Ep.08蝋色の村時雨


秋も深まり、色鮮やかに紅葉した木々が
ちらほらと落葉を始めた。

空気には微かに冬の気配が感じられる。

しかし季節が変わったからといって
日常が大きく変わると言う事は無く、
悠眞は今日もいつも通り書店で商品の陳列をしている。

最近のちょっとした変化といえば
瑞希が書店に来る頻度が上がったことだろう。

「教師は色々本が必要だからな」なんて
顔を真っ赤にしてわざわざ言い訳するところが可愛くて仕方ない。

バイトの終了時刻に迎えに来てくれることもあり、
そのまま飲みに行ったり家に誘ったりと
できるだけの時間を瑞希と過ごすようにしている。


自分でもあり得ないと思うほど幸せだ。


しかし、少し引っかかってることがある。

熊谷圭吾のことだ。

瑞希の話によれば、
仕事であちこち出張ばかりして国内にいることの方が少ないが
日本に帰って来た時は必ず瑞希の家を訪れているらしい。


何かされてないかと瑞希に尋ねたら、
あからさまにギクリとして「大丈夫」と言った。

もし何かされそうになったら絶対拒否するから、とも。


もちろん瑞希を信用していないわけじゃない。

拒否すると言っているのだからするのだろう。

第一、 瑞希はもう独立していて
圭吾に抱かれる理由などどこにもない。

わかってはいるのだが不安なのだ。

救ってあげることもできず
ただ見守っているだけの自分が情けなくて堪らない。


(―せめて圭吾さんが帰ってくるのがいつかさえわかれば…)


そんなことを考えていたら
肘で本の山を小突いてしまい、小さな本雪崩が起きた。

慌ててそれを元に戻し、小さくため息をつく。

(―はー。俺カッコ悪…)

悠眞の仕事でのヘマは今に始まったことではないので
他のどの店員も気にしていないようだった。

おまけに今日は客が少ないので
そういった視線も少ない。

悠眞の担当しているコーナーに関しても
先程一人だけ通りかかった客がいた程度で
店内はかなり静かだ。


「…すみません。」


後ろからいきなり声をかけられて飛び上がった。
考え事をしていたから足音にも気がつかなかったらしい。

しかしそれを悟られないよう
他所行きの顔でにっこり笑って振りかえる。


「はい、何でしょう。」

「悠眞くん、だよね。久しぶり。」


その声の主を見て悠眞は思わず声を上げそうになった。

ついさっきまで自分の脳内を掻き乱していた男、
熊谷圭吾がそこに立っていたからだ。


最後に会った時から8年も経っているというのに
全くと言って良いほど変わっていない。

その整い過ぎた顔も、まろやかな声も、
…そして悠眞に向ける、屈託のない笑顔も。


「お、お久しぶりです。」

悠眞は必死に動揺を隠そうとする。

「日本に帰って来てたんですね。」

「ああ。…瑞希くんから聞いたのかい?」

「そうです。たまに帰ってくるって。
…今日は何か本をお探しですか?」

やっと顔の緊張が解れてきた。
他の客に向けるような営業スマイルで問いかける。

「いや、今日は君に会いに来たんだ。」

「え、俺に?」

「希美ちゃんにこの場所を聞いてね。
せっかく帰って来たのだから会ってみたらどうかと勧められて。
積もる話もあるだろうから、って。」

「積もる話…ですか。」

―何の話があるっていうんだ。
瑞希が高2の時に勝手に遠くへ連れ去ってしまった話か?
それとも瑞希との色々な関係についてか…?

悠眞の頭の中に候補がいくつもいくつも上がって、
ぐるぐると脳内を掻き回していく。

何にせよこの静まり返った店内で話せるようなものではない。
BGMはかかっているけれど、それでも周りに聞こえてしまうだろう。

圭吾もそれをわかってか、
そっと近づいて声を落として言う。

「今日、バイトは何時まで?」

「17時までです。」

「じゃああともう少しだね。
待ってるから、その後どこかに飲みに行かないか?」


にこりと笑いかける圭吾に不信感を抱きつつも、
悠眞はその誘いを了承した。


「終わったら店の前に来てね。」


それだけ言って圭吾は背を向け、店を出ていった。


――――――――――――



バイトが終わって店の前に回ると、
そこには約束通り圭吾がいた。

「あ、終わったのかい?じゃあ行こうか。」

読んでいた文庫本をパタンと閉じて言う。

「どこへ行きますか?」

「そうだな、まだ夕方だけど…。ま、いいよね。」

「はい。俺は別に、時間とか気にしないんで。」

「じゃあ、この辺で飲めるところとか知ってる?」

そういえば圭吾は出張から帰って来ているだけで
この周辺の人ではないのであった。
酒の飲める場所など知らなくて当然だ。


「この辺だと何件かありますよ。お酒は何がお好きですか?」

「まぁ大体何でも飲めるけど、ウイスキーかな。」

「じゃあ東口の方にバーがありますから、そこに行きましょう。」


正直なところ、いつも日本酒ばかり飲んでいる悠眞としては
ウイスキーは未知の領域だ。

それにもともと付き合い程度でしか飲まないので
酒の種類に詳しいわけでもない。

バーで飲むものがあるのかと心配になりつつも、
圭吾を引きつれてそこへと向かった。




-------------------------------------------



「ラスティネイルを。」

カウンターに腰をかけるなり圭吾がバーテンダーにそう言った。

「悠眞くんは?」

「あ、実はその…俺、基本日本酒なんで、全然わかんないんですけど。」

「そうなの?珍しいね、若いのに。じゃあ僕が頼んであげよっか。」

「お願いします。」

圭吾はちらりとメニューに目をやる。

「日本酒以外は何か飲んだりする?」

「ビールと…あと焼酎をたまに。」

「焼酎大丈夫だった?」

「はい、普通に飲めました。」

「んじゃリキュール飲んでみる?」

そう言うなり圭吾はまたバーテンダーに声をかけた。

少し歳のいったそのバーテンダーは
背筋をしゃんとして佇み、注文を受ける。

そしてボトルを手にしながら
物腰柔らかな態度で圭吾にあれこれと話かけた。


「あ、すみません。俺ちょっとトイレ行ってきます。」

圭吾がバーテンダーに話しかけられている隙を狙って席を立つ。


(―とりあえず瑞希にメールを入れておこう。)


