シェークスピアよりも不器用な



 薄暗い準備室内で、ボールペンが紙の上を滑る音が二つ。校舎内で最も玄関から遠いところに位置するその教室は、梅雨ということもあってか空気が淀み、またそのペンの単調な音のせいで一層そこを鬱屈とした雰囲気にさせていた。廊下に掲示されているその場所の名は『数学科準備室』。大半の生徒は部活か帰宅かの二択で校舎内が閑静になった今、数学教師である小柴直人は小さく息をつく。
「――櫻井、あと何枚?」
 小柴はそっと、赤で丸とバツがつけられた小テストの答案用紙から顔をあげると、机の反対側で自分と同じようにペンを構えた女生徒に声をかけた。彼女は顔を上げないまま、外の雨に掻き消されそうな声で「五枚」と答える。
 そうか、すまないねと、そう返答した。それからもう一度ペンを持ち直し、残る数枚を片づけにかかる。
――櫻井彩乃。目の前の人物の名前だ。
 成績優秀品行方正、おまけに容姿端麗ときた。奇跡のような三拍子を持ち合わせた、さながらありがちな学園アイドルのようなスペックを持つ彼女が在籍しているここがまた女子高等学院なもので、これがまた彼女をベタなキャラの位置づけにさせていた。ルックス的にもおそらくそれで相違ない。湿気など関係ないといったように彼女の長い黒髪は彼女の鎖骨のあたりを通り過ぎ、腰まで行かずに束となりばらける。日本人形も指を咥えるほどのヤマトナデシコスタイル――といえばいいのだろうか。小柴は最近の女子高生の流行りを積極的に調べたことがないので詳しいことはわからないのだが、とりあえず彼女のその異常ともいえるドストレートの長髪が、周りの女子と違う雰囲気を醸し出していることは少なからず知っていた。彼女の肌の白さもまた他人から逸脱する要素の一つであるように思う。演劇部に所属しているという彼女は、朝早く登校し、日が沈むころに下校する。体育の授業に関してどうしているのかまでは知らないが、それでも日焼けしたところなど一度も見たことがなかった。女子の間では彼女の風貌が「まるでお人形さんみたい」と評されているのを小柴はしばしば耳にしたけれども、実のところその裏側に薄暗い中傷が潜んでいるのもまた、彼は知っている。
「先生、第七問の(3)はベクトルを使って解いても正解にするの?」
「ああ、ベクトルか……。そうだね、筋が通っていれば丸にしていいや。基本的な解き方は今度授業で説明するし」
「そう」
 言って彼女がまた紙に目を落とす。なかなかに素っ気ない態度ではあるが、そんなの通常運転だ。櫻井の口数が少ないのは自分相手だからではなく誰に対してもそうであるし、実のところ小柴はそこが気楽でいいと思っている。今回のこの丸付けの手伝いを申し出たのは櫻井の方であったが、それを承諾したのはもちろん小柴本人だ。本来なら教師がこなさなければならないことを押しつけるような形になるのだが、特に生真面目を気取っているわけではない小柴としては、口外しなそうで優秀な生徒である彼女の申し立てを断る理由が見つからない。
「……そういえば櫻井、今度の文化祭は何をやるの?」
 世間話を始めよう。特に沈黙に耐えられないというわけではないけれど、小柴は口を割る。丸付けの終わった答案用紙をトントンと揃えていると、同じく完遂したらしい櫻井がペンを答案の横に置いた。
「部の演目のことですか?」
「うん。去年は君、出演していなかったでしょ。今年は何をやるのかなって」
 トントン、と櫻井が答案の底を揃える。そしてそれから瞬きをして、瞼を伏せたまま呟いた。
「シェークスピアですけど。知ってます?」
「理系だからって学がないわけじゃないからね、それくらいは知ってるよ。シェークスピアのどれ? ハムレット?」
「『真夏の夜の夢』です。……はい、終わりました」
 机を挟んで反対側から、答案が手渡される。小柴はそれを「ありがとう」と受け取ると、端の方を少し捲りながら枚数を数え始めた。
「ああ……なんとなく知ってるかな」
「多数決で決まったんです。新入生の希望が集中して」
「ふぅん……それで君は?」
「え?」
「何の役をやるの?」
 その質問を投げてから、あ、ちょっと待って当てる、と手を突き出す。それから頭の中で配役を並べ思い当たるものを口にするが、櫻井は首を横に振るばかりでちっとも縦には振らない。
「それも違うの? あと何があったっけ」
「……先生、裏方も立派な役者ですよ」
 両手で頬杖を突いた櫻井が小さく笑う。小柴はその言葉に目を丸くして、それから大きく数回瞬きをした。
「えっ、出ないの? だって君、もう三年でしょ?」
「年功序列ってわけじゃないんで。それに私にはこっちの方が合っているから」
「……君くらいの容姿なら、舞台に立ったら映えるんじゃないの? 俺だったら君を推薦するけど」
「残念ながら、大根役者で。道端の地蔵か銅像の役なら喜んで引き受けますけど、喋るのはちょっと」
 謙遜か、と問うと、困ったように口元に弧を描いた櫻井が緩く首を横に振った。どうやらその様子からそれが本当だと察しがついたわけだが、それにしても意外である。
 天は二物を与えないということか。彼女の場合既に二物も三物も与えられているような気がしなくもないのだが、やはり完全にはなれないということだろうか。
 しかしながら、そうだとしても勿体ない。そう思い目をあげると、櫻井と視線がかち合った。目も大きいし、やはり舞台映えするのは間違いないと思うのだが――そんなことを思いながら無意識にじっと見つめてしまったのがいけなかったのか。櫻井がそっと視線を外へはずす。
「公演は、午後?」
 座っている机の後方で、黒い液体を落としているコーヒーメーカーに目をやる。それからマグカップを手にとって、そこに注ぎ入れながらそう訊いた。櫻井も飲むかと尋ねたが、首を横に振られてしまう。
「午前とお昼と午後の、三回公演です」
「結構な回数やるんだね。君がいるのはどこの回?」
 スティック型のシュガーの端を指で切り、それとその液体をスプーンでくるくると混ぜながら問えば、彼女は「朝からずっといますけど」と言いながら首を傾げた。
「どうしてそんなこと訊くんですか?」
「? 見に行くからだよ。午後の回なら二時半あたりになるのかな? 多分そこなら仕事がないから見に行けると思うんだけど」
 コーヒーを口に含む。舌の上に苦みと甘みが同時に広がるが、若干甘みの方が気になる。これは入れすぎたなと目を眇めたところで、こちらに注がれた視線に気がついて目をあげた。
「先生、演劇とかお好きでしたっけ。あんまりそういう話を聞いたことはないような……」
「ん? そうだね。普段は全然見ないかな。でもほら、折角櫻井が頑張ってるんだし、見に行こうかなって思ったんだけど――あ、もしかして嫌だった?」
 先ほどの言葉は牽制だったのか。そう思い慌ててそう口にすると、櫻井が首を横に振る。
「いえ、そうじゃないです。お時間があるなら、是非……」
 珍しく何か声がうわずった櫻井の、頬がほんのりと赤かった。小柴はそれを観察しながら、裏方だっていうのにそんなに恥ずかしいものかな、なんてことを思ってまたコーヒーを啜った。



