Ep.09 Ending




「…い…………っ!」


指先に走る微かな痛みに、声を殺して小さく叫ぶ。

どうやら持っていた書類で手を切ってしまったようだ。


冬が近づいているせいなのか、どうにも手が乾燥している。


(―…えーと…絆創膏、絆創膏……)


切れた部分を他の指で圧迫して止血しながら
反対の手で鞄の中を漁った。


仕事上、紙を扱うのは避けられないので
手がどんどん乾燥していき、
一日に何回も浅い傷跡をつけてしまう。


(―…冬本番になったら、もっと乾燥するのかなぁ…)


ハァ、と肩を落として小さくため息を漏らした。


別に冬が嫌いと言う訳ではないけれど、
こう日に何度も手を切ってはイラつきもする。

自分がドジであるせいもあるのかもしれないが
乾燥のせいだと思った方が気が楽だから、そう思う事にしていた。


(―…それにしても今日寒いな…)


もちろん仕事中はストールやマフラーをつけることは厳禁。
なので悠眞は毎冬寒い思いをしながら働いている。

いつもの冬なら頑張れば我慢できるくらいなのだが
今年は異常気象が続いたせいか寒くなるのが早い。

本格的に冬になったらどれだけ温度が下がるのだろうと
想像するだけで寒くなる。


そもそも冬場にVネックもので過ごそうと思う事自体が
間違っていると非難されそうだが
持っている服がそれしかないし、
第一、 最近はそれが自分のポリシーのようなものになってしまっていて
なんだか今更ラウンドネックだのタートルネックだのに
手を出せなくなってしまっていた。


そして何より、
瑞希がVネックがいいと言うのだから仕方ない。

刷り込みのような気がしないでもないのだが
この前服を一緒に見て回った時に
「これどう思う?」とラウンドネックの服を見せたら
「お前はこっちのがカッコいいよ」と
Vネックの厚手のセーターを手渡された。

『カッコいい』という言葉があまりにも嬉しくて、
もう一生Vネックだけ着て生きていこう…などと
阿呆なことを考えたというのは自分の胸だけにしまってある事実だ。


だから寒ければ何か巻けばいいし、
巻いてはいけないなら寒いままでいい。


(―…でも今年はさすがに無理かも…?)


そんなことを思いながら
灰色のストールをぐるぐると首に巻いてロッカー室を出た。





「お先失礼します。」


バイトが終わり、
裏口から帰ろうとしたところで店長に出くわす。


「お、藤井くん。お疲れ様。もう上がりか?」

「はい。店長もお疲れさまです。…あ。そういえばさっき、
明日店頭に並べる雑誌を売ってくれないかっていうお客様がいらっしゃって…」

「どの雑誌だ?」

「『CEIL』です。女性用マンガ雑誌の。」

「そうか。それで、結局どうした?」

「佐藤さんが説得してくれて、そのお客様はお帰りになられました。
でも、その後も数名その雑誌を買いたい人が来て……」

「あの雑誌そんなに人気あったか?
それとも、今月は何か特別な事でもやっているのかな。」

「いや…俺は読まないんで詳しくは…」

「確かにそうだよな。悪かった、引き留めて。じゃあ、お疲れさん。」


ポンっと肩を叩いて店長がすれ違っていく。
悠眞は軽く会釈をしてドアを開けようと取っ手に手を伸ばした。

すると背後から、
ああ、忘れてた!という店長の大きな声がする。


「…どうしたんですか?」

「藤井くん、正面回って帰った方がいいよ!
あの子待ってたから!」

「…え……」


悠眞は腕を軽く捲って、手首の腕時計に目をやった。


「待ってたって…どれくらい前からですか?」

「んー。そうだな。
途中どっか行ってたみたいだったけど、
まぁ大体全部合わせて1時間くらい?」

「……教えていただいてありがとうございました!失礼します!」


悠眞は勢いよく取っ手を捻り外に飛び出すと
早足で店の正面に回った。


そこには店長の言った通り、
ケータイを片手にガードレールに腰かけた待ち人が居る。


「…瑞希!」


近づきながら名前を呼ぶと
ふっとケータイから目を離してこちらを向き、表情を明るくした。


「待っていてくれたの?ありがとう。
でも、今日は会えないって言ってたのに。」

「飲み会だって言ってたんだけどさ、
あの鬼野郎が幹事の先生に大量の仕事よこして帰りやがって。
んで中止になったんだ。」


ぱちん、とケータイを閉じる手は指先まで真っ赤になっている。

悠眞はそれを暖めたいと思うが、
流石に外で手を握るのはいけない気がして
出かかった自分の右手をそっとポケットに差し込んだ。

途端、瑞希がその手に注目する。


「お前、また手切ったの?」


「え、あ、うん。」


なんだか恥ずかしくなって
素早く手を後ろに隠すが、追いかけてきた瑞希の手に捕まってしまった。


「うわ…これ、紙で切った痕だな?
どんだけ切ったら気が済むんだよ…」


瑞希は悠眞の手を自分の方に引いて
まじまじと観察し、文句を言いながらたくさん付いた小さな傷を見つめている。


(―ふ、普通に手を掴まれた…)