圭吾の話がなんであるにせよ、
今日瑞希を家に帰らせるのはまずい。

今までの話からすると
希美の居る居ないは関係なく行為に及ぶようだし、
ここは一時避難としてウチへ来てもらった方が良いだろう。

トイレのドアを閉め、出来るだけ手短にメールを打って送る。

そして何でもない風に装って、圭吾のもとへと戻った。

席に戻ると、テーブルの上にはすでに注文したお酒が乗っていた。

圭吾の方は「ラスティネイル」と言ったか…
ウイスキーグラスに入った琥珀色の液体に、
ボールアイスが浮いている。

そしてこちらにあるのは
ルビーのように高貴な色合いをしたカクテル。
脚の長いグラスに良く映えている。


「どうぞ。」

圭吾に勧められるままグラスに口をつけた。
甘酸っぱいカシスの香りがする。
これは何というお酒なのだろう。


「ところで、悠眞くんはいつこっちへ?実家は関西だろう?」

四角く重厚なグラスの中で
カラン、と軽快な音を立てて圭吾が尋ねる。

「あ、はい。大学がこっちだったので、その時に家族ごと。」

「そうか。どこの大学に行ってたの?」

「H大です。」

「国立か。すごいね。君は昔から頭が良かったから…」

そこまで言ってから、圭吾は口を噤んだ。

何となく考えていることはわかるので、
悠眞はその答えを口にすることにする。

「でも中退したんです。
2年の終わりごろに、両親が二人とも病気になって
学費が払えなくなって。」

その言葉を聞いた圭吾が、そうだったのか、と漏らす。

「それでその時にちょうど家に近くにあった
あの書店でバイトすることになったんです。」

「でも希美ちゃんの話では、
ここ最近働き始めたようだという事だったけど。」

「あ、そうですね。
前に働いていた書店が潰れてしまったんです。
ここから駅二つ行ったところにあったんですけど。
だからこっちに転勤した…みたいな感じです。」

そう言って、またグラスを傾ける。

いつも飲んでいるものが
もろに「酒」というイメージの味のため、
これはむしろジュースと言ったような飲み口に感じられる。

しかしおそらく日本酒よりは度数が高いだろう。
アルコール特有の喉越しが、きもち強い気がする。


「でも、君ならもっと金の割の良い仕事だってあるんじゃないか?」

グラスを置きながら圭吾が言う。

「いえ、まぁ…家庭教師とか塾のバイトとか…
それなりに色々あったんですけどね…。」

「気に入らなかったのかい?」

「いえ、そうではなくて。
自分的に『中退』っていうのが気になったのと
時間があんまり思わしくなかったので…。」

「…そうか。苦労しているんだな。」

そう言ってまたウイスキーをあおる。


「圭吾さんってお酒強いんですね。
俺そんな飲み方したら確実に次の日ダウンしますよ。」

「そんな飲み方って?」

「勢いよく飲むじゃないですか。クイッと。」

「ああ。これ。喉で味わう感じ?」

「それ、かなり酔い回りません?」

「そうだなぁ。
僕、実はそんなに酔わないタイプだから。」

「えっ、酔わないんですか?」

「うん。結構きつめなの飲んでも
全然『酔ったなー』とか思えなくって。」

「『ザル』って圭吾さんみたいな人のことを言うんですね。」

「むしろ『枠』だけしかない感じかな。
ウォッカもテキーラも酔えなかった。」

悠眞は目を丸くした。
ウォッカにテキーラといえば、
酒の知識のない自分でもなんとなく手を出してはいけないと思っている
アルコール度数の高そうなものだ。

「あとこの前はアレを試してみたんだ。」

「なんですか?」

「『スピリタス』。世界最強のお酒。」

「最強?度数がですか?」

「そう。96度って言ったかな。」

「96!? エタノールとかよりも上じゃないですか!
そんなの飲んで大丈夫なんですか!?」

「や、さすがにストレートはヤバイって止められたけどね。
ちょっと割って飲んだんだけど、あれはただの消毒用エタノールだったよ。」

そう言って圭吾はおかしそうに笑った。
つられて悠眞も声を出して笑うが、
何だか頭がくらくらしている気がする。

「後味が少し甘かった気もするけど…
とりあえず喉が焼けるみたいに痛かった記憶しかないな。
結局酔えなかったし……悠眞くん?」

圭吾の声が遠く感じる。

気持ち悪いという類のものではなく、
どちらかといえば眠気に近い感覚だ。

「悠眞くん?どうしたの?大丈夫?」

「あ…すみません。なんか急に眠気が…」

「もしかしたらカクテル強かったかな。」

「そ…うかも…」

意識がだんだん霞んでいく。

体に力が入らなくなり、カウンターに額をつける。


(―寝ちゃだめだ…)


そうは思うけれど、
悠眞の瞼はどんどん重くなっていく。


そしてついに
心配する圭吾の声が消え行って、
目の前が真っ暗になった。


意識が飛ぶ瞬間、
微かに圭吾の声が聞こえた気がする。




―今まで瑞希がお世話になった。ありがとう。




その言葉の意図を掴み取る前に、眠りについてしまった。


――――――――――――



「熊谷くん、明日の2限に単語テストをやるから
帰る前に作ってもらえるか?」


帰宅しようと荷物をまとめていた所に、
例の鬼教師が声をかけてきた。

部活に顔を出すつもりなのだろうか。
見慣れないジャージ姿がかなり滑稽に見える。


「単語テストですか?わかりました。
不規則変化動詞の方ですか?それとも語彙?」

「不規則変化の方で頼む。」

「問題数はどれくらいにしますか?」

「そうだな。1回10題くらいがいい。
週に3回、2か月ほどやるつもりだから
それくらいの量を作ってくれ。」

「はい。わかりました。じゃあ今からやります。
終わったら先生のパソコンにデータ入れときますので。」

そう言うと、例の鬼教師は一言「よろしくな」とだけ言ってから
体育館の方向へと足を向け、さっさと行ってしまった。

本当に人使いの荒い上司だな、などと呆れるが
良く考えてみれば残業させられるのはいつものことだ。

瑞希は溜息をつきながら椅子に腰をかけ、
机上のノートパソコンに手をかける。

と、その時
ポケットに入っていたケータイが震えた。


(―ん?この時間ってことは悠眞かな?)


