどの時計屋の手元と同じく何度瞬いても変わらない事実で、向坂は弾かれたように自分の手首の腕時計に目を落とした。が、それが指し示すのも『七時四十五分』。それから時計屋の手にある時計も覗き込むが、それだってぴったり同じ結果だった。 「ど、どういうことなんです? わけがわからない」 確かに自分は『四十分』の長針を見た。この歳になって時計の読み方なんて間違いようがないから、それは揺るがない事実だろう。 だったらどうして。手を触れずに時計の針を動かしたのか? リモコン操作なら可能かもしれないが、何のために? 何が言いたい? あらゆるところから湧いてくる疑問をひとつも声に出せずにただ困惑した顔を浮かべていると、手の中の時計をチャリ、と一回弄んだ時計屋がその文字盤をこちらに見せながら。 「先刻、この時計は時でなく記憶を刻んでいると……私は申し上げましたね?」 軽く頷けば、視界の中のそれが日に当たって眩しく光る。 「それを『リペア』しただけです」 「……リペア?」 「一般的な言葉で表すならば、『キリトリ』でしょうか」 言い直されてもなんのことやら。向坂が更に首を傾げれば、時計屋は楽しそうにニヤついてすらすらと言葉を繋げた。 「確かに五分、進んでいますよ。ただ時計の針を進めたわけじゃない。信じられないかもしれませんが本当です。そこの監視カメラでも見れば、証拠になりましょう。私たちは確かに五分間を過ごして――けれどもあなた様は覚えてはいない。……だからつまり」 ふふ、と、時計屋が気味悪い笑い声をあげる。 「お客様の記憶、それだけを切り取らせて頂いたのですよ」 手元にあったハサミを持ち上げ、チョキチョキと小さく動かしながらワザとらしくニヤついて、ドヤ顔でこちらを舐め回す時計屋の姿を前に、向坂は困惑するしかない。言っている意味が半分くらいしか理解できないのだが、一体どういうカラクリなんだろう。眉を寄せて時計屋を見上げる。 「催眠術か何かですか?」 「いいえ違いますよ。もっと事後的な現象です」 事後的? ますます強く眉を寄せた向坂の首が傾いた。 「腕にそれをつけている間、お客様の体験した記憶はその装置に記録されます。いつもならば脳に焼き付くはずのものですが、今だけは装置が記憶メモリとして働くので――」 時計屋の指が、トントンとこちらの時計の文字盤をノックして。 「私がその記憶メモリに作用する一部分を切り取ってゴミ箱に捨てれば、あなたはすっかり忘れてしまうのです。記憶がなくなるから、体験していないことと同義になる。でも安心してくださいね。何も世界が変わってしまうというわけではございません。装置は二つ一組、切り取れるのはそのペアの言動に基づく記憶のみとなっていますので、むやみに周りを巻き込むこともありませんゆえ」 そう、つまり。そう続ける口元が弧を描く。 「今この状態で消えているのは、お客様の記憶だけです。私はすべて覚えていますよ。私の記憶と同様に世の中に事実は残りますが、お客様の頭の中にはさっぱり残ってはいないはずです。こちらの装置を切り取ればそちらの記憶が飛び、そちらの装置を切り取ればこちらの記憶が飛ぶ」 そういうことです、と得意げに説明に終止符を打った時計屋を、向坂はこの上なく欺瞞に満ちたモノを見るような目で見つめていた。 「簡単な仕組みでしょう? それだけのことですよ」 「簡単っていっても、具体的にどういう……トリックとか」 「これ以上は企業秘密ですので」 お教えできる情報はここまでです、と手をひらひら振ってみせる時計屋を、向坂は怪訝な顔で見つめた。 そんなトンデモ話、初対面のしかも見るからに怪しい人物の口から聞いたって信じられやしないというのがおそらく真っ当な人間の判断だろう。しかしながら向坂は、先ほどの一瞬で外れたネジが酷く頭の中に引っかかっていた。目の処理能力が遅れるほど一瞬の出来事だった。――と向坂は思ったわけだが、あれがもし自分の記憶を「切り取った」ことで起きたと説明するのならばどうだろう。 辻褄が合うような気がしてならない。 「実にキテレツでデタラメでしょう? いかがですか? 検討の余地がもしございましたら――是非」 言葉無く考え込んでいると、時計屋がそう口を割ってきた。 実演されても尚、胡散臭さが抜けない。値段は張らないしたとえばこれがどこぞのツボ商法と同じ何かだったとしてもそこまで痛くはないのかもしれないが……だとしても。 「本当だって言うならかなり面白いとは思いますけど」 使い所が無いですよ、と向坂は持ち前の愛想笑いを浮かべてみせた。すると相も変わらず陰険な雰囲気を纏った時計屋がすぐに「いいえ」と返す。 「お客様にもきっとございますよ」 断るつもりで発した否定に否定を被せられ、眉を寄せた。 「いや、俺は……」 「たとえば対人関係で」 向坂の主張を遮り、ズイッと顔が近づいて。 「言えないことが言えるようになります。思っていても言ってはいけないこと……理由は様々あれど色々ございますよね? 人というのはそういった率直な意見を腹の奥にしまい込みがちな生き物です。私だってそうだ。みぃんなそうなんです。……もちろん、あなた様だって例外ではないはず」 意識したわけでもないのに、向坂の喉がごくりと音を立てる。 「言いたくて、でも言えなくて、そういうのってストレスになりませんか? 関係を壊したくないからって口を噤んでいるのではなく、もっと自分に素直に生きれたらと思ったことは?」 そう言われて脳裏をよぎったのは、ある一人の男のことだった。それが誰かなんて、言うまでもないだろう。 言いたくて、でも言えなくて、伝えたいのに伝えてはならないから――だからこうして口を噤んでいる。まさか会社の先輩が、しかも男である俺がそんなことを思っているだなんてあいつはこれっぽっちも考えてはいないだろうし、言ったところで気持ち悪がられるだけだろう。告げたところで報われないのなら、折角ここまで築き上げてきた関係をパーにする意味もない。だから絶対に言わない。そう決めていた。 ――けれど、もし。……もし、こいつの言う通りそうやって、記憶がまるごと消せるのだとしたら? 「一度言った言葉は消せないだなんて、もう古い常識ですよ。間違えたなら躊躇わずにデリートキーを押せばいいんです。人間一人の脳に収容されたちっぽけな情報なんて、この細いドライバー一つでどうにでもなる」 諭すように、そうして畳みかけるように。時計屋のぼそぼそと低い声が耳の中でこだまする。目を落とした先に見えるのは、音もなく時を刻む細い針。繊細に、それでいて緻密に、人の記憶をそこに刻みつけるという―― 「サァ、いかがですか? お安くしますよ。もしお気に召しませんようでしたら、もちろん返品も可能ですので……ここはひとつ、試しに」 ニヤリ。相も変わらず不気味に笑った男の口元に目もくれないまま、向坂の視線はその時計に釘づけになってしまっていた。 (続く) 前へ ×無 |