この程度は友達同士でもあり得る程度なのはわかっている。
しかしこんなにあっさり繋げるのなら、
さっきためらわずにしてしまえばよかった…と
悠眞は人知れず後悔した。


「なぁ。お前ってさ、アレルギーとかあったっけ?
成分とか、薬品関係とかの。」

「え?いや、特には無いよ?」


突然の質問に目を丸くしてそう答えると、
何やら瑞希が自分の鞄の中を漁り始めた。


「んじゃ、せっけんの香りとラベンダー、どっち好き?」

「ん? えっと…そうだな、せっけん…かな。」


どうしてそんなことを聞くのかと言おうとしたその時、
瑞希が鞄から小さな袋を取り出して手渡してきた。


「え…?…えっと…」
「ハンドクリーム。
自分の買うついでに買ったから、それ使って。
紙で切るのは防げないかもだけど、
それにあかぎれが重なったら大変だろ。」


そっぽを向きながら早口でそう説明する。

思ってもいなかったプレゼントに、
悠眞は物凄く嬉しくなり
思わず瑞希に抱きつこうとしてしまった。


(―っと…!いけないいけない。今は外だった…。)


微妙に動いてしまった手を誤魔化しながら
ありがとう、と一言だけ礼を言うと
瑞希の耳がほんのりと赤くなった気がした。


(―…もしかして照れた?
いや…都合よく考えすぎか。)


きっと寒さのせいだろう…。
浮かれた気分を鎮めようと、悠眞はそう思い直すことにする。


「さて、今日どこ行こっか?」


ガードレールから立ち上がり、
服をぱんぱんと掃いながら瑞希が言う。


「どこかに食事でも行こうか?それとも飲む方が良い?」

「腹も空いたし、すっげー酒も飲みたい気分。」

「瑞希が『すっげぇ』って言う時は必ず、際限なく飲むんだよなぁ。
俺は別に良いけど、それなら希美ちゃんに連絡しておいてね。
どうせ終電なくなってべろんべろんになるんだから。」


暗に飲みすぎないでくれと言う意味で言ったのだが、
どうやら瑞希は言葉の裏をかくことに長けてはいないようだった。

わかった、とだけ言って
ケータイでメールを打ち始めている。


(―…まぁ、ぐだぐだの瑞希を見るの好きだけどさ…)


悠眞は酔った後の呂律の回らない瑞希を思い出して
つい目元を笑わせた。


「あ。やっぱやめた。」


ふいにケータイから顔を上げた瑞希が呟く。


「え、何?」

「飲みに行くの止めようぜ。家帰ろう。」

「どうしたの?なんか用事でも?」

「いや、違くて。
悠眞の作るメシ食って、んで悠眞の家で飲めば安心じゃん。
大体そっちのがそこらの居酒屋より旨いし。」


ダメかな、とねだる様な目で見つめられて
心臓が跳ねる。


(―その表情は反則だよ…)


悠眞はあっさりと首を縦に振った。



「じゃあ何食べたい?
スーパー行って買い物していこう。」

「んー。この前鍋だったからなー。
もっと悠眞の持ち味が出る何かが食いたい…」

「持ち味って…。」

「和風だな。定食作ってくれ。」

「…すごく時間かかるけど、それでも良いなら。」

「あ、やっぱやめた。すぐがいい。」

「まぁ…決まったら言ってね。」


そんな会話をしながら、すっかり暗くなった大通りを
肩を並べて歩いていく。


瑞希は隣で
軽く下を向きながらなにやらぶつぶつと独り言を言っている。
今日の晩飯の事を考えるのに必死な様だ。


悠眞は右手のハンドクリームの入った袋の存在を思い出し、
それを自分のバッグに入れた。


(―…外じゃなかったらなぁ…
…色々とあれこれしてしまいたいことがあるのだけれど……)


そんなことを考えて
人に気づかれない程度に口元で笑っていると、
なにやら額に冷たいものが当たった。


「あれ、瑞希。雨降ってきたみたい。」


上を見上げながらそう言うと、
独り言を中断した瑞希がいそいそと鞄から傘を取り出す。


「え、持って来てるの?
今日は晴れだって天気予報で言ってたのに…」

「んー?これはたまたま持ってただけ。
多分通り雨じゃねぇ?すぐ止むって。」

「そっか…」

「傘、持ってねぇの?」

「え、あ…うん。」

「んじゃ、こっち。」


ぐいっと腕を掴まれて、
瑞希のさす傘の中へと招き入れられた。


「え…ちょっ……い、いいよ瑞希!
ちょっと濡れるくらいだから!」

「こんな寒いんだから。風邪でも引いたらどーすんだ。」

「いや…で、でも…人が見るし…」

「風邪引くのと人に見られんの、どっちが良いんだよ。
バイト一日休むといくらになるわけ?」

そこまで言われてしまっては、言い返しようがなかった。
しぶしぶと抵抗していた腕の力を緩め、瑞希の持つ傘の柄を掴む。


「…なに?」

「俺が持った方がいいでしょ。
瑞希が持つと、手を高くしないといけないし。」


その言葉を聞いて、瑞希が怒りだした。

特に背が低いことを指摘したつもりはなかったのだけど、
そう考えればそういう事になるのかもしれない。


ひとしきりチビの苦労について語った後、
しばらくは拗ねたような態度をとっていたが
とりあわない悠眞に諦めを感じたのか
肩の力を抜いて、また普通に歩き始めた。


少ししてから、ふとこちらを見上げてくる。

しかしただ見つめるだけで特に何も話さない。


初めは気付かないふりを決め込んで
ひたすら前を見て歩き続けた悠眞だったが、
流石にそこまで見つめられているのを無視することはできずに
気のないふりを装って質問を投げた。


「どうしたの?」

「あ…い、いや……何でもない。ちょっと考え事。」


なにも人の顔を見つめながら考え事をすることもなかろう。
そう思いながら相槌を打つ。


(―なんか最近よく見つめられる気がするんだけど…
俺の顔になんかついてるのかな…。)


気になって頬を拭ってみるが、特に何もない。


それならば何なのだと考えあぐねていたら、
そんな空気を察してか、瑞希が話題を変えてきた。


「ところで最近、生徒から本を貸してもらってさ。」

「…へぇ。なんていう本?」

「タイトルは忘れた。
でもなんか、その本の始まりが『日本には雨の呼び方がたくさんあります』
みたいな感じでさ。雨の説明本っつーか。」

「あぁ、そうだね。
呼び名が多いのは聞いたことがある。…覚えたの?」

「全部は覚えてないんだけど、結構。」

「使うところあるのかな?」

「知ってて損は無いだろ。例えば……そうだな。
『通り雨』にも何個か呼び名があるんだけど、
お前知ってる?」

「…ある程度までは。」

「じゃあ今のこの雨はなんて言うでしょーか。これ結構簡単だぞ。」

「えーっと、にわか雨。」

「それもそうだな。」

「…驟雨?」

「んーと、ま、それもそうかも。他には?」

「えー。じゃあ狐の嫁入り。」

「それは太陽ないからちょっと違うかもな。
他には?あんだろ、結構名の通ったやつが。
ヒントはこの季節に関係します。」

「季節…の通り雨………?……夕立……?」

「それ季節が違う!」

「あっ、わかった。『村雨』。」

「は!? なにそれ!? むしろそれ知らねぇ!」

「えー何で。違うの?
秋から冬にかけて降るにわか雨のことだよ?
…じゃあ『肘笠雨』?」

「それも知らん!もう一個あんじゃん!
そーゆーマニアックなのじゃなくて、もっとポピュラーなのが!」

「えー……?」


手持ちの知識を絞り切った悠眞は真剣に考え込む。

一応本屋で働いていることもあって
結構小説は読む方なので、雨関連のものもある程度は読破したのだが…
他にも何かあっただろうか。そんな気はするが思い出せない。

胸まで出かかっているようなモヤモヤを排除すべく
悠眞は頭の中で検索をかけ続けた。



(―…『霖雨』…はちょっと違うか。
じゃあ『氷雨』?…ってそれは夏か……)



しばらくの沈黙の後、
答えが出ないのを察した瑞希が口を開く。




「…答えは『時雨』。有名だろ?」




その言葉を聞いて、モヤモヤが一気に消えてなくなった。
むしろどうして思い出せなかったのかが不思議だ。


「ああ。そう、それそれ。時雨だ。すっきりした。
しかし本当にいっぱいあるんだね。名前。」

「いつかの使う時のために覚えておいた方がいいぞ。」

「いつかっていつ?」

「えー…それはお前次第。」


半分投げたような相槌に、軽く笑って返す。


そして雨の降りしきる街中をそっと見渡した。



街の照明はいつも通りに少し抑え目だ。

駅周辺で、帰宅時間という事もあって
周りはなかなか騒がしい。


肌を掠める風は冷たく、
ストールの間を狙うように滑りこんでくる。



この時期にある、見慣れた光景だ。



場所は違えど街の光は夜を照らし、人の波はどこでも賑やか。


何処へ行っても
風は冷たく悠眞の喉元を撫でていく。


去年も、そのまた前だって同じだった。




だけど今年はひとつ、違うことがある。




「それで?
食べるもの決まった?もうスーパーについちゃうよ。」

「ぅえっ!? ちょっと待って!まだ考え中!」

「この時間だから、あんまり手の込んだものは作れないけど…」

「あーそう…じゃあカレーで。」

「瑞希、人の話聞いてる?しかもこの前も食べたじゃん。」

「えー…もう思いつかねー。
つーかお前の料理なら何でも好きだからなー。」


どくん、と一回、鼓動が大きく脈を打った。




(―…本当に…。
……「好き」って言葉を簡単に使うから困る……)





傘からはみ出た悠眞の肩を、冷たい時雨が濡らす。



だけどそれはもう
誰も攫っていきはしない。







前へ    次へ


ホームへ戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -