Ep.06真紅の氷雨




―また熊谷が売上トップだってよ?

―嘘だろ?あいつこれで5カ月連続だぞ。

―絶対ズルしてるよね。

―そりゃ社長のご子息様だもん。
お顔が潰れないようにカサ増しされてでもいるんじゃないの?


喫煙所は今日も熊谷圭吾の話でもちきりだ。


何故この会社は自動販売機と喫煙所をこんなにも近い位置に設置しているのだろうと
コーヒーを買いながらいつも思う。

せめてもう少し離れた場所にあってくれれば
聞きたくもない自分の空想話などを聞かなくて済むというのに。



熊谷圭吾、28歳。
職業、サラリーマン。国内でも有数の外資系企業に勤めている。


父が会社の社長で家庭が裕福ということもあってか、
幼いころから不自由のない生活をしてきた。

三人兄弟の末っ子ということも手伝って、
欲しいものはねだれば何でも手に入ったし
欲しがらずとも色々なものが圭吾には与えられていた。


しかし圭吾が自分の境遇に満足したことは無い。


与えられた数々のものは、結局は親の権力や金で手に入ったもので
自分が手に入れたわけではない。

自分が手に入れなくては自分のものになどならない―

中学に上がる頃にはそんな考えを持っていた。


それから圭吾は、
自らの力によってしか手に入らないものを追い求めるようになる。

知識、教養、友人、人望…

圧力や現金で取引される無機質なものより、
形にならないものの方を自分で手に入れたい。

それが熊谷圭吾の人生哲学だ。


高校、大学は
私立では親のコネが気になるので国立に入学した。

入学試験では首席。

自らの力で合格してみせる。
親の力は間違っても借りない。

そういった信念に突き動かされながら自分で手に入れた結果だ。
圭吾はそう思っている。


自分で手に入れたと思う事が、
圭吾にとっての幸せだった。



大学卒業後は父の会社に就職した。

これは決してその権力にあやかろうなどと考えたわけではなく
自分のやりたい事がその会社でできると思ったからだ。

もちろん何か言われることくらい見当は付いていた。
しかし、自分に確かな実力があればそんなものは関係ない。
自分ならばやっていける。圭吾にはその自信があった。

実際圭吾は
絶対に後ろ指をさされないように抜け目なく知識を身につけ
物事を完璧にこなせるように努力をして、結果を次々と出した。


それなのに世間はそれを認めない。



圭吾の全ての結果は、
親の名前がチラついただけで掻っ攫われてしまうのだった。



圭吾にとって親の社会的地位は驚異だ。


その存在が圭吾の存在をも否定する。


皆 親の方を見て圭吾自身を評価などしてくれない。



自分で手に入れれば自分のものになる…―

あれはまやかしだったのかもしれないと圭吾は思い始めた。


本当はこの世の中のもの全てにおいて、
自分のものに出来るものなど一つもないのではないだろうか。


真理だと信じたくはないが、真理に思えて仕方がない。


では自分は何のために…―


そう考えるたびに息が苦しくなる。


――――――――――



(―うわ…雨降ってきた…。)


仕事帰り、駅を出て自宅方面へと歩いている途中に
圭吾の脳天を雨粒が濡らした。

今日は朝から色々とバタついていたせいで天気予報を見ていなかった。
だからもちろん傘など持っていない。


(―あ。カバンの中に書類入ってるんだった…。)


このまま走って自宅まで行けばなんとかなるだろうかと思ったが、
書類が濡れてしまうのはまずい。

圭吾は仕方なく、
近くにあったスーパーでビニール傘を購入することに決めた。




(―ビニール傘なんて久しぶりに使うな…。)


手に持った軽い感触に違和感を覚えながら、
長く並んだ列へと近づいていく。

時間帯的にも今の時間は混みのピークだろう。
少しくらい並ぶのは仕方のないことだ。

そう思ってその最後尾に並ぶと、
何やら隣のレジが騒がしい事に気がついた。


(―……?なんだ?何か言い合ってる…。)