     × × ×



 キーボードを叩く手を止めてみると、そこはやはり梅雨時期の数学科教室で、雪崩でも起きたかのように雨の音が耳の奥深くへと流れ込んでくる。それ自体は雨足も強くないので大きな音ではない筈なのに、その静寂と相まって引き立つ。小柴はしばし感慨にでも耽るようにその音に耳を傾けていたが、ふと我に返りキーボードを打つ手を再開した。
 教師の仕事は単調な物が多いけれど、特にエクセルの打ち込み作業の単調さはそれこそ間にこまめに休憩を挟む必要があるくらい苦痛だ。いや、それを言ったら毎日の小テストの丸付けだって櫻井に押し付けるくらいにはやりたくないし、週に数回同じ内容を繰り返す授業だって寝ている生徒が大半だったりするのだから正直もう映像授業か何かにすればいいのではないかと思っている。なんて、間違っても口には出さないけれど。
 正直なところやる気がない。これを梅雨の陰湿な空気のせいに出来たならそれはそれできっと楽なのだろうが、そうではなくて元々教師という仕事自体に対してのモチベーションの無さの話であるからどうしようもない。
 ならば何故教師をやっているのか。その話は半分は大学時代の何となくの流れと就職氷河期やらなんやら世間の流れとで説明できるが、もう半分は――まぁ、今は。

(――あれ。テキストがない)
 今日の五限の授業で使うのに。小柴は自分の机周りをきょろと見回すが、やはりそれらしきものはない。ということはどこかの教室に置いてきてしまったのだろうか。最後に使ったのはどの組の授業だっただろう。――とりあえず、探しに行った方がいいか。
 はぁ、と小さく息をついて小柴は面倒そうに立ち上がった。回転イスがキィと鳴き、惰性のまま緩やかに回る。