少し期待をしてケータイを開くと、やはりそうだった。

しかしいつものような
どこかへ行かないかという誘いではない。

―「圭吾さんと偶然会った。今日帰国したみたい。
だから自宅には帰らずに俺の家に行ってて。
カギはこの前教えたところにあるから勝手に入っていいよ。
俺は圭吾さんと少し話してから帰ります。
遅くならないようにするから。」


(―…圭吾さん、もう帰って来たのか?
帰って来たのついこないだだったのに…)

瑞希は返信ボタンを押しながら首を傾げる。

(―つーか圭吾さんと話ってなんだよ?
あいつら何かはなす事とかあんの?)

瑞希から見て圭吾と悠眞は
仲は悪くは無いとは思うが、特別仲が良かったわけでもないと思う。

顔を合わせた時はいつも
当たり障りのない世間話ばかりをしていたイメージがある。

でも8年も会っていなかったのだから
話が全く無いってわけでもないのかもしれない。


(―でもなんか危険じゃね…?)


実のところ、
圭吾は1週間ほど前に一度帰国している。

夜中に瑞希の家を訪れて
朝一で帰っていった。

寝ぼけ眼でドアを開けたのだが
招き入れるとすぐに強引に押し倒されて目が覚め、
今度こそ拒否しなければと思った記憶がある。

その件に関しては
希美が居るんだし、疲れてるだろうから止めようと
やんわり断って事態は収拾したのだが、
どうもその時の圭吾の様子が不自然だったため
瑞希はなんとなく気にかかっていた。

恐ろしい目をしてこちらを睨んでいたのだ。


(―とばっちりが行きそうな気がする…)


無性に心配になったため、
悠眞に圭吾とどこへ行くのかメールで尋ねた。

しかし待っても一向に返事は来ない。

気がつかないのかと思い電話をかけてみるが、
何度かけても留守番電話に切り替わってしまう。


(―なんだよ?そんなに話に夢中なわけ?)


悠眞はいつも
外出しているときは着信音を消さない。
静かにしなければならないところに入る時にだけ
いちいちマナーモードにする。

しかし
サイレントマナーにしたのを見たのは
映画館や図書館に行った時だけだ。

おかしい、と思いつつ
もう一度だけかけてみる。



―プルルルル、プルルルル、プルルルル…

…おかけになった電話は、現在電波の届かない所におられるか
電源が入っていない為、かかりません。



(―……え!?)


さっきまでは留守番電話になっていた。

なのに今は電波がない?

まさか―…



「おや、熊谷先生。おかえりですか?」

「あ、はい!お疲れ様です!」

「私ももう上がりますから、どうです?一杯。」

「…すみません、今日はちょっと…!」

「先客がいるのかい?残念だねぇ…じゃあいつならいいかね?」

「〜っ。すみませんっ!急いでいるので今日のところは!」


鞄のチャックを閉めるのも忘れ、
急いで職員玄関まで走る。


(―あ〜ちくしょっ!今日車じゃねーんだった!!
何でこんな時に限って!!)


たまには駅から歩いてみようかな、などと考えた
今朝の自分が憎い。


瑞希は駅までできるだけ速く走った。


秋の終わりにふさわしく、
頬を撫でる風は少し冷たい。


駅までの距離が異常に遠い。


がむしゃらに走りながらそんなことを考えていると、
瑞希の頬を冷たいものが濡らした。


(―……雨…?)


今日の天気予報は晴れだったはずだ。

やっぱり天気予報など当てにならない。

でも、通り雨かもしれない。

駅に着くころには、晴れるのかもしれない。


(―…確か…秋の終わりに降る通り雨には名前があったはずだ…)


瑞希は徐々に強くなる雨の中、
息が上がるのもお構いなしに走り続け
そんなことを考えていた。


(―なんて名前だったっけ…)


この冷たさ。

自分は知っている。

この雨を知っている。



「……時雨だ…」



知っているのだ。

この雨の後に、何が起きるかを。


――――――――――――





「……悠眞ッ…!!」

瑞希は悠眞の家に到着するなり、
ドアを勢いよく開けて名前を呼んだ。


…が、しかし
家の中に人の気配はない。


(―……あれ…?)


息を切らしながら足元を見る。

どうやら悠眞の靴しかないようだ。


(―…まだ、帰って来てないってことか…?)


電気をつけ、一応家の中を見て回ってみる。

だがやはり
悠眞はここにいない。

自分の家よりは
こちらにいる可能性の方が高いと思ったのだが…


(―じゃあ今どこにいるんだ…!?)


圭吾とどこへ行っているのだろう。

何をしているのだろう。

何をされているのだろう…


焦ってはいけない。
落ち着いて冷静に考えなければ。


そうは思うのに、
瑞希は居てもたってもいられない。

もし悠眞の身になにかあったら…
そう考えると、気が気でない。


(―まさか…ホテルとか…じゃないよな…?)