恰幅のいい女性が担当しているレジに周りの視線が集まっている。

何事かと思って圭吾が目を凝らして見てみると、
皆の視線の中心にいるのは一人の少年だった。

顔や背丈で判断すると小学生に見えるが、
紺色のブレザーに身を包んでいることから判断して中学生だろう。
このあたりの学校だろうか。

何を言い争っているのか気になって、
その会話に耳を傾ける。


「ダメだったらダメなんだよ。
法律で禁止されています、って書いてあるの見ただろう?」

「でもオレが飲むんじゃないんですよ?
飲む人は20越えてる。それでも駄目なんですか?」


どうやら少年は酒を買いたいようだった。

しかし常識的に子供に酒は売れない。
だから諦めてくれとレジの女性は繰り返しているのだが、
どうもその少年は納得がいかないようだ。


(―まあ、どんなに自分が飲むんじゃないって主張したところで
もし飲まれたら売った方の責任になるんだから、当然ダメだろうな…。)



しばらくすると店長らしき別の店員が出てきて少年に声をかけた。
おそらくこのままではレジが詰まってしまうので
少年をレジから引き離したかったのだろう。


「…………。」


何故かわからないが、
店員に連れられて行くその後ろ姿が酷く悲しそうに見える。

圭吾はその背中を無意識に目で追っていた。


「いらっしゃいませ。」


ぼーっと立ちつくしていたら、気づけば自分の番になっていた。
圭吾は焦ってレジに傘を置く。







傘を購入し終わった圭吾は、
帰路につこうとスーパーを出た。

雨はさっきよりも勢いを増しているようだ。
でもそれでいい。
わざわざ傘を買ったというのに止んでしまったら意味が無い。



(―あ。)