     × × ×


「小柴先生」
 じめっとした今にも水が滴りそうな放課後の廊下に、似つかわしくない声が響く。背後から投げかけられたそれは張りがあり、およそ自分の発声方法とは真反対だと小柴はいつも思う。振り返ればその声の通りの好青年がこちらに向かって駆け寄ってくるところで、小柴は特に返事もしないままそこで歩みを止めた。
「ちょうどよかった。先生に渡すものがあって、さっきから探してたんですよ」
「……俺に?」
「ええ。…はい、これです」
 小柴よりも身長の高い彼――日高という名前だが――が、にっこりと手渡してきたのはまさに自分が捜し求めていたそのテキストだった。小柴は驚きに一回目を大きく見開いて、それから笑みに細くなっている彼の目を見上げた。
「……ありがとう。よく俺のだってわかったね」
「はい。このシール、生徒が小柴先生のテキストにも貼ったって自慢していたもので」
 シール、と言われて、小柴は手の中のテキストを裏返す。青いデザインのそれにぺたりと貼られたそれはどこかの携帯会社のマスコットキャラクターで、小柴はああそういえば、と感嘆の声を上げた。確か先週のことだったか。
「助かったよ。これ、五限で使うところだったんだ」
「お礼はビール一杯でいいですよ」
「うん、考えておく」
 軽くあしらいながら足を進めると、日高が「またそうやってはぐらかす」と口を尖らせながら後をついてきた。小柴は歩調を変えないまま、若干振り返り気味にスニーカーを鳴らす。
「飲み会とか、来ないんですか? そういうの、嫌いとか?」
 随分直球な物言いだが、それが日高という人間をよく表していると思う。率直で少し強引。年下故の敬語を差し引いても、ぐいぐいと突っ込んでくるような性格が見て取れる。
「行きたいとは思ってるけど、忙しくて行けないんだ」
「お仕事ですか? ダブルワーク?」
「……公務員が?」
 微かに笑いながら質問にそう質問を被せると、日高は真剣な顔をして、まだなにやら考えているようだった。正直に行きたくないだけだと伝えるのはやはり職場関係的によろしくないものがあるような気がして、小柴は「プライベートです」とまたはぐらかした。
 横を向けば拗ねた子供のようにむっと口を尖らせた日高が、その顔には似合わず長い足で小柴に並ぼうと足を進めている。
「……小柴先生は、いつもどこにいらっしゃるんですか? 職員室で全然見かけないからオレ、呼び出すしかなくて。でも私用では放送使えないでしょ?」
 隠れ家的な何かでもあるんですか、と言われて、図星だったけれど首を縦には振らなかった。「まぁ、そんな感じかな」と曖昧に返せば、日高はかわされたことにまた拗ねて、「そうですか」とへそを曲げる。
 湿気に濡れた廊下に靴がこすれて、二人分の足音がうるさく響きわたった。
 別にプライベートというわけでもないし、あそこは建物の一部で特に入室制限があるわけでもない。けれど小柴には、この男をそこに招き入れるのを遠慮したいわけがあった。
 それを本人や誰かに公言したことはないけれど。
「……じゃあ…俺、印刷室寄るところだから」
「あ、えっ、はい。がんばってください!」
 いや何をがんばれと言うのだろう。そうは思ったものの、小柴は軽く会釈をしてから廊下の突き当たりを日高と反対側へ折れた。振り返りはしないけれど、耳は鋭敏に彼の足音を拾い、聞こえなくなるその時まで、俯きがちにその音に集中していた。

――さてここでひとつカミングアウトをしたい。今や世の中男女平等だのジェンダーが何だのと人々は騒ぐわけだが、実際問題日本という国においてその性差というものがほぼ解決していないのを、小柴は日々肌でひしひしと感じている。というのはつまり、この広大な海に浮かぶ小さな島の上では、基本的に同性との恋愛はよしとされていない――そのことをその身をもって知っているということで。
 もっと直接的な表現をしよう。小柴はいわゆる同性愛者であった。いつからなんて覚えていない。気がついたときにはそうだった。
 現代に生きる一般的な「そういう人」というのの大半は、「そういった」サイトやコミュニティに積極的に顔を出し相手を探して行ったりするらしい。アブノーマルな性的嗜好であるから恋愛をすることが困難なのかといえばそういうわけではないようで、女をとっかえひっかえする男のごとく、男をとっかえひっかえする輩もいる。らしい。
 らしいという表現を使うのは、これが全て知人や友人から仕入れた知識で、小柴自身が経験したものではないからだ。
 引っ込み思案な性格が災いして、実のところ小柴はその道で積極的に行動したことがない。だからといって恋愛経験が皆無だったというわけではないのだが、人並み以下であると自分自身そう思っている。
 自分に自信がないのがそもそもの原因だ。
 それというのはまず容姿の問題で、全体的につまようじで作ったような貧相な体は一部の女子高生からの人気はまばらにあるけれど、同性――特に「男らしさ」を求められるコミュニティにおいての小柴の人気は、あまり望めるものではないように思う。
 おまけに昔から人と関わることを得意とせず、教室内では端の方、休日は自宅、夏休みはバイトに精を出すという学生生活を経たせいで引っ込み思案は二十数年の人生で酷く拗れた。これでもいくつかの面接と避けられない人間関係で昔よりは幾分かマシになったと思うのだが、だからといって根本は覆らない。社交的とは程遠いと、自覚している。
 現時点でも職員室に行かずこんな小さな教室にこもることそれ自体が、小柴の引っ込み思案が直っていないことを証明しているのだろう。
 ちなみに教師という職業にさほど興味がないのにこの職に就いた理由のひとつに、この問題は大きく関係している。ただでさえマイノリティだ。足元を掬われれば一瞬。社会的立場が暴落することなどたやすい。それを自覚しての選択だった。また勤務先が女子高であるのもその所以であるのかと訊かれれば、正直なところノーとは言い切れないのが現状だ。何かまずいことになる可能性はゼロじゃない。だからここなら安全なはず――だったのだけれど。