頭の中に浮かんだその考えが、
瑞希を一層焦らせる。


嫌な予感がする。

ただのカンでしかないけれど、
それでもやはりその考えを無視することはできない。


瑞希は息が落ち着かないまま
玄関の方へと踵を返した。

そして荒々しくドアに手をかけ
それを勢いよく押そうとする。



途端、
反対側からドアが開かれた。



予想もしていなかったドアの動きに
瑞希はバランスを崩してしまい、
派手によろめく。


2,3歩足が出てから
ドアの横の壁に手をついてどうにか体勢を戻した。


そして
何事かと顔を上げた瞬間、息を飲む。


そこには不敵な笑みを浮かべたあの人が
じっとこちらを見つめて佇んでいたのだ。



「…け、圭吾さ―」
「迎えに来たよ」



被るようにそう言って、
じりじりとこちらに向かって足を進めてくる。

闇を背にした圭吾の微笑が
得体のしれない不安を煽り、警鐘を鳴らす。

瑞希は背中に冷たいものを感じながら、少しずつ後ずさった。


「なんで、ここに…?」


圭吾の感情のこもっていない薄ら笑いに、
唇が震えてしまう。


「悠眞はどうしたわけ?どこにいんの?」


圭吾は瑞希の質問には答えずに、
奇妙な笑みを浮かべたままゆっくりと距離を詰めてくる。


その無機的な表情が恐ろしい。


コツン、と
瑞希の靴が玄関の段差の縁にぶつかった。


しかし圭吾は足を止めようとはしない。


「な、なんか答えろよ……」


靴を脱いでさらに奥へと逃げようか、
それとも圭吾の横をすり抜けようか…
そう迷っているうちに、
圭吾の大きい手が瑞希の右手首を捕らえた。


「ちょっ、離せって!」

「…そんなに悠眞くんが気になる?」


圭吾の顔から笑みが消え、
かわりにこわばった表情になった。


「…は…?」

「別に、あんな子のことなんて…」


言いながら、圭吾は掴んだ手首をぐいっと引っ張り
瑞希の背を壁に打ち付けた。


「痛……ッ!…なに…―」

「そんなことどうでもいいじゃないか。」


静かにそう呟く圭吾からは
いつもの柔らかい雰囲気など微塵も感じ取れない。

まるで別人だ。


「…どうでもよくないだろ。
悠眞をどこにやったんだよ!?」


必死に手の拘束を解こうとしながら、
睨めつけて吠える。

しかし
きつく握られた手首は解けないまま壁に捕らえられた。


「彼の所に行って、どうする気?」


瑞希の左手を捕らえようと手を伸ばしながら、
圭吾が尋ねる。

瑞希はその手を振り払いながら答えた。


「どうするって……だってオレ、会う約束してるし。」

「会ってどうするの?」

「……え…」


圭吾の右手がついに瑞希の左手首を捕らえ、
壁に貼り付けた。

身動きの取れなくなった瑞希は
顔をそむけて圭吾の冷たい目から逃れようとする。


「べ、別に…圭吾さんにはカンケーねぇだろ…」

「関係なくないよ。重要な事だ。」


そう言うなり
瑞希の両手首を片手でまとめ上げ、頭の上に固定する。

瑞希はその間も抵抗するが、力の差があり過ぎて敵わない。


つい、と
圭吾が空いた方の手で瑞希の顎をすくう。

そして喉元をじっくりと舐めまわすように観察した。


「これ、彼につけられたんだろう。僕がやった記憶はない。」


圭吾が恨めしそうにそう呟く。


具体的な名称を言われなくとも、
それが何を指しているのかはわかる。

おそらく、キスマーク。
悠眞がつけたものだ。


「…困るんだよね。
勝手に人のモノ横取りして…あんなに涼しい顔して……」

「な…っ…『モノ』ってなんだよ!?」

「君は僕のモノだろう?」

「は? ち、違う!オレは―」


言いかけて、口を噤む。

突き刺すような圭吾の視線が
その先の言葉を許さなかったからだ。



「君は、僕だけを見ていればいい。
彼や…他の人じゃなくて、僕だけを。」



凍てつくほど冷たい視線で瑞希を射抜いたと思うと
早急に唇を奪ってきた。

いきなりのことに混乱した瑞希が
逃れようと必死に顔をそむけるが、
顎を固定されて何度も口付けを繰り返される。



「……なっ、なにすんだよ!」



やっとの思いで唇を解き、文句を言った。

しかし圭吾の痛いくらいまっすぐな視線は
変わらずに瑞希を射抜いている。



「君と過ごした時間は僕が一番長いだろう?」


瞳の奥を見つめ、瑞希に問いかける。


「僕は、彼よりも…その他のどんな人よりも、
君と一緒にいた時間が長いんだ。」


「…え?…なに、いきなり…」


「だから僕の方が君をわかってあげられる。
君に相応しいのは僕しかいない。」


そう言って、瑞希の腰に手をまわした。


「…君を守ってあげれるのも僕だけだ…。
だから、一緒に行こう。」


腰に回された手がそこを撫でまわす。
その気持ち悪さにおののきながらも、瑞希は言葉を返した。


「…行くって…何処にだよ?」


「僕と君だけ…二人きりになれる場所だ。
誰にも邪魔されない、君が僕のだけのモノになれるような場所。」


「圭吾さん…あんた…何考えてるわけ?」


まるで何かを夢見るような、
遠い目をした圭吾に悪寒がした。

方向的にはこちらを向いてはいるが、
その目はもはや瑞希のことなど見てはいなかった。


「…心配はいらない。」


ぽつり、と圭吾が零す。


「何一つ不自由はさせないから、大丈夫…。」


言いながら、瑞希の頬を撫でる。
その手の平の感触に全身の毛が逆立った。


(―…待てよ……このセリフ…どこかで…)


前にも聞いたような気がする。

直感的に瑞希はそう思った。


「瑞希くん。
僕が全部与えてあげるから…。
君は僕に全てを委ねてくれればいい。」



(―……そうだ…思いだした……)



これは、
あの時の言葉と同じだ。


8年前のあの日に言っていたことと。


間違いない。


あの時もこの人は、
そう言って瑞希から全てを奪っていった。


(―また…あんな風になるのか……?)


ふいに、瑞希の頭の中に
あの時の記憶が蘇ってくる。




満足そうな圭吾の笑顔。


知らない場所。


知らない空気。


見慣れない高い空。


馴染まない新居の香り。


軋まない床。


磨かれたガラス。


糊のきいたシャツ。


開かれていない洋書。



…全てを失った喪失感。



唯一残された、細身の黒い折り畳み傘―…




「……嫌だ…」


力なく、そう漏らす。


唇の震えが止まらない。
心なしか、膝までもがつられて小刻みに震えだした気がする。



「君に必要なのは僕だけだ。さぁ、行こう。車に乗って。」


(―……違う………)


「オレは…行かない…」

「何故?」


(―……やめてくれ……)


「だって…オレが居なくなったら…学校だって困るだろうし…」

「そんなのちょっと言えば退職できる。」


(―……行きたくない……)


「そんなこと…できるわけ…」

「言っただろ?心配しなくていいんだ。
僕だけを頼って、僕だけについて来てくれればいい。」


(―……離れたくない……)




圭吾が本気を出せば、
瑞希の職を奪ってしまう事など容易い。

それは承知している。

しかし、瑞希の中に渦巻くものは
それを失うことへの恐怖などではない。


(―…悠眞…どこにいるんだ……?)