圭吾が出口から出ると、さっきの少年がそこにいた。
壁に背を持たれかけてあからさまにしょんぼりと下を向いている。

先程は斜め後ろからだったせいでよく見えていなかったのだが、
かなり印象に残る顔立ちだ。

顔の作り自体は幼いが、どこか凛として整ったイメージがある。

身長も同年代の子から比べれば低いほうだと思うが、腰の位置が高い。
比率的にはかなり足が長いだろう。


横殴りの雨が圭吾に降りかかってきたことで、
ようやく少年を見つめてしまっていた事に気がつく。


何をしているのだと自らを詰り、
圭吾は何事もなく前を通り過ぎようとした。


しかし、
なんだか少年の目がこちらを向いている気がする。


勘違いかもしれないと思い
さりげなく後ろを振り返るが、
その視線の延長線上には圭吾と壁とドアしかない。


「…なにか?」


視線に負けた圭吾がおずおずと口を開く。

すると少年は壁にもたれかかるのをやめて
こちらに向き直った。


「…いや、その。ちょっと聞きたいんですけど…」

「はあ。」

少年は圭吾の顔から視線を落として、その手に持っている傘に注目する。

「ソレ、中で売ってるんですか?」

す、と指を差してきた。
ソレというのはビニール傘の事で間違いないだろう。

「え、うん。売ってるよ。」

圭吾がそう答えると、
少年はいそいそとポケットから財布を出して中身を確認し始めた。

「いくらですか?」

「ええと、500円。」

「高ッ!うそ、そんなにすんの!?」

驚いた顔でそう言ってから、
なにやらしかめっ面で考え出す。

「んー…。それじゃあ足りなくなるか…。」

ぼそりと呟いた。
圭吾は財布の中身を少年の頭の上からひょいと拝見する。

「足りない?どういう事?」

小銭を見る限り1000円は確実にある。
何の話をしているのだろうか。

「いや、多分ソレ買ったらあっちが買えなくなると思うんで。」

「『あっち』って?」

「ビールです。
ここだと売ってもらえなかったから他を当たろうかと思って。」

その言葉を聞いて、圭吾は大きくため息をつく。

「あのね、今の世の中じゃ君にビールを売ってくれる店は無いよ。」

呆れた声でそう言うと、キッと強気な目線で睨まれる。

「だから、オレが飲むんじゃないんですよ?」

「そうだとしてもダメなんだ。
未成年に酒を売ったら逮捕されるのは店員の方だから。
諦めた方が良いと思うよ。」

圭吾の言葉に、少年は眉を寄せた。

「じゃあ、オレじゃなくて他の大人なら売ってくれるんですか?」

話の意図が飲み込めず、首をかしげながら答える。

「いや、まあ…成人なら誰でも売ってくれるだろうけど…。」

言った瞬間、圭吾のスーツの袖口がぐいっと掴まれた。
何事かと驚いたと同時に、少年の口が嬉しそうに開く。


「それなら、一緒についてきて下さい!」


少年のあどけない笑い顔に一瞬ドキッとしてしまった。
なんだろう。疲れているからだろうか。変な気分だ。

「つ、ついていくって…?どこに?」

我に返ってそう返す。

「今からあそこのコンビニ行くんで、
一緒に行ってオレの代わりにビールを買って下さい!」

少年の口調はまるでおもちゃをねだる子供のようだ。
弾んだ声でとんでもないことを口走っている。

「いや……でも…。」

圭吾は苦い顔をした。
それだと何だか自分が犯罪の片棒を担がされるような気がする。

「というか何でそんなことまでしてお酒を買いたいの?」

犯罪者になるのはごめんだ。
そう思って話が違う方向に行くよう仕向けるが、
少年は下を向いて圭吾の質問に答えようとしない。
やはり自分が飲むために購入したいのだろうか。


「もし自分で飲むつもりなら、それは―」
「母さんにあげるんです。」

圭吾の説教じみた言葉に被さって、ぼそりと呟く。

「え?」

「母さんが飲むんです。オレじゃない。」

今度は顔を上げてまっすぐ圭吾の目を見て言った。
澄んだこげ茶色の瞳が圭吾の黒眼を痛いほど刺激する。

「『母さん』?じゃあ何?君はお使いでも頼まれたの?」

今どき酒を子供に買わせに行く母親がいるのだろうか。
それだったら驚きだ。流石に常識が無さ過ぎる。

「違う。」

少年は首を横に振る。

「そうじゃなくて。
今日帰ってくるから、その前にビールを用意しておきたいんです。」

話が読めない。
今日帰ってくる?その前に?
どこかへ出張していて、帰ってくるからという祝い酒なのだろうか。

あれこれと考えていると、
少年の口から圭吾の知りたい情報がつらつらと語られ始めた。

「うちの母さん、滅多に帰ってこないんですよ。
昼は男と遊びまくって夜はキャバで働いて。
一週間に1回帰ってきたら良い方なんです。本当に帰ってこない。

それで、帰ってきたら帰ってきたでオレとか妹とかに当たってくるんです。
帰ってくる時っていうのは大抵、彼氏と喧嘩しただのなんだので泊まる場所がなくなった時ですから。」


驚いたのは、その言葉の内容よりも
少年の「さも当たり前」とでもいうような、冷めた物言いにだった。
一体どれだけの思いをしたらこんなに酷い話をそんなに淡々と語る事が出来るのだろう。

少年は勢い余って掴んだ圭吾の袖を未だに掴み続けていた事に気づき、
そっと手を離す。

「でも酒があれば大丈夫なんです。」

そう言って寂しそうに笑う。

「酒が入ると、途端に静かになってくれる。
…だから、買っていって飲ませようと思うんです。」

圭吾が目を丸くして少年を見つめると、
その視線から逃げるように顔をそむけて
「なんか毒を盛るみたいですけどね。」と付け足した。


圭吾は複雑な気持ちになる。

それが本当ならかなり酷い話だ。
中学生を置き去りにして家に帰って来ないだなんて。

しかもその話だとおそらく父親も不在だろう。
離婚したか、最初から父親が誰かわかっていない可能性だってある。

それに今、妹もいると言っていた。
この少年が中学校1年生だとすると、妹は小学生か…?
なんにせよ二人とも親が放っておいていいような年齢では到底ない。

頭のなかで色々と考え込んでいたら、
「この子の力になってやりたい」という方向に気持ちが傾いてきてしまった。


しかし、もしこの話が全て嘘だったらどうする。

このままコンビニに行って、酒を買ってやって、
そしてこの子がそれを飲んでそのことがばれたら…。
確実に警察に行くのは自分だ。それは困る。

ちらっと少年の方を見ると、
彼は圭吾の次の言葉を待っているようだった。

その顔に悪意は感じられない。


「えっと…その。…事情はわかった。
でもそんなこと、見ず知らずの他人に頼むことじゃなくない?」

やんわりと断ろうとほのめかすと、
鋭い視線が圭吾に突き刺さる。

「オレは母さんと妹以外、親類はいません。
それに近所付き合いもしないから知り合いもいないし。」

「じゃあ学校の人とかはどうなの?」

「先生とか、って意味ですか?多分OKしてくれませんよ。
それに学校には母さんのこと言ってないですし。」

つん、としながら淡々と答える。
そう言われてみればそうだ。

「あの…でも、学校にも話してないことを
どうして通りすがりの僕なんかに?」

頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけてみる。

答えはすぐには返って来なかった。
うっすらと眉をひそめて、圭吾から視線を外して黙り込む。


「多分…他人だからこそ…かな…」


薄く開いた唇から、そんな言葉が滑り出た。

「え?なに?」

圭吾はその意味を図りかねて聞き返すが、答えてはくれない。
どうしたものかと考えあぐねていると、少年がぼそりと呟いた。

「あと、なんか…」

言いながら圭吾の目を覗く。


「あなたなら、わかってくれそうな気がしたから…。」


その瞬間、
雨のにおいが混ざった突風が二人の間を駆け抜けていった。


その風に彼の柔らかな髪がほどけてなびき、
陶器のように白くてなめらかな頬が雨に濡れていく。


圭吾は思わず目を細めた。


風のせいでそうしたのか、

彼のせいでそうなったのか…


どちらなのかはわからない。


―――――――――――


歳を取ったせいか、昔よりも時が過ぎるのが早く感じる気がする。

当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

例えば、圭吾の一年は人生の28分の1だが、
自分の目の前にいる少年――瑞希にとっての一年は14分の1だ。
そう考えると歳をとればとるほどそうなっていくのは当然のことに思える。


「圭吾さん、今日の晩飯なに?」


食事の支度をする圭吾の脇から、ひょいと顔を出した瑞希が言った。


結局あの日、圭吾は押しに負けてコンビニまでついて行ってしまった。
それだけでなく自分の金でビールを買い与え、
お母さんによろしくと言って帰らせた。

何をやっているのだろうと思ったが、
どうせこの先もう会わないのだろうから…と考えて
自分を説得したのだった。


ところが次の日、圭吾が会社から帰ってくると、
駅の改札口に瑞希が立っていた。

こんなところで何をしているのだろうと思って声をかけると
瑞希は昨日のお礼がしたかったので待っていたのだ、と言ってから
深々と頭を下げて本当にありがとう、と何度も感謝の言葉を述べてきた。

そして一息ついてから
お礼に食事でもどうですか、などという事をさらりと言ってのけるので
圭吾は吹き出してしまった。

そういうのは大人のセリフだ、と返して
今度は圭吾から食事に誘い、
そして二人で適当なファミレスに入り、色々な話をした。



その日をきっかけに、
瑞希はちょくちょく圭吾の前に姿をあらわすようになった。

圭吾を訪ねてくる時は、大抵「頼みごとがある」と言う。
しかし圭吾はその頼みごとを聞いて協力することに全く苦痛を感じないどころか、
むしろ瑞希が自分を頼って来てくれることが嬉しいとまで感じていた。


自分の気持ちに自覚がないわけではない。


圭吾はどうやら瑞希に惹かれているようだ。


それが最初に会った時にどうにかしてあげたいと思った理由でもあるし、
その後もずっと力になりたいと思った理由でもある。


もしかしたら同情だとか父性本能だとか、
そういった類の感情かもしれないとも考えた事はあった。


しかしこれはそういうものとは随分と勝手が違うように思う。


圭吾にとって、瑞希は他の誰とも異なった存在だ。


今まで圭吾が出会ってきた人間は
例外なくその両親のことを知った途端に目の色が変わった。

誰ひとりとして「熊谷圭吾」という人間を単体として見てくれる者などいなかった。


しかし瑞希は違う。


もちろんまだ歳が若いので
そういった しがらみを理解していないのもあるだろう。

けれど彼はありのままの熊谷圭吾を見てくれる。

それがとても新鮮で心地が良い。


そしてまた、
ここまで自分の心をかき乱す人間は他に誰ひとりとしていない。

その一挙一動に振り回されて
感情が思うようにコントロールできなくなってしまう時が多々ある。


その無邪気な笑顔が向けられるたびに
心臓が早鐘を打ち、胸が締め付けられるように痛くなる。


無防備な姿を自分の前にさらけ出しているとき、
何度も体に触りたいと考えては
いけないことだと伸ばしかけた手を引っ込めた。




―僕は瑞希が好きだ。




しかしそう自覚したところで
瑞希と自分がどうにかなれるなどとは思っていない。

そもそも瑞希からしてみれば
良くても圭吾はただの「良い人」としか認識されていないだろう。


もしこの気持ちがばれてしまったらそのポジションすら危うくなる。


そう思うと
一歩を踏み出さないことが得策に思えた。

瑞希からその一歩を踏み出してくれないものかと
願ってやまない。

そんなことは決してありえないことだとはわかっているけれど。




…そうしているうちに一年が経ってしまった。


―――――――――――





「瑞希くん、スプーンを3人分出してくれるかい?」

圭吾はそう言って瑞希の方を振り返る。

「あー、待って。このメール返しちゃってからでいい?」

瑞希は手に濃紺色のケータイを握ったままそう答える。



今や圭吾は家に自由に出入りできるところまで関係を持ち込んだ。
食事を作ったり、まだ小さい希美の世話をしたり、
瑞希の話し相手になったり…という名目で
よくこの家に入り浸っている。


(―…まあ、多少汚い手を使ったけどね。)


ふ、と鼻で笑いながら
ラザニアをテーブルまで運ぶ。

用を済ませた瑞希がスプーンを引き出しから取り出しながら
その様子を見て怪訝な顔をする。

「なに?どしたの?」

「いいや。別に何も。冷めないうちに食べよう。
希美ちゃんを呼んでおいで。」

「ああ、うん。それならさっき声かけたからすぐ来ると思う。」

そう言って瑞希は椅子に腰をかけた。
圭吾もその向かい側の椅子を引いて座る。


「あ。あのさ、圭吾さん。」


コップに麦茶を注いでいたら、急に瑞希が口を開いた。


「オレ、ちょっと前から気になってることがあるんだけど。」

「うん。何?」

麦茶に口をつけながら相槌を打つ。


「その、やっぱさ、圭吾さんのこと『父さん』とか呼んだ方が良いわけ?」


圭吾は危うく麦茶を吹き出しそうになった。
必死でそれを堪え、涙目になりながら返答する。

「べ、別にそのままでいいよ!呼び方を変える必要なんてない。」

「そ?…でもなんか、せっかく圭吾さんが父さんになったのに…」

「いや、本当にそのままでいいから!」

麦茶が少しだけ変な所に入ってしまい、
ゴホゴホとむせながらもそう答えた。


さっき言った「汚い手」というのはこのことだ。


少し前から、
圭吾は戸籍上瑞希の父親になった。


つい数ヶ月前のことだ。
希美の体調が悪いのでみてくれないかと瑞希に頼まれたので家に行き、
熱が下がるまでみていようと思っていたら夜中になってしまい
結局泊まっていく事になった日があった。