 片手で重い印刷物を持ち上げ、細かく震えるその腕を必死にこらえながらドアを閉めた。数学準備室はすっかり日が落ちてしまったせいで視界が悪く、小柴は相当な重量のそれを一番近い机の上へと置くと壁のスイッチを押す。
 散らばった書類と、テキストと参考書。小柴以外ほぼここを利用していないため、この教室は小柴の物で溢れ返っている。それを見ると酷く安心する。それは概ね自分の家に帰宅した瞬間の安堵感と似ていて、まさに隠れ家と呼ぶのにふさわしい場所だ。

 さて、話を小柴のカミングアウトまで戻そう。つまり同性愛者である小柴直人という人物が、日高をここに誘いこみたくない理由――それがまさに「それ」であった。
 詳しいことは言わないけれども、小柴の良識とモラルとインナー思考の関係で、少なくともここに『恋愛対象』を連れ込みたくはない。



     × × ×




「――失礼します」
 ノックが二回。ドアの向こう、少しくぐもった声がして、小柴は弾かれたように顔をあげた。それから声のする方を凝視すると、引き戸のそれが音を立てて開く。
 あらわれた人物は、声から想像していた人物とは違う、黒髪の凛々しい顔つきをした彼女であった。いや、でも、もう少し男らしい声だったように聞こえたのだが――そう思ったその刹那、視界にその「彼」が飛び込んできた。
「あ、ほんとだいたいた。ありがと、櫻井さん」
「いいえ、どういたしまして」
 小柴を見るなりにっこりと笑った日高は、そのまま櫻井にも笑いかけ、満足そうに教室内を見渡した。彼が言うには、小柴の隠れ家がどうしても気になって思いつくところを当たっていたところ櫻井に会い、ダメもとで小柴を知らないかと訊ねてみたらしい。その偶然がはたして彼の勘の良さから生まれたのかそれとも本当にただのまぐれであるのかは分からないが、兎にも角にもどういう状態なのだこれは。
 驚いて瞬きをして、「どうも」と言うのが精一杯であった。対する日高は興味津々に小柴の机の方まで足を進め、それから「あ」と小さく声を上げる。
「すみません、お忙しいですよね」
 彼が目にしたのは、おそらくパソコンに映っている数回分の小テストの問題と、それを試しに解いてみた計算用紙の残骸だろう。正直今はただコーヒーを飲んでぼうっとしていただけで特に何をしていたわけではないから、忙しいというわけではない。そういう意味を込めて首を横に振ったが、どうも相手には素っ気なく見えたようで、謝られてしまった。
「ごめんなさい小柴先生。またお暇な時を見計らって来ます」
「え、いや……大丈夫だよ。これ明日までだし」
「でも、終わるのは早い方がいいでしょ? 終わった頃にまた来ますよ」
 これでまた「それでも」だなんて引き留めるのは、それはそれでおかしいのかもしれない。小柴はその代わりの言葉が見つからず口ごもるが、一方の日高はまた「すみません」と謝って、それからいきなり来た自分が悪いのだと言いながらドアに手をかける。
 それじゃあ、と手を振って、日高は立てつけの悪い引き戸を難なく閉め扉の向こうへと消えた。その一部始終を見届けて、それからドア付近に突っ立っていた櫻井に視線を移す。特に何の表情を浮かべるでもなく口を閉ざす彼女に「座ったら?」と声をかけると、やっと小さく口元を笑わせた彼女が向かいの椅子に腰をかけた。
「――お邪魔だった?」
「え?」
「いいえ、なんでも」
 言って、また小さく笑う。キーボードを叩きながらその言葉に小柴は首を傾げたが、すぐにそれが作業の邪魔という意味だと解釈をしてその首を横に振った。
「あ、いや…別にいいよ。さっきも言ったけど明日までに出来ればいいやつだし」
「……テスト問題の話では、なくってね」
 被せるようにそう口を割った櫻井は鞄の中からケータイを取り出して、その画面に目を落としながら続ける。
「日高先生とお話したかったんじゃないかなって思って」
 ドク、と心臓が一回大きく波打って、思わずタイプミスをした。けれどもそれを顔に出さないようにしながら、数回バックスペースキーを叩く。
「だからお邪魔だったかな、と」
「……いや、えっと……、本当に邪魔とかそういうんじゃないんだ。ちょうど休憩してたところだし、コーヒー飲んでただけだからさ」
 喋りながらマウスをつかんで、問題を映し出すそこをスクロールした。下までたどり着いて、それからまた上に戻って、意味のないスクロールを繰り返す。
 いや、ちょっと落ち着こう。櫻井にばれている訳がないのだ。ここで動揺を見せたら、むしろおかしいだろう。そう思い戦慄いていた口元を引き締め櫻井の様子を窺うと、先ほどと打って変わってどこか冷たい目をした彼女が、こちらをじっと見つめていた。
「先生、今日はなんだかテンションが高いですね」
「そんなことはないよ」
「テンションが高い先生はよく喋る」
 カタン、とケータイを机に投げ出して、櫻井の視線が深く刺さる。それから目を背けていた。目を、合わせてはいけないような気がして。
「――日高先生にここを教えない方がよかったですか?」