下唇がわなわなと震える。


「………けて…」


「え?」


圭吾は小さく零した瑞希の言葉を聞きかえす。



「…いやだ……悠眞…たすけて………」



喉の奥から声を絞り出した。



「呼んでも来ないよ。」


今までに聞いたこともないような地を這うように低い声が、
圭吾の喉から出る。



「な、なんで…言い切れ―」
「眠らせてあるから。」



早口でそう言いながら、
口角をくいっと上げてニヤリと笑う。



「…眠らせたって…?悠眞になにを……」


「別に?大したことはしてないよ。ちょっと飲んでもらっただけだから。
だからね、かれは君を迎えになんか来れない。
…いや、来させないようにしたというのが正しい言い方かな。」


ふっ、と鼻で笑ったかと思うと
ゆっくりと瑞希の首筋に舌を這わせてくる。


「いや……嫌だ…ッ!…やめろっ…!! 離せぇっ―!!」


どんなに暴れても、固定された両手首はビクともしない。


物凄い力で抑えつけているはずなのに、
圭吾の顔は至って涼しげだ。


なんでもないような顔をして
瑞希のシャツを捲り上げる。


「さ……触るな………」


ざらりとした愛撫に背筋が凍っていく。

圭吾の髪に指を差し込み
その頭を引き剥がそうとするが、
手に全く力が入らない。

足もすくんでいるのか、
逃げ出そうにも逃げ出せない。



脳が圭吾の全てを拒否している。


視線も。

声も。

感触も。




「オレは…あんたと一緒になんか行きたくない……」




呟いた途端、目の端から涙が零れ落ちた。


しかし目の前の男は、その言葉を聞くなり
それまで以上に執拗にあらゆる場所を弄るのに夢中な様子で
それに気づきもしない。



――――――――――――――



―――……ガンッ…!!


意識が霧散し始めていた瑞希は、
その玄関ドアの取っ手を勢いよく引っかけるような
派手な音を聞いて正気づいた。


視線をそちらに向けると
そこには両肩を大きく上下させ、
心の底から不快そうに圭吾を睨めつける悠眞が立っている。


やはり来てくれたのだという喜びと、
マズイ場面を見られたという後ろめたさに
なんと声をかけようかと唇を薄く開いて迷っていると

悠眞の腕がすっと圭吾の襟首に伸びて荒々しく掴み、
瑞希の体から引き剥がした。


そして2人の間にするりと割って入り
瑞希をその背に庇うように隠すと
力の限り圭吾を玄関ドアに叩きつける。



「―――…う………っ…!」



片頬を引き攣らせながら圭吾が苦しそうに呻く。


叩きつけた反動であたりが揺れ、
ドア付近のシューズシェルフ上にあったガラス細工が床に落下して
乾いた派手な音を鳴らしながら粉々に砕けた。



「さっきはどうも。」



ギリギリと圭吾の襟首を掴む手に力を入れたまま
悠眞が低い声でそう言って嘲笑う。


瑞希からは悠眞の背中しか見えない。
しかしその未だに息が整えられずに小さく上下する背中からは
明らかに怒りの色が感じ取れた。


背中に走った痛みに顔を歪めた圭吾は一瞬ひるんで顔を歪めたが、
すぐにいつもの不敵な笑みを取り戻す。

そして特に悠眞に抗おうともせずに
自らの手の力を抜いた。



「君、よくここまで来れたね。色々大変だっただろう?」


圭吾が口の端を持ち上げて
皮肉っぽく笑いながら言う。


「おかげさまで。
バーテンダーが俺の目の前でグラスを割ってくれなかったら、
今ここには居ないでしょうね。」


いまいち話がはっきりしないな、と
瑞希は心の中で首を傾げた。

圭吾は悠眞を眠らせてでもいたのだろうか。

しかし、どうやって?

どうやら酒を飲みに行っていたらしいが
自分よりも酒に強い悠眞が
ちょっとやそこらで眠る程酔うとは到底思えない。

考えたところで、
その件に関して部外者である瑞希には
わかりそうもなかった。


沈黙が、瑞希の耳を掠める。


瑞希から悠眞の表情はもちろん見えない。

しかしその顔がどういう風になっているのかは、
その声を聞くだけで容易に想像できた。



「離してくれないか。君に用は無い。」



先に口を割ったのは圭吾の方だった。
睨んでいるだろう悠眞の目から視線を外しながら
何でもないように呟く。


「俺が離したら、何をするつもりなんですか?」


圭吾の態度に対抗するでもなく、悠眞の方も淡々と尋ねる。


「別に何ってことは無いさ。
僕はちょっと瑞希君を連れて外出するだけだ。」


「ただの外出を邪魔されたくないからって
人のこと呼び出して眠らせた挙句、
連絡とれないようにケータイの電源落とすんですか?」


「人聞きが悪いなぁ。そんなことはしてないよ。」


半笑いしながら、圭吾はおどけてみせた。

それが悠眞のカンに触るのは当然のことで、
息を詰めたと思うと
もう一度圭吾の背中をひやりとした金属の板に打ち付ける。


「じゃあ…今のは何です?外出前のお楽しみですか?」


揶揄するような口調にも、しっかりと怒りが読み取れた。
まるで取り合おうとしない圭吾苛立っているのか、
悠眞の口から発せられる全ての言葉は震えて笑っているように聞こえる。


一向に捕らえた襟首を離す気配のない悠眞の手を引き剥がしながら、
かったるそうな調子で圭吾が返した。

「これからデートなんだから、邪魔しないでもらえるかい?
恋人同士が戯れるのは常識の範囲内だろう。」


―『デート』、『恋人』。


この二単語に反応したのは瑞希だけではないはずだ。
瑞希は はっとし、息を飲んで悠眞の次の言葉に耳を傾ける。


「…恋人とデートに行くのに、普通あんなに嫌がりますか?」


その二単語について触れて来ない悠眞に少し驚いて、
瑞希はその背中を眉をひそめて見つめてしまった。


悠眞には独占欲というものがないのだろうか?