赤の他人の圭吾がここまで踏み込んでいいものかと
夜中に居間のソファに座りながら瑞希との関係に悩んでいると、
ふらりと瑞希の母親が帰ってきた。

どうやら相当飲んでいるように見えたが、
その顔は瑞希とよく似ていて童顔だが端正だ。

知らない人がこんな夜中に家にいるのはかなりマズイことなので
へべれけに酔っている瑞希の母親に一応事情を説明したが、
一通り黙って話を聞いた後に「ふーん。」と薄い反応を示しただけだった。


どうやら本当に自分の子供に関心がないらしい。


足に力が入らないからベッドまで運んでくれと言われたので
やれやれと思って言われた通りにすると、
ベッドに下ろしたところで腕を掴まれてキスされた。

さすが子供を放っておいてまで男遊びにふけっているだけあって
手を出すのが相当早い。

圭吾は一瞬体を引きかけたが、
すぐにとんでもない事を考えついてその体を受け入れ始めた。

(―もし僕が瑞希くんの父親になったなら、
あの子とずっと一緒にいる理由ができる…)

この女を落としさえすれば。

そんな考えが頭に上る。


実際、瑞希の母親を落とすのは至極簡単なことだった。

圭吾はルックスも良いし金持ちだ。
甘い言葉を囁いて何度か寝たら、すぐに結婚を了承してくれた。

しかも飽きっぽいので
圭吾と離婚はしないまま、今日も他の男と遊びまわっている。

本当にどうしようもない女だと思いつつも、
その性格に少し感謝している節もあった。



「いただきまーす!」

「はい、召し上がれ。」

希美がやっと食卓についたので、
三人そろって圭吾が作った料理を食べ始めた。

まだ5歳の希美には一皿分のラザニアは多すぎる。
そう思って少し少なめに作ってみたのだが、思ったよりも食べる。
ちょっと足りない、という顔をしていてこちらを見つめてきた。

「希美ちゃん、お皿を貸して。僕のを少しあげるよ。」

そう言って希美の皿に自分のラザニアをすくってのせる。
希美は嬉しそうにまたそれを口いっぱいにほおばりだした。

すると、向かい側からラザニアを乗せたスプーンが伸びてきた。
圭吾の皿にそれをよそっては自分の皿に戻し、またすくってはよそう。

「え、なに?瑞希くん?」

圭吾はきょとんとして
黙々とラザニアを皿から皿へ移動する瑞希を見つめる。

「圭吾さん、今日仕事だったでしょ?あと明日も。
そんな量じゃ足りないよ。」

淡々とそう告げた。

「いや、僕のことは気にしなくていいよ!
いいから食べて。それじゃあ瑞希くんが足りなくなるよ。」

「オレは今日休みだったから体力使ってねーし。
だから圭吾さんがもうちょっと食って。大体圭吾さん痩せすぎなんだよ。
ちゃんと食べないと絶対倒れるって。」

はいどうぞ、と言ってラザニアをよそった皿を圭吾に差し出す。

圭吾は瑞希のこういった優しさが好きだ。
とても小さなことから大きなことまで、気を使って行動している。

少し気が咎められるような気もしたけれど、
瑞希の気持ちを受け取らないのも失礼だ。

そう思い、
圭吾は礼を言ってからそれをスプーンですくって口に入れた。


それを見た瑞希が満足そうに笑う。


「そういやあいつもすっごい細くてさ。
首の後ろとか骨が出るくらいガリガリなの。
ちゃんと食ってるとは言ってたけど…。」

瑞希が思い出したように話し始めた。

「『あいつ』?」

「うん。悠眞。この前うちに来たでしょ?」

「ああ…。」


確か、藤井悠眞という名前だった。

瑞希と同い年で、小学校のころからの友達らしい。
中学にあがってからは
去年は同じクラスだったが今年は違うクラスになってしまった、
と残念そうに言っていた気がする。


「もしかして覚えてない?」

「いや。色々と話をしたから覚えてるよ。」


瑞希が家に友達を呼ぶことは結構多い。
しかも、付き合いが浅いのかほぼ毎回人が違うので、
その度に顔と名前を覚えるのは不可能だ。

しかしあの藤井悠眞だけは
一度見ただけで忘れられない存在だ。

言葉じゃ表現できないほど精巧に整った顔立ちに
性格も温厚で気が使える、年の割によく出来た少年だ。

おそらく学校では相当色目を使われるだろう。

そう思って尋ねると、
「好きでもない人と付き合えませんから」と軽く笑って答えた。


正直その言葉は
好きでもない相手と結婚までした圭吾の胸にかなり深く突き刺さったが、
彼の問題はそこじゃない。


あの子からは自分と同じ匂いがする。


直感的にそう思うのだ。


彼の瑞希に対する態度や視線は、
ただの友達というには違和感がある。

それに瑞希の方もかなりあの少年に入れ込んでいるようだ。
あの少年の話をする時とその他の話をする時では
瑞希の話し方は全く違う。


圭吾にはそれが不愉快でたまらない。


自分だけが瑞希を知っていたい。
瑞希に自分だけを頼って欲しい。

子供じみた独占欲が圭吾を襲ってくる。


―――――――――――


「悠眞と圭吾さんって似てるよね。」


晩御飯を食べ終わり、使ったものを片付けていると
瑞希が隣で手伝いをしながらそんなことを呟く。

圭吾の心臓が跳ねた。

「え?そう?」

気のない返事を返したつもりだが、
顔には明らかに焦りの色が出ていただろう。

何故いきなりそんなことを言うのだろうか。

「なんつーか、オーラが似てる。イイオトコオーラ。」

そう言って瑞希はくすぐったそうに笑う。

「『良い男オーラ』?」

「そう。二人とも超モテそうじゃん。かっこいーし。」

そうでもないよ、と答えるとあの少年をも否定することになるし
そうだね、と答えると自分を肯定することになる…。

何と答えたらいいのかわからず黙っていると、
瑞希が楽しそうに話を続ける。

「そういえばこないだ学校で悠眞が告られてる所に偶然遭遇しちゃってさ。
学年で1、2を争う可愛い子だったんだけど、振っちゃったんだ。

んで、もったいねーなーって言ったら、あいつ
『好きな人がいるからその人以外とは付き合えない』って言って。」

圭吾の眉がぴくりと動く。

「気になったから好きな奴って誰か聞いてみたんだ。
でも全然教えてくれなくってさ。オレちょっとショックだったよ。」

瑞希の最後の言葉にドキッとした。

「『ショック』?どうして?」

「えー?なんかさ、オレ的には
あいつとは本当に仲が良い友達で隠しごとも一切ない関係だと思ってたわけ。
でもなんかオレの知らないうちに好きなやつが…とかって、何か傷つく。」