 落ちてきた質問に、小柴は目を瞬いた。視線の強さの割に核心を突いてくるわけでもないそれの意味をつかみかねて、目をあげる。そして緩く首を振った。
「いや、別に? だってここは俺だけの場所じゃないし、誰が来たって文句を言える立場じゃない」
 言って視線を手に落とし、キーボードを叩く。スペースキーを一回、バックスペースキーを一回。次に続く言葉を待っているが、櫻井が急に黙り込んでしまったせいで教室内に水滴が窓を叩く音が広がった。不思議に思いもう一度顎を上げると、やはりまだこちらを見ていた櫻井がぽつりと零す。
「……先生のその目、どこかで見たことがあるなって……いつも思ってたんです」
 目を見つめながら、突然の言葉に、その目? と繰り返せば、日高先生に対する目です、と返される。
 心臓が大きく跳ねた。
「後輩にね、私のことが好きって言ってくれる子がいるんですけど」
 頬杖をつき、首を傾げた櫻井が、動揺を隠し切れていない小柴の目を覗きこむ。小柴は自分の心臓の音に合わせて首筋に汗が流れるのを感じながら、口を割れずに黙り込んでいた。
「その子の目に、似てる。……ねぇ先生――日高先生は恋人なんですか?」
 まさか出てくると思わなかったそんな言葉に、変な声を上げる。激しく首を振って否定をしたが、それからその反応がまずいことに気がついた。しかしもう今更で。
「……わかりやすいひと」
 口の端を持ち上げて、目を細めて、まるで笑っているかのような所作なのにどこも笑っていない。そこには可笑しみというより何か別の感情が透けて見えて、小柴の背中がひやりとした。とりあえず、このまま黙っているのはまずい。そうは思うのに口が上手く動かなくて、やっと出た声が震えた。
「……さっきから色々言うけれど、君は同性愛に免疫か何かがあるの?」
 質問を質問で返すと、櫻井は自らの黒くて流れるような髪の毛を指先でいじりながら首を縦に振った。
「私は同性愛者ではないけど、そういう人って結構いるから」
 偏見はないですよ、と櫻井は呟いた。その指の先で張りのある黒髪がほどけて、小柴はそれに目をやりながら、激しくなる鼓動で声が震えてしまわないよう細く息をつく。
「……別に、これで何か強請ろうってわけじゃないので、そんなに固くならないでください」
「その前に、まだ俺は答えを言っていないよ」
「答えてるようなもんじゃないですか」
 その目と頬が、そうだって言ってる。櫻井がこちらを指さして、小柴は数回瞬きをした。
 おそらく、彼女は小柴の言葉を待っているのだ。もしくは首を縦に振って、彼女の推測を肯定するのを。でなければそんなに自信満々に言い切るくせに様子を窺うような目をするのは、おかしな話だろう。
「……興味本位で人のプライベートを覗こうとするもんじゃない」
「そんなんじゃないです。私は至って真面目に訊いてる」
「聞いてどうするの」
「……参考にするんです」
「何の?」
「私の」
「……意味が分からないよ。君の目的は何なの」
「目的だなんて、そういうわけじゃないですよ。ただ私があなたを好きなだけです」
 つるっと、まるで今日の献立でも口にするみたいに、彼女はそんな言葉を言ってのけた。あまりにも何でもないように口にしたものだから小柴はあやうく聞き逃すところで、遅れて頭の中に降ってきたそれに時間差で目を見開いた。
(――今、なんて? 好きだと言ったのか? 櫻井が? ……この櫻井が?)
 その言葉をどうこう思うよりも先に、直感的に似合わないと思った。その薄い控えめな唇の狭間から、まさかそんな言葉が出てこようとは、小柴の常識の中では全く考えられないから混乱する。
 そもそもは何の話をしていたのだったか。それすらもわからなくなるくらいに頭の中が妙に忙しい。そうじゃないか、俺が同性愛者かどうかの話をしていたのに、どこから飛躍してしまったのか。
 瞬きをして、やっとぎこちなく口が動いて、けれどやっぱり受け入れられなくて。
「櫻井、冗談も大概に――」
「冗談を言うような人間に見えますか?」
「じゃあ何……からかってるの?」
「いいえ? あなたを好きなだけです。だから確かめようとしてるんです」
 じぃ、と彼女が覗きこんでくる。確かに櫻井は冗談が上手いタイプではない。どころかおそらくその類のことを言っているのを小柴は耳にしたことがない。だから余計に困るのだ。受け入れきれない情報量とイメージとの解離に。
「ちょっと待って。混乱してる。どうしていま君が俺にそんなことをいうのかわからない」
 額に手を当てそう言い放つと、伝えた方がいいかと思って、だなんて言葉が出てくるものだから首を傾げる。意図は何なのか。もう一度そう問うと、彼女はやはりこちらをじっくりと観察しながら、訥々と言葉を投げかけてきた。
「……特にこれと言ってそこまで理由があるわけじゃないですよ。ただちょっと――先生が私を選ぶ可能性がどれくらいあるかを見積もりたいんです」
「俺がゲイだったとして、それが君にどう影響するの?」
「可能性がゼロになるんじゃないですか」
 他人事のような言いぐさで、櫻井は言ってのける。けれどもよく見ればその目は軽く伏せられ、睫毛が微かに震えていた。

 何だろうか。何か、裏切られたような気分だ。こちら側に踏み入られた不快感というよりも、秘密を暴かれる恐怖感よりも、もっと確かに絶望のような、信じられないという思いが強い。
 それは彼女の言葉の真偽を疑うとかそういった類の話ではなくて、そもそも彼女が他人に興味を持つ、そのこと自体に酷く違和感めいた何かを感じていた。

 その沈黙で、櫻井は何かを悟ったようだった。小柴も小柴でここまできたら騒ぎ立てる方が怪しいと思うので、弁解はしない。それにばれたところでおそらく櫻井は誰かれ構わず言いふらすような人間ではない。その確信はあった。だから口止めなど必要はないが、その代わり多分、小柴に求められているのは彼女に対する何かしらの言葉だった。
 好きだと言われたら、自分はどうなのかと答えてやる。それがきっと世の中のセオリーというものなのだろう。
 だけど応えてやるつもりはない。そもそもの前提として立場的な問題があるのはもちろん、こんな性癖だ。むしろ応えてあげられるわけがなかった。
 だから、言葉など無い方がいいのではないだろうか。
 そう思ってそれ以上は言わなかった。落ちてきた沈黙が酷く長かったが、けれどそれを破ったのは小柴の方で。
「……今日は、もう閉めようか」
 雨の音が耳につく。櫻井がひとつ、小さく頷いた。