瑞希が逆の立場であんなことを言われたとしたら、
何よりも先にその二単語について触れるだろう。


―そいつはオレの恋人で、おまえのじゃない―


きっとそんな風に声を荒げて言ってしまう。


しかし目の前の悠眞は
少しもそんなことを口にする気配を見せない。


(―少しは否定しろ、ばか。)


その対応に不満を持つことが、
瑞希の中の酷く子供染みた独占欲を露呈していることに
当の本人が気づけるはずもなかった。


瑞希があれやこれやと不満に思っているうちに、
気がつくと二人の会話は瑞希を差し置いて勝手に進んでいた。

聞いていなかった話の内容を予測しつつ
再び悠眞の次の言葉を待つ。

ぴりぴりと肌を刺すような空気が
周辺に立ち込めて、一層沈黙の息苦しさを増している。



「……瑞希はどこにも行かせませんよ…。」



喉の奥から絞り出したような、
それでいて重厚な囁きが聞こえた。


少し凄みのあるその声に、
自分に向けられた言葉でないとわかっていても
恐怖を感じずにはいられなくて、背筋がぶるっと震える。


途端、くるりと悠眞がこちらに向き直った。
そしてゆっくりと向かってきて
そのすらりと長い腕を伸ばして瑞希の右手を取る。


ひんやりと冷たいその手の平の心地よさを感じながら
瑞希が全てを拭いきれていない濡れた目で悠眞の目を見つめると

慈しむようにふんわりと笑いかけた悠眞が
空いている方の手で溜まった涙を拭ってきた。


見知った体温に緊張が解けかけたその瞬間、
悠馬の背後で一部始終を見ていた「自称恋人」が
ゆらりとドアから背を離す。



「瑞希くんに触るな…」



まるでうわ言のように不確かなトーンだった。



「触るな…それは…僕だけのモノだ…」



圭吾が二人の繋がれた手を解こうとするが、
パン、という音を立てて悠眞の片手で叩き落とされた。



「もう、いい加減にしてください。」

「瑞希くんは、僕のモノでしょう?」



叩き落とされた手のことなど微塵も気にしていない様子で尋ねてくる。

痛いくらいまっすぐに見つめてくる視線に恐怖を覚えながらも、
瑞希はぶんぶんと首を横に振った。


「何故君はそう素直になれないんだ。」


だんだんと近づいてくる圭吾から守るように、
悠眞が瑞希を背後に隠す。

しかし圭吾は
まるで悠眞の存在など見えていないように、
それを無視して瑞希に問いかけ続けた。


「君が少し恥ずかしがり屋で素直になれないことはよく知ってる。
でも大丈夫だ。僕はせっかちじゃないから、待っててあげるよ。」


「…止めて下さいって言ってるでしょう。」


何故か自らの口が意のままに動かなくて、
唇が半開きになったまま言葉を発しない瑞希の前で
悠眞が静かに睨めつける。


『オレは行かない。ここにいたいから。』


そう言いたいのに、
圭吾の鋭くてべっとりとした目線に焼かれたからか
口周辺の筋肉が硬直してしまっていて、全く言葉が紡げない。



「どうせいま嫌がっていても、
すぐに僕について来てよかったと思うようになるよ。」



悠眞に掴まれたことで曲がってしまったネクタイを
左右に少しづつ引っ張って直しながら圭吾が言った。

違う。そんなことない。

やはり口には出なかったけれど、
はっきりと表情と首の動きでそう答える。


しかし
その動きの意味を正しく理解したはずの圭吾は、
何故か凄く可笑しいものを見たかのように笑った。


「だって君、僕とのセックス好きだろう?」


その言葉に大きく反応したのは、瑞希だけでなく悠眞もだった。

心臓が跳ねると同時に、
目の前で自分を庇ってくれている細い肩がぴくりと動いた。

それを目にして、
瑞希の鼓動は更に速さを増す。



「んな…わけないだろ……」


やっとの思いで絞り出した。


「…本当に…嫌、なんだよ……」


それは間違いなく本心のはずだ。
瑞希は本当に圭吾に対して恋愛感情を抱いたことは一度もない。
特別、与えられるだけのセックスが好きなわけでもなかった。
だから「嫌だった」と言う表現は確かな自分の気持ちのはずである。