ぶすっとした顔をしながらそう呟く。

別に「好きな人がいる」というところにショックを受けたわけではないらしい。

「悠眞くんの好きな人ってどんな子だろうね。
やっぱり性格の合いそうな清楚で真面目な感じなのかな。」

「あー、あのね、ヒントはくれたんだ。
確か『美人というより可愛い系』とかなんとか。」

圭吾の胸がざわつく。
瑞希の顔はどちらかと言えば「可愛い」に当てはまる。

「あと、『元気で優しい』…だったかな。」

それも当てはまる。

圭吾はタオルで水に濡れた自らの手を拭いて、
胸の中で騒がしさを増すざわめきを押し殺しながら
気に留めていないかのように後片付けをし続けた。

「あ!そうそう。
あと大ヒントになりそうなことも言ってた。」

「何?」

「『瑞希みたいな』って。
つまりオレに似てる女の子ってことだろ?
…誰だろうなぁー…。」


瑞希の言葉に、一瞬手の動きが止まる。


もしかしたら考えすぎかもしれないが、
その言葉は瑞希に向けた告白なのではないだろうか。
そう圭吾は思った。

「瑞希みたいな感じの人」という意味合いではなく
「瑞希。…みたいな。」と言ったのではないだろうか。

彼の性格なら十分あり得る。
照れ隠しで付けた言葉で誤解されてしまったのでは…

そう思うと敵ながら少し同情した。

しかしまさか先手を打たれていたとは。

圭吾の中で対抗心が膨れ上がっていく。


「そんなに気になるの?」

うーん、と唸りながら考え込む瑞希に
努めて何でもないという風に問いかける。

「気になるよ!
教えてくれたら協力だってするのにさー…」

瑞希は大きくため息を吐いて皿を棚に戻した。

「でも、悠眞くんに彼女が出来たら
瑞希くんと遊ぶ時間が減っちゃうんじゃない?」

圭吾としては考えもなしに何気なく言った言葉だったのだが、
瑞希には何か考えるところがあったらしい。
急に黙りこくってしまった。

「…瑞希くん?」

「それは困るな…」

呼びかけを無視した瑞希がぼそりと呟く。

「困る?」

「うん。困る。
だってオレ、悠眞以外遊ぶ奴いねーし。」

「遊ぶ人がいないって…しょっちゅう友達を連れて来てるじゃないか。」

「アレは友達じゃなくて、知り合い程度。
オレの友達は悠眞だけ。」

はきはきとそう告げる瑞希と目が合って、
圭吾の心臓が一回、大きく波を打つ。

「っつーか悠眞とだけ仲良ければそれでいいし。
他の奴なんかいらない。」


―他の奴なんかいらない―…


圭吾はその言葉が瑞希と悠眞を結びつけている名もなき絆を
はっきりと表わしているように感じた。



いつもいつも瑞希の言動から
彼を想う気持ちが見え隠れしているのには気づいていた。


彼と話しているときの
圭吾には一度も向けたことのないような、
心底嬉しいと言わんばかりの表情を見ていればすぐわかる。

瑞希はあの少年に対する気持ちを自覚していないだけだ。
だからタチが悪くて余計に腹立たしい。



「…好きなんだね。悠眞くんのこと。」



圭吾の口が刺々しく零す。


「え…?好き…?
んーまぁ…そうなのかな。」


その言葉の意味を理解したのかしていないのか…
少し照れた調子で瑞希がそう言った。


胸が疼く。
掻きむしってしまいたいほどに。


激情が圭吾を翻弄する。


そしてそれに追い打ちをかけるかのように
瑞希の無自覚な一言が降ってきた。




「あ、でも圭吾さんも好きだよ。」




―――ダンッ!!



その刹那、
圭吾は瑞希の唇を奪いながらその背を壁に叩きつけた。


右手を壁について、
左手は壁と圭吾に挟まれた瑞希の頭をしっかり引き寄せ
深いキスをする。


「んっ…!? な…にっ…!」


いきなりの出来事に混乱した瑞希が、離れようと必死にもがく。


「な、何すんだよ…っ!」


唇を離した途端、
瑞希の口から怒りに震えた声が漏れた。

圭吾は壁についていた手を瑞希の顎に持って行き、
それから下唇の形をなぞるように親指で辿る。


「僕も君が好きだよ。…でも…」


そう言いながらもう一度唇を落とす。



「僕の『好き』は、こっちの意味だ。」




その言葉を聞いた時の、瑞希の顔が忘れられない。


何かに絶望したような、世界の終わりを垣間見たような、
真っ青で打ちひしがれたような顔。






瑞希という存在―――その全てが欲しかった。


どんな汚い手を使ってでも良い。


独占したい。



自分の手で手に入れれば自分のものになるはずだ。

きっとあれはまやかしなどではない。

僕にはそれが出来る。



僕だけを見て、僕だけを欲して、
僕以外はいらないと、そのセリフを僕だけに告げて欲しい。



狂おしいほどに愛している。

だから

全てを奪ってでも僕だけのものに――――





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