     × × ×





「――先生、告白は? ……告白はまだしていないの?」
 本日も変わらず雨降りで、小柴の猫っ毛がくるくると荒れ狂うほど湿度が高い。まだ日が落ちるような時間ではないのに外は薄暗く、対照的に教室内の蛍光灯が煌々と光っていた。人工的な光の中で、小柴は手にしていた書類をつい取り落としそうになる。
「……え?」
「気持ちは伝えたの?」
 昨日のことがあったから、てっきりもう櫻井はここに来ないだろうと思っていた。授業や日常、人目があるところで自分を避けないのは周りから悟られたくないからで、実際一対一になれば態度の差が出てもそれは当然――そう思っていたのに、彼女はいつもと全く変わらない態度で、全く変わらない時間に、本当に「いつもの通りに」数学準備室の扉を開けた。そこで小柴は一回目の「え?」を口にする。
 そして今、この瞬間が二回目だ。入り口の戸を閉めて、挨拶を口にしながらいつもの席に座って、赤ペンを握りながらテスト用紙はどれと尋ねて、小柴がそれを手渡そうとした、その瞬間。
 何を、と質問を質問で返そうとするが、櫻井の目は単純にイエスかノーの答えを欲しがっているように見えた。ここでなんらかの捻った回答をするのが生徒に好意を寄せられた先生の上手い立ち回り方だったのかもしれないが、そんなことが出来ないのが小柴という人間である。
「つ、伝えてないけど」
 ぎこちなく口が動く。それが何かと問えば、ふぅんと小さく反応を示した櫻井が「伝えないの?」と言った。
「え、うん。伝えないよ」
 それにしても随分さらりと話を降って来るものだね、なんてそんな言葉を言おうとして、けれども櫻井に言葉を被される。
「――何故?」
「な、何故って。……常識的に」
「常識?」
 その話はやめないかと、そう話を中断してしまいたいのだけれど。櫻井の目にただの好奇心よりも遙かに真っ直ぐな何かが見えて、それがどうにも叶わない。おまけにそうオウム返しをされて、小柴はついに言葉に詰まってしまった。
 口を閉ざして、さてどうしたらいいものか。そう思っていると櫻井の白くて細い手がすいっとこちらに伸ばされて、小柴の手の中にある答案用紙を奪う。彼女はそれを自分の向きにあわせて角度を変え、握った赤ペンの背を一回、ノックした。
「その『常識』というのは」
 あなたの決めた常識ですか?
 ペンが滑る音。それに混ざって、静かな声が紙に落ちる。
「――俺?」
「違う? そうでしょう。だって私の常識にはないもの」
 マル、マル、バツ、マル。櫻井がさらさらと丸付けを進めていく。小柴はそれを頬杖をついて眺め、口を閉ざしていた。
「どうして伝えないのが常識なの?」
「……どうしても何も、……困るだろ、そんなの」
「困る? 誰が、どうして」
「だから、相手がさ……どうせ取り合ってもらえないんだから、そういうことする事自体が無駄なんだよ」
 もうやめよう、と目を逸らすけれど、櫻井の追求は止まなかった。無駄ってどうして? 男同士だから何? オウム返しというよりは何か奇妙な目的があるように思われるその質問に、小柴は眉をひそめる。
「何が言いたいの、櫻井」
 もういっそのことストレートに言ってくれないか。小柴は櫻井の物分かりの良さと聡明さを知っていて、だからこそ彼女の態度を真正面から受け取るなんてことはしなかった。歯切れの悪い質問の果てに、彼女の言わんとするところがあるのだろう。いつもならそれにたどり着こうと頭を回すのが小柴であったが、今日のこれは少しプライベートが絡みすぎる。故に小柴の頭の回転も鈍り、口調も若干粗暴だった。
 睨めつける、というよりは少し困ったような、力のない視線を注いでいると、俯いていた彼女がひとつ息をつく。
「――失礼」
 ぽつり。雨の音の中、宙に浮くみたいに櫻井の声ははっきりと小柴の耳に届き、次いで暗くなった視界に目を瞬く。
 手の甲に人の体温の感触がした。それから顎のあたりにも。もう一度瞬きをして、それが全て櫻井のせいであると気がつく。小柴の右手を固定するかのごとくその上に乗せられた彼女の左手と、彼女の顔の角度に合うように持ち上げられた顎。
 そこで三回目の瞬きをした。それはシャッターを切るかのように、ゆっくりと。
 そう、櫻井の顔が、何故か――こちらに徐々に近づいて。
 まるでキスでもしようというかのように。
「…………!」
 ガタン、と椅子が派手な音を立てる。いつもは静まり返っているその教室に椅子がひっくり返る音が盛大に響き渡ったのは、実にその次の瞬間のことであった。小柴は咄嗟に体を引いて、勿論そのキスまがいな何かを拒んでいた。――ほぼ反射だった。
 目を見開いて、先程よりは顔の遠くなった櫻井の目を見つめる。動揺に揺らぐ小柴のそれとは対照的に、櫻井の目は酷く冷静で、刺すようにこちらの様子を、一挙一動を観察していた。
「なん……っ、なにっ……」
「……ちゃんと意志はあるのに」
 キィキィと、回転イスが鳴る音がする。雨の落ちる音と、小柴の心音。瞬けない目と、瞬かない目。
 腰を抜かしたわけではないのに、小柴は立ち上がれずにいた。状況が上手く飲み込めなくて、ただひたすら櫻井の行動を待つ。イスから立ち上がって棒立ちになった彼女はじっと小柴を見つめて、次の瞬間――そう、その人形のように綺麗な目から――何かが、ぼろりとこぼれたのだ。
 小柴はそこでやっと、瞬きをした。
「え……?」
 瞬きを、もう一度。視線の先のビー玉のように澄んだ目はまだ閉じられていない。閉じられていない目から、ぽろぽろと、透明な滴が落ちていく。人工的な光をはらんだそれは落ちる瞬間キラキラと輝き、そして机の上の答案用紙にシミをつけた。――ぽろぽろと、きらきらと。
 小柴が無表情な彼女の目からこぼれるそれを呆然と見つめていると、我に返ったのか櫻井が急に両手で顔を覆った。それから手のひらで、手の甲で、何度も自分の涙を拭って、それでも止まらないそれに困惑するように情けない声を上げながら、緩く首を振る。
「……っ、み、見ないでください」
 小柴はまた瞬きをした。それでも目が離せなかった。何か信じられないものを見ているような、見てはいけない、けれども釘付けになる、そんな気分だった。
 櫻井が、泣いている。そんな単純なことなのに、小柴の脳はそれを受け付けない。気丈な彼女の、涙が信じられなかった。――人形が泣いた。多分その感覚に近かった。
「見ないで……」
 凝視されていることに気がついたのだろう。櫻井は小さくそう呟くと、へたりとイスに座り込む。顔を覆うその手は細く白く、その隙間から見える口元が戦慄いていた。
 櫻井、と名を呼ぶ。すると彼女の肩が跳ねて、けれども返事はなかった。もう一度呼んで、それから立ち上がろうとすると、櫻井がまた首を横に振る。
「来ないでください。……こんな、みっともない。こんなはずじゃ……」
 こんなの私じゃない。そう呟いたのが聞こえた気がした。その意図が分からなくて、小柴は聞き返す。けれども答えてはもらえなくて、段々としゃくりあげるみたいになる彼女の泣き声を聞きながら、小柴はそっと立ち上がった。
 見てみると、櫻井の肩が酷く狭い。背の高いはずの彼女はうなだれて、いつもの気の強そうな櫻井彩乃――その人はそこには居なかった。
 成績優秀品行方正、容姿端麗。人は彼女を「お人形さん」と呼んだ。社交的とはほど遠くて、愛想を振りまくだなんてそんなことは絶対にしない。彼女はいつでも無表情。それが中傷の対象となっていた。喜怒哀楽が表面に出てこないだけでなく、振る舞いからも滲み出ないから。何を感じて何を聞いて、何を思って生きているのか。誰もそれを知らなかった。いいや多分、知ろうとしなかったと言った方が正しい。
 小柴もおそらく、その中の一人であった。
 彼女に感情があるなんて、そんなの当たり前なのに、それが信じられなかった。だから気持ちも正面から受け入れられなくて、混乱と困惑だけがそこに存在して。
――涙の訳が訊きたくなった。それが興味からくるものなのか、はたまた他の何かによるものなのかは分からなかったけれども、それでも彼女の赤い目元のその奥で考えている何かを掴みたくなった。
「……どうして泣いているの?」
 我ながら情けないくらいに気の利かない言葉が滑り出た。他にも言い方があったのではないかと自己嫌悪したところで、櫻井が下唇をぐっと噛み、雨音に溶けそうな弱々しい声で答える。
「…………悔しいんです」
 鼻を啜る音がする。彼女の手首がぐいと目元を拭って、その水分がシャツの色を変えた。
「先生が本気じゃなさそうなのが、くやしい」
 いつもの饒舌はどこへやら、たどたどしい言い方で櫻井は言葉を紡いでいた。つっかえつっかえ、途中で涙を啜って、呼吸をどうにか整えながら。
「先生があの人のこと、本当にすきならもっと必死になればいいのにって……わたし思うんです。……でも違うでしょ。せんせ、は、あきらめてる。最初っからむりだって、決めつけて……っ、それで、でも、わたしのことなんて眼中にもないんでしょう? そうおもったら、くやし、くって……」
 これは誰だと、そう問いたくなるような変貌っぷりに小柴の口元がぽかんと緩んでしまうのは、実際仕方のないことではないだろうか。もはや面影なんてどこにもない。ここにいる彼女は正真正銘の子供であった。――そう、歳相応の。
 そういえばこの子の第一印象が「変に大人びているな」だったことを思い出す。これくらいの年齢の女の子といえば騒がしくて、そうでないにしてもこんな何かを悟ったような、何か達観したような雰囲気にはならないはずだ。けれども会って、話して、時が経つにつれてそんな違和感など忘れてしまっていた。そういう人間なのだと、そう認識してしまっていたのだけれど。
 あの時感じたアレの正体が、おそらくこれなのだ。
「擦ったらだめだよ。腫れちゃうから」
 言って、小柴は鞄からタオルを取り出す。梅雨時期ということもあり二枚用意しているうちの、未使用の一枚だった。それを櫻井に差し出すと、彼女は一瞬躊躇ってから、首を横に振った。
「……使っていいよ」
「いいです」
「制服汚れちゃうでしょ」
「いいんです」
「よくないよ」
「……その気がないなら優しくしないでくださいよ」
 どこかで聞いたセリフだなぁと、小柴は苦笑いを浮かべた。それから強情にもそれを受け取らない彼女の手を無理矢理どけて、タオルをそこに押し付ける。
 小さい子の鼻でもかむようにぐいぐいと拭いてやると、おそらく文句を言っているのだろう、もごもごと櫻井の声がした。それでもやめてやらずひとしきり押し付けると、やっと解放された櫻井がタオルに顔を埋めながら眉を寄せた。
「……先生のばか」
「馬鹿ではないよ。一応先生なんだから」
「そういうの、わかって言ってるのがもっと馬鹿。先生なんてもう、当たって砕けて立ち直れないくらいになればいいのに」
 随分な言いようだなぁ、と声を上げれば、櫻井がまた俯いた。泣き声はあげないものの、また泣いているのだろう。手を伸ばして、その頭をぽんぽんと叩いてやると、恨めしそうに睨まれてぎくりとする。
「もう、告白して、とっととふられたらいいじゃないですか。失恋して、ぼろぼろになって、悲しくなって寂しくなって、……人肌が恋しくなって? そりゃ、私は女ですから……先生は一生私のことなんか好きにならないのかもしれないです。けど、それでもちょっとだけでも……それが恋とか愛とかそういうんじゃなくたって、いいから。なんかそういうの求めるっていうのは、間違ってるんですか、先生。そういう『好き』は、ダメなんですか」
「……ダメだなんて言わないよ。けど、それじゃ君が辛いばっかりじゃないの」
「……頼っては、くれないの?」
「んー……俺は大人だからね」
 迷惑にはならないよ、と、そう告げると、彼女の顔が曇る。いつの間にかタオルから上げられたその顔は涙でぐしゃぐしゃで、冷静沈着なんて跡形もない。
「大人大人って……だから大人は嫌いです。そうやってそれを笠に着て、気持ちを隠してばっかりで」
 でもそれだから、そっちのがいいのかなって思った私も馬鹿ですけど。と、彼女がまたしゃくりあげる。
「大人みたいに、って……難しい。大人になったら、出来るようになるんですかね。……それも意味ないか」
 彼女の涙は止まらない。次から次へと溢れ出て、きっと今自分のタオルは大活躍していることだろう。
 俯いてまたそこに顔を埋めて声を押し殺す姿を眺めながら、ふと櫻井が涼しい顔で言ったあの言葉を思い出す。
(――「残念ながら、大根役者で」、か)
 この世のどこに、こうも演技の上手い大根役者が居るというのか。降ってきた考えを飲み込んで、彼女に気がつかれないよう小さく笑った。
 きっと彼女の演技が未熟であるとか、そんな話ではないのだ。役に対して力不足だったわけでも、役の選択を間違えたわけでもない。
 仮面が外れてしまっただけ。塗り固め作り上げた虚像が剥がれ落ちてしまっただけ。彼女はそれを嘆くのだ。それから手を伸ばすのだ。自分と称した味気のない仮面に。
 
 それが彼女の正解だろうか? その答えなど到底分らないけれど、おそらく自分はその手を制してしまうだろう。
 無責任だと君が泣く。――それでも仮面を拾わせはしない。





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