しかし何かが、
瑞希の心に引っかかる。


それが気になって、圭吾を罵倒することができなかった。


それを見透かしたように、
圭吾は鼻を鳴らして軽く笑う。

次の瞬間、
圭吾は故意的にその引っかかりを暴きにかかった。


「瑞希くん。
本気で嫌だと思ってる人は全力で逃げると思うんだよ、僕。」


小首を傾げながら、瑞希の顔を覗き込む。


「あと、あんなに簡単に僕に足を開かないと思うんだ。」


「―――――……っ!」


勢いよく顔を上げ、
赤面しながら否定の言葉を探す。


「それから、君、よく僕に『抱いて』って言うよね?」


「――っ、違……ッ!!」


「ついちょっと前も言ってたじゃないか。
それでよく嫌だとか言えたものだね。」



『ついちょっと前』。

この言葉を言われたくなかった。



悠眞に対する気持ちが恋愛感情なのだと気付き始めていたというのに
圭吾のことを上手く清算できなくて、
無理矢理迫ってくるのを拒否しきれなかった。

そのまま流されて快感に惑わされ、
えらいことを口走った自覚のある瑞希には
今の圭吾の言葉がこの上ないほど重くのしかかる。



否定も出来ないまま絶句していると、
圭吾は興が乗ったような様子で次々と畳みかけてきた。

耳が痛かったけれど
自分にはそれを塞ぐ権利などない気がして、
重くなる心を感じながらその言葉に耳を傾ける。


一方的に話している圭吾の言葉は、
まるで催眠術のような妖しさがあった。


的確に痛いところを突いてくる。


目の前で圭吾からの視線を遮ってくれている男に
絶対に聞かれたくないことだけをピンポイントに刺す。


痛めつけるだけでなく、間に甘い言葉も挟んで
誘惑するように言葉を浴びせ続けてくる。


それがどんどん瑞希の心を蝕んで、ぼろぼろにしていく。


しまいにはもう一度
君は僕のことが好きなんだから、一緒に来なさい。と
あやすような声で言われた。



瑞希の足もとがぐらりと歪む。



―行かない。自分は絶対にこの背の後ろから離れない。


頭ははっきりとそう考えている。

しかし、
果たして自分にはその意見を主張する権利があるのだろうか。

そう考えてしまって強く出れなかった。


―――――――――――――




またしても、沈黙が訪れた。


不敵に笑う圭吾の目には
不安定にぐらつく瑞希が映り、

その瑞希の目には
ぴくりとも動かない悠眞の背中が映っている。


一体悠眞は今なにを考えているのだろう。


想像することすら恐ろしかった。


とにかく、自分が何かを言わないことには
何も進まないだろうと思った瑞希は、
顔を上げて言葉を探そうとする。

しかし瑞希の口から何かが出る前に、
ずっと無反応だった悠眞が動き出した。


表情が全く見えない悠眞が、ふらりと圭吾に近づいていく。


何をするつもりなのだろうと
途中まで開けた口を噤みながら見守っていると、


あろうことか悠眞は
圭吾の顔面に拳を繰り出した。


長い間友達として近くにいたが
悠眞が人を殴ることなど、到底あり得ないことだった。

先程、圭吾に掴みかかったことだけでも
十二分に驚くことであったというのに。


おそらく力はそこまで強くなかっただろうが、
不意打ちだったことと当たり所が悪かったらしく
圭吾は反動でふらつきながら苦しそうに顔をしかめた。

歯で切ってしまったのだろうか。
その唇にはじわりと血が滲んでいた。



悠眞の意外な行動に驚いた瑞希が
相変わらず後ろからでは読めない悠眞の表情について考えていると、
地を這うように低い声が悠眞の喉から漏れる。


「…あんたが瑞希を好きなのは知ってます。」


その意外な言葉に、
呆気にとられた顔をしたのは瑞希だけではなかった。


「本気で好きなんでしょう。…わかってます。
中学の頃、あんたに出会ったときに一目でわかった。」


いつもより低いトーンの声が、瑞希の鼓膜を大きく震わせる。


「…俺…正直、瑞希は圭吾さんのことが好きなんじゃないかって
ずっと思ってたんです。」


―…え……何言ってんだ…。

瑞希はそう言おうと口を開くが、
次に来た悠眞の言葉がそれを引っ込めてしまった。


「でも、好きなら…それでいい、って思ってた。」


瑞希の口が半開きになったまま止まる。


「圭吾さんが好きだっていうのなら、
止めないで応援してやるのが一番瑞希の幸せになるだろうって…
そうしようと思ったんです。
あんたのこと、良い人だと思ってたから。」


心なしか震えているように見えるその背中に目をやりながら、
瑞希はその発言が些か自分に衝撃を与えたことを自覚した。


悠眞が心底良いやつだというのは
嫌というほどわかっている。

しかし
まるでそこまでの執着がないと言わんばかりの内容のそれが
瑞希の胸に痛かった。



「でも、8年前のあの日…
その考えは間違いだったって気付きました。」


先程の悠眞の言葉の中にちりばめられた
逆接を思わせるような口ぶりに全く気付いていなかった瑞希は、
不思議そうな顔で悠眞の後頭部を見つめる。


「あんたに瑞希は任せられない。」


はっきりとした声で悠眞が告げる。

その言葉を聞いて、
それまで静かに悠眞の言葉に耳を傾けていた圭吾が
カッとなって口を開いた。


「瑞希くんは僕といた方が良いに決まってる。」

「いいえ。」

「僕は君と違って大手外資企業の会社員だ。
金には苦労しないし、ある程度の地位もある。」

「それは、確かにその通りです。」

「僕以上に瑞希くんに尽くしてやれる人はいないだろう。
何でも与えてやれる。他に何が不満だというんだ。」


早口でまくし立てた圭吾の言葉を聞いて、
悠眞が黙り込んだ。

その沈黙の意味を
瑞希は次の言葉が思い浮かばなくて口を開かないのかと考えたが、
そうではなかった。

ややあって発せられた声が
押し殺したように震えるのを聞いて、
怒りで口を戦慄かせていたのだと気付く。


「あんたは…いつもそうやって…考えてやらないんだ…」


圭吾が怪訝そうに悠眞の顔を覗き込む。


「いっつも、自分で決めつけて。
瑞希がどうしたいとか、全然考えてないんでしょう。」


ひやりと冷たい言い方をした。

圭吾に向けられた視線も、おそらく
その声と同じく痛いほど冷たいだろう。


「あんたはね、圭吾さん。
瑞希のことなんか本当に考えちゃいない。
多分、いつだって、どうすれば瑞希が自分のモノになるのか。
…それをただひたすら考えてるだけなんです。」


「…何を言っているんだ。きちんと考えているじゃないか。
瑞希くんが何を欲しているのか、何が必要なのか!」


「物を与えるだけで幸せにできるとでも思っているんですか?」


「そういうわけではない!
きちんといつも、瑞希くんの思い通りにしてあげたいと思っているだけだ!」


その言葉を聞いた悠眞が、大きなため息を漏らす。


「じゃあどうして、今、瑞希を連れて行こうなんて考えてるんです?」


ちらっと、肩越しに瑞希を見る。
久しぶりにその横顔を見た気がした。


「嫌がっていたでしょう。それこそ全力で。
それを、まさか瑞希のことを考えて、なんて言いませんよね?

