たとえばまるで、恋のように ねぇ、と呼び止められて瞬きをした。 「明日さ……もし雪が降って学校が休みになったら、なにする?」 寒空の下のアスファルト。小石を蹴る二人分の足音。 「――休みにはなんねぇんじゃねーの? つーかそもそも積もんないだろ」 見上げた空は、時間の割に赤にも橙にも染まらないまま、なにやらしかめっ面みたいな色だ。 「わかんないよ? いきなりどばっと降るかもしれないし」 異常気象でしょ最近。そう言ってのける、そいつの首に巻き付いた赤いマフラーから白い息が一筋、進行方向とは反対にフェードアウト。俺はそれを見送って、それから自分のネックウォーマーにハァと息を吐き出す。 ――確かにそれはその通りで、ここ最近の日本列島の異常気象は「異常」という言葉ではちょっと物足りないくらいに異常なのだ。前日との温度差が十度くらいある時もあれば、何の前触れもなくバラバラと雹が降ったりする。自分としては空から降ってくるのは水滴か女の子くらいにしておいてほしいわけだが――いや、女の子だとうちのトタンがお逝きになられるから、やっぱりそれは却下だとしても。 目を流せば、隣でじっと俺の答えを待っている黒い瞳がある。それがひとつ、ぱちりと瞬き。 「……まーでも、そしたらゲームでもやっかな。無双やる。さみーから引きこもるわ」 「無双って、もしかしてこの前出たやつ?」 「おう。2な」 「アルティメットだよね?」 「そーそー」 最近宿題もそっちのけでやっているそのゲームソフトの名前を出すと、そいつが妙にはっきりとした反応を見せたから少々驚いた。RPGばかりやるタチだし、アクション系はてっきり興味ないものと思っていたのだが。 「じゃあさ、協力プレイやろうよ。言ってなかったんだけど実はね、僕もそれ買ったんだ」 でもあんまり上手くないんだけど、よかったらさ。 困ったように笑いながら言ったその言葉には、妙な説得力があった。というのは多分、俺がこいつがコントローラーの○ボタンをトントンとリズミカルに弾いているのと、十字ボタンをじっと長押しをしているのしか見たことがないからだ。その白くて細くて筋張った、あんまり力のこもりそうにない手が、あの連打ゲーをこなせるのだろうか。ちょっとそこらへんの想像がつかなくて。 いや、というかそれよりも。 「つーか、休みにはなんねーと思うけどな?」 そもそもの話はそこだ。いくら異常気象が頻発するからって、天気予報が明日は晴れだというのだから雨をすっ飛ばして雪にはなるまい。いや、そりゃあ気象庁はよく予報を外すけれども。 改めて軽く否定すれば、だからわかんないでしょってば、と口の先を尖らせてちょっと拗ねたような態度を見せる。俺がそれを見つめていると、次いでさしかかった十字路から黒いカタマリが飛び出して――それに意識を削がれたそいつの唇から、すぐにスッと力が抜けた。 あ、靴下猫だ。と呟く、その口が弧を描いている。――それを肯定してやる。 「あ……じゃあもしもさ、明日世界が滅びることになったら……どうする?」 塀に挟まれた住宅街の細道は、妙な圧迫感がある。別段狭いというわけではないのだろうけれど――肩が触れ合いそうで触れ合わない、それくらいの距離で隣からそんな声。 「いきなり何の話だよ」 「たとえば、の話?」 視界の端で街灯が点滅する。先ほどからついていたのか、それとも、ちょっと記憶にないから判断が付かない。それよりもこいつのドヤ顔の方に目が行ってしまうから。 「大体滅びるって? どうなんの」 質問を質問で返せば、「うーん」とそいつがわざとらしく首を捻った。 「なんていうか、そうだね……巨大隕石とか? 太陽が落っこちてくるとか、そういう」 「トンデモだな」 人に質問するんならもうちょっと現実味のあることにしないものか。ちょっと突拍子もないことを言い出すのはいつものことだから、そう気にはしないけれども。 「とにかくね、木っ端微塵になるんだよ。一瞬なの。別に痛くなくて、ジュッ、ってさ。だから準備とか対策とか、そういうのは意味ないからね。それ以外で、何か」 身振り手振りを加えながらのその熱弁を、俺はじっと見つめていた。いや別に何を真剣に考えていたとか、そういうことじゃなくて。――最近結構、ていうか、よくある。なんかこう、じっと見つめてしまう感じが。 ――なんだろう。 「……別に、フツーに過ごすんじゃね?」 こちらを見つめてくるその目が答えを急かすから、パッと思いついた答えを口にした。しかしながらどうにも不満のようだ。覗き込んでくる顔に引っ付いた眉が、ぎゅっと八の字を描く。 「普通って……最後なんだよ? 何かやり残したこととかさ、あるでしょ?」 「やり残し、ってーもなぁ……」 「あるじゃん、なんか、ご…強盗してみるとか? 殺人とか」 「お前たまに超物騒だよな」 世界が終わるからって、別に悪党になる必要はないんじゃなかろうか。特にそれを長年望んできたわけでもないのだから。思ったままを口にするが、そいつとしてはやっぱり腑に落ちないらしい。何か言わせたいことがあるように見えるが、欲しい答えが元からあるならば、そもそも訊かなければいいものを。 そう思うが言いはしない。代わりにわざとらしく首を傾げて、考えこむフリをする。いや、フリというわけでもないかもしれない。頭の端の方で考えを巡らせるのだが、如何せん現実味がなさすぎて何も思いつかないだけ。 「別に、……ねぇな」 暫し逡巡した後、ぼそり、呟く。 独り言のようなそれは、風にさらわれて消えてしまうくらい小さかったはずなのに、この地獄耳には届いてしまったらしかった。弾かれたように顔を上げて、まじまじとこちらに視線を注いで。 「ないわけないじゃん」 「まだ言うか。ねーよ」 「ええ……」 「何だよ不満か? じゃーなんだ……とりあえず通信プレイでもすっか?」 それならいいのか、と訊こうとしたところでそいつが。 「通信? あ、ネットの人と?」 そんな的外れなことをひとつ。 「あ? お前どうせ暇してんだろ?」 「――え……僕とするの?」 「それ以外になにがあんだよ」 「…………へぇ」 「……なんだよ」 「いや…別に? でも、……ふぅん」 要領を得ない反応に、焦れたところで仕方ない。相手にするだけ無駄で、追求したところでどうにもならないのを俺は知っているから。 だからそれ以上は口を開かないで、ため息をひとつ、小さくつくだけ。 コートの裾から冷風が入り込んで、手首のあたりがヒヤリとする。それに身震いしてポケットに突っ込んだ手の位置をごそごそと変えていると、隣から唐突にコメントが飛んできた。 「……友達、少ないんだね」 先ほどの話の続きであろうそれが、こめかみのあたりにぶつかって落ちる。 随分直接的な嫌味だなと軽い苛立ちに声の飛んできた方を向けば、そこに予想と反した顔があるから目を見張った。 ――世界が終わるっていうのに、僕なんかと遊ぶの? ぼそりと呟いた、お前の頬がぽっ、と、ちょっとだけ赤い。その意味に、なんだか気づいてはいけない気がして。 顔を背ける。 「べつに……」 別に友人が少ないわけじゃない――のは、こいつもわかっているはずだ。だから。 もっとしっかり笑えばいいのに、いつも口の端をちょっとだけ持ち上げて、眉を八の字にそいつは微笑む。場合によってちょっとずつ違うのはわかるのだけれど、形容詞というもの自体がよくわかっていないレベルの脳ミソでは、なんか困ってるみたいな笑い顔だな、なんていう言葉しか出て来やしない。 ――さて、差し掛かるはまたしても十字路。先を行けば国道に、右に行けばこいつの家の方面へ。俺はここを左に曲がる。 話が中途半端なような気がしないでもないが、そんなのいつものことだろう。俺はポケットからひょいと手を取り出してヒラリと振り、それをお別れの挨拶にする。――のが、いつもの流れ……なのだけど。 「え、なに、どっか寄んの?」 けれどもそいつも左に折れてくる。ちょっと俯き加減で、でもしれっとしながら追いかけてくる。不意打ちに目を丸くしながらそう問えば、返ってきた答えは「本屋」。 いや多分本屋なら、駅前のやつが一番品揃えいいと思うんだけどな。駅前行くんなら右だからな。俺の家の近くなんてせいぜい図書館があって、あとはなんか紫の頭したババアがよく入ってく服屋と、ポスターが色あせて物哀しいことになってる寂れた郵便局があるくらい。 本屋っていってもあるにはあるけど、雑誌の発売がいつも二日くらい遅れる、いい加減なところだ。駅前のやつに押されて売上げが下がったのか、めっきりやる気がなくなって、あとは自然消滅を待つばかり――みたいな、そんな本屋に、何の用事があって行くのか。 「なに買うんだ?」 「え」 「だから、本屋で」 「あ、…えっと……」 黙り込む、というよりは考え込んでいるようなその態度に、首を傾げた。 「攻略本とかか?」 「あ、うん。……そんな感じ」 物を買いに行くのにそんな感じもなにもないだろう。俺はちょっとため息をつく。たまにあるのだ。図書館に行くって、こいつが言い出すときとか。こういう空気になることが。 何か意図がある。それを分析すること自体は可能なんだろうけど、俺はなんだかわざとそうしないでいる。 ――のは、なんでなんだろうな。 沈黙が落ちてくるけれど、だからといって不快なわけではなかった。 目だけで見上げれば空は先ほどよりも明度が下がっていて、ちょうどそれはカラオケルームの明かりをゆっくりゆっくり絞っていくのと似ていた。 ああカラオケ行きてぇな、なんてそんなことを思いながらひとつ欠伸。すると隣から、「あのね」と声がかかる。 「ン?」 「たとえば……たとえばね? 世界に僕ら二人だけになったらさ」 二つ目の欠伸を噛み殺す。横を俺よりも小さな歩幅で進むそいつはそこで言葉を切るけれども、その先なんてわかりきっていた。 「『どうする?』って?」 「……あ、うん」 「どうするっつってもなぁ。なんつーか、さっきのもそーだけど現実感がなー」 「もしもの話だから、現実とかあんま考えちゃだめだよ」 「またもしもシリーズかよ」 「し、シリーズ最終巻だから」 「続編か」 「うん」 うんじゃねえよ、と小突いた。ポケットから取り出した拳で、そいつの頭をこつんと軽く。寒風に冷えきった黒髪が、猫っ毛らしくふにゃりとやる気なく俺の拳に反発するわけだが、どうにも調子がおかしい。いや、髪の調子としてはいつも通りすぎるくらいいつも通りなのだけれど、いつもならここで手をはたかれるはず…なんだが。――気のせいか? ……気のせいじゃないはずだ。だってこれは、こいつと俺の間柄の中でほぼ唯一気懸かりな案件だから。 おい、と声をかけてみる。すると大袈裟なくらいその肩が跳ねて、こちらが面食らった。いよいよ本格的に様子がおかしいぞと覗き込めば、ちらとこちらを一瞥したそいつが少し歩調を早くして。 「……答え」 「あ?」 「いや、ううん。いいんだ、ごめん」 自分から聞いておいて何を。けれどその質問に、正直答えを見つけられないから――というか、さっきからどういった意図でそんな話をしているのだろう。いつもなら頭にくる先生の話とか、今やってるゲームの攻略の話とか、あのコンビニの新作肉まんの話とか――もっとそんな、くだらないことばっかりなのに。 やっぱり今日は、様子がおかしいような気がする。気がするけれども、それを正面切って口にしたところでこいつは笑ってはぐらかすだろう。決め手が無いぶんこちらとしてもそれ以上踏み込めない。 けれど、気になる。――何故? ……無性に。 それからひゅうと、北風が吹き付けたから。 足を止める。と、いうのはお前も同じで、違うと言えば不意打ちをくらった俺がちょっと変な声を上げたことくらい。 わだかまった思考がそれで一掃されて、視界の真ん中にお前。黒髪の後頭部がくるりとこちらを向いて、白い息を。 「……あのさ、ごめんもうひとつだけいいかな」 そいつはごめんのワンクッション付きでまた、「もしもなんだけど」を繰り出した。 もしもシリーズは最終巻だったんじゃないのか、なんて、頭の中で軽口を叩こうとした。――したんだけれども。 その刺すような視線に捕らわれて叶わなくて。 「……僕が君のことを好きだっていったら――どうする?」 聞こえるのはエンジン音。でも少し遠い。薄っぺらい唇を控えめに閉じたお前の、その闇に溶けそうな黒髪を風が解いて、はらり、はらりと……前髪が、そこから覗く、目が、――お前の、―― ……どうする、――って? しっかりはっきり、見つめてくるその大きな目の奥の奥を、俺は見つめ返しているはずで。けれども何かぼんやりと、そう、外国語の文字列を見た時に、目がするすると滑るアレに似ていた。上手く、焦点が合わなくて視界が悪い、あの感じ。 ――何故だろう。確かに自分の体なのに、痺れたみたいに唇が動かない。唇だけじゃない。足先も指先も電気信号が行き渡らなくなって、ほんの少しも動かせやしなかった。――それよりもなによりも、脳の真ん中がからっぽになって、何にも……本当に何にも、考えられなくなる。 こいつの言葉が頭蓋骨の空洞で、何度も何度も反響するだけで。 視界に広がる、いつの間にか黒に染められた曇天。その真下にはお前。俺の不自由な口元が凍てついて。 別に僕、そんなに沈黙とか嫌いじゃないんだ。君との沈黙は、気まずくないから。なんて、どの口が言っていたんだろう。確かにそう説いていたお前の口元がどこか不安げに半開きにされているのを、見逃さない俺じゃない。けれどもだからといって、――何を、どうしたら。 結局耐えられなくなったらしいお前が――ごめんねを添えて、困ったように笑う。 「――たとえばの話だよ」 前へ 次へ |