…実をいうと俺は、8年前からあんたにこれを聞きたかったんです。
あの時も、同じことをしたでしょう。」


「…それは……」


ばつが悪そうに圭吾が口を噤む。
悠眞はそれに畳みかけた。


「あんた、自分に都合が悪いことでもあるから
瑞希をここから離れさせたいだけなんでしょう?」


「そんな、そうではない。」


「いまさら取り繕ったって無駄ですよ。
本人が望んでいない以上、『君のためだ』という言葉は嘘になる。」


「な……」


圭吾は、次の言葉に迷っているようだった。
薄く開かれた唇が、何かを紡ぎだそうとしてはためらって
結局何も言わない。


しかし、悠眞はその口が開くのを辛抱強く待っている。
瑞希もまた、その理由が知りたかった。
8年前の分も合わせて。



「……君が……いつも邪魔をするから…」


沈黙を破って、
圭吾の弱々しくも恨めしそうな言葉が玄関に反響する。

悠眞はそれを聞いて攻め立てることはせずに、
しかし核心を掴もうと質問を投げた。


「俺が…何の邪魔になるっていうんですか?」


「…瑞希くんと……僕との関係の邪魔なんだ。」


「俺はそこまで瑞希を拘束していません。昔も今も。」


「違う…君は……」


言いかけて、圭吾の口がひきつったように歪む。


「君は…その存在だけで僕の邪魔になる…」


もはや圭吾は
悠眞の影に佇んでいる瑞希のことなど忘れているように見えた。
目もくれないで、悠眞との話に神経を注いでいる。


「存在が?どういう意味ですか。」


「…そのままの意味だよ……」


圭吾は小さく息を吐き、うなだれて答える。


「瑞希くんはね…
君と会うと、まるで僕のことなんか見てくれなくなるんだ…」


悠眞の息が詰まったような気配がした。


「帰ってくるなり君の話ばかり。
どんなに話題を変えたとしても、絶対君のことに辿り着く。」


そんなことをしていたのか、と
瑞希は自覚していなかった自分の行動に頬を赤らめる。

せめてこの話は瑞希が居ないところでして欲しかった。

もちろん色々と聞きたい事柄はあったのだが、
聞くに堪えない事柄がさっきから多すぎる。


「…君が…いなければ、って思ったんだ。」


片手で自らの顔を覆って、
寂しそうに笑った圭吾が言う。


「……もし君が彼の目の前からいなくなれば…
彼は君のことを忘れて、僕のことを考えてくれるんじゃないかと…
そう思って……」


「…それで、転校させてまで俺から引き離したんですか?」


悠眞の、どこか蔑むような声に
圭吾は軽くうなずきながら「そういうことになるな」とだけ答えた。


「…でも、僕の思惑通りには行かなかった。」


「………………………。」


「瑞希くんは君のことをいつまでも忘れてはくれなかった。
関係を迫っても、いつも何か考えながら困った顔をする。
…何度も迫るにつれて、だんだん抵抗はしなくなったんだけどね…
でも……名前を呼ばれるのは…辛かったよ…」


名前?と、悠眞が不思議そうに聞き返す。
瑞希にも何の事だかわからない。


「そう。名前。…君の名前を呼ぶんだ。」


「……俺の?」


「最中にね、泣きながら…。
多分ほとんど意識が飛んでて本人は覚えていないんだろうけど。
うわ言みたいにずっと君の名前を呼んでいたんだよ。」


瑞希は顔から火が出そうなくらいに真っ赤になった。
その話に驚きを隠せずに絶句する悠眞がこちらを向かなかったのがせめてもの救いだ。

しかし、悠眞を挟んだところにいる圭吾は
しっかりと瑞希に視線を投げかけてくる。

その焼くような視線にいたたまれない気分になった。

痛いくらいのそれが何か言いたげに光っていたが、
一体なんだったのかはわからなかった。



ふうっ、と息を吐いて圭吾がなおも話を続ける。


「彼と僕は、凄く似ているって…瑞希くん、君そう言ったよね。」


心の準備が出来ていないまま
いきなり振られた話題に慌てふためきながら、
できるだけ落ち着いた声で「はい」と答えた。


「…僕もそう思うんだよ。
最初に会った時から、話せば話すほど似ているなぁと思った。」


圭吾がちらり、と悠眞に目をやる。
しかし
先程の敵対心がむき出しといったような目ではない。


「でも君は、いつでも、どうあっても悠眞くんを選ぶ。
…その理由が、ずっと聞きたかった。」


どうしてなんだ?と尋ねられて、
瑞希は黙り込んでしまった。


それは
その事柄に対する返事が言いにくいからではなく
理由をよくわかっていなくて答えられないからである。


言葉が何も浮かんでこない自分の頭を
ぐるぐるとかき混ぜながら、
瑞希はその答えを懸命に掴み取ろうとした。



圭吾と悠眞の差というのは、
恋愛感情を持っているかいないかの差。


細かいところを言えば山ほどあるだろうけど、
大切なことはこれくらいしか思い当たらない。


(―じゃあ、何で悠眞は特別なんだ……?)


そう考え込んで困ってしまった。


(―……特別なものは特別…)


まるで思考が停止してしまったのではないかと思える程に
瑞希の頭にはそんな理由しか浮かんでこない。


悠眞は「特別」なのだ。それは自覚している。


それを正直に伝えたところで圭吾が納得するわけがないと考え
もっと深くへ思考を持って行こうとした瞬間、圭吾の口が開く。


「………いや、やっぱりいい。悪かった。
君自身で答えが出てないのに、話せというのが無理な話だ。」


心を見透かされたような圭吾の発言に
がばっと顔を上げて目を丸くした。


「……いい…。よくわかった。もう…いいから…。」


どこか寂しげに、そう小さく零す。

その端正な顔が、
俯いた瞬間かすかに歪んでいたように見えた。


「君が僕でなくて彼を必要としていることが、今日でよくわかった。
…今まで君の意思を無視して色々してしまったことは謝る。」


そう言うと圭吾は、
ひらりと身を翻して右手でドアの取っ手を引っかけた。


「…え、何……」


小さく瑞希が呟くと、
悲しそうに笑った圭吾が別れの言葉を口にする。


「すまなかった。……元気で…。」


(―…あ…………!)

語尾を小さくして、俯いたまま外へ飛び出そうとする圭吾を
瑞希は直感的に行かせてはならないと思った。

勢いよく飛びだそうとするその体を止めようと手を伸ばす。

しかし、瑞希がその腕を捕らえるより早く
白く大きな手がそれをしっかりと捕まえていた。





前へ    次へ


ホームへ戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -