Ep.04紅梅色の俄雨




悠眞とまた会うことになったのは
それからさらに2週間後のことだった。

しょっちゅう電話はかかってきたけれど
仕事の関係でお互い上手く都合がつかず、
今日は大丈夫だと思った矢先に例の鬼教師からの緊急呼び出しがあったり
悠眞の方も臨時でバイトを変わってくれと頼まれてしまったりで
さんざん約束を先延ばしにしてしまったのだ。



「ホント、ドタキャンしまくってごめんな。」

申し訳なく思ってそう謝り、カレーを口に運ぶ。

「いや、こっちこそ。
何回も約束を反故にしちゃって…。」

悠眞はそう言いながら、
氷の入ったグラスにミネラルウォーターをとくとくと注ぎ
瑞希の前に置いた。



今日は悠眞が
カレーを作り過ぎてしまったので食べてくれないかと言って
家に誘ってくれた。

悠眞の料理の腕が良いことは前々から知っていたが
会わない間、また更に腕を上げたようだ。

これを食べてしまっては
もうしばらくはそんじょそこらのカレー屋に行けそうにない。


しっかし旨いなー、と歓喜の声を上げる瑞希を、
悠眞はふんわりとした笑みを浮かべながら見つめて来る。

その視線に気付かないふりをして
スプーンでカレーの山を開拓していく。

何故だかわからないけれど、
うっかり目を合わせてはいけないような気がするのだ。





「ごちそうさま!おいしかった!」

「お粗末さま。良い食べっぷりで助かったよ。」


悠眞は満足そうににっこりと笑って
空になった皿を片づけ始める。

瑞希は少しのあいだ満腹感を味わって椅子にもたれかかっていたが、
立ちあがると食器を洗う悠眞の手伝いを買って出た。


大丈夫だからゆっくりしていて、と
遠慮する悠眞を振り切って食器を洗うのを代わる。


「っつーかお前、料理は好きだけどその他の家事はあんまりって
珍しいタイプだよな。」

隣で洗い終わった皿を拭いている悠眞に向かってそう言うと、
悠眞は困ったようにはにかんでこちらを向く。


「だってなんか、料理は楽しいから。」


悠眞は昔から料理が趣味だ。
しかしその後片付けはいつでも適当で、滅茶苦茶。

それとは正反対に
洗濯や掃除や食器洗いは好きだが料理はてんでやらない瑞希は
いつもそれを見ると助け船を出さざるを得なくなってしまう。


「洗濯とかは楽しくないのかよ。」

うーん、と悠眞が首をひねる。

「…面倒かな。
放り込んで回すまでは良いんだけど、干してまた取り込むのが。」

「はぁー?それなら絶対料理のがメンドーだろ。
刻んで煮て炒めて味付けして…って。」

「『炒めて煮て』、ね。」

悠眞が皿を棚にしまいながら訂正する。
どっちでもいいだろ、と文句を言うと
くすぐったそうな笑い声が返ってきた。


「つーことはあれか。
アレももしかして『面倒』がゆえに形成されているものだったりするのか?」


瑞希が指さす方向を見て悠眞が赤面した。

指の先にあるのは、
洗濯かごに乱雑に入れられた衣類だ。

どうやらこの家事に対してかなり不精な男は、
洗濯をして乾いた衣類を畳むことすら面倒に感じてそのまま放置しているらしかった。


「いや…まぁ…。」

ばつが悪そうにしながら鍋を流しの下にしまう。
いつも冷静沈着な悠眞が
しどろもどろしているのが少し可笑しい。

瑞希がそれを横目に見ながらずんずんと衣類の巣窟に近づいて行くのを見て
悠眞はとぼけた声を出した。

「…へ?なに?」

「アイロンかける。」

悠眞が目を剥く。

「いや…えっと…うちにアイロンは無いよ?」

「ないの!? まじで!?」


瑞希にとって洗濯というのは
洗う、干す、取り込む、アイロンをかける、畳む
という5つの一連の作業で成り立つものだ。

特に「アイロンをかける」というのは
洗濯の中でも一番楽しい作業だと思っているため、
この世にアイロンをかけないで衣服を着ている人がいるとは思いもしなかった。


「アイロンかけなくたって、
干すときにしっかりシワを伸ばせば大丈夫だよ。」

ほら、と悠眞は
山の中から薄手のシャツを取りだした。
確かにシワになっていない。


「じゃあせめて畳めよ…」

「うーん…でも畳んでもどうせ着るときはこういう状態にするでしょ?
だからこのままでも良いんじゃないかと思うんだけど。」


ぷちっ、と
瑞希の頭の中でなにかが切れる音がした。


「いーから畳め!!…っつーかもうオレが畳む!!」

そう言うなりカゴの中の洗濯ものに手を伸ばし、
床にどっかりと腰をおろして畳み始める。
隣で瑞希の服の裾を引っ張りながら焦った声で制止してくる駄目男に関しては完全に無視をし続けた。

悠眞はしばらく瑞希の周りでなにか言っていたが、とうとう諦めた様子で
すとん、と瑞希から少し離れた場所に腰を下ろし
しぶしぶ洗濯ものを畳み始めた。


しかしながらこの男、
どうやら本当に洗濯ものを畳んだことが無いらしい。
俯いたまま動かないので、どうかしたのかと問うてみると
どう畳むのかと質問を質問で返された。

自分は母親じゃないんだぞ、と叱咤して
ため息をつきながらも教えてやると
悠眞はまるで小学生のように真剣なまなざしで
瑞希の手の動きを真似てくる。

すらりとした長身の美形青年が
ままごとをしているかのように思えて噴き出した。


「なに?」

「いや、なんかシュールだなと思って。」

「シュール?なにが?」

「いーや。なんでも。
…それよりお前、何でこんなにVネックの服ばっか持ってるわけ?」

畳もうとした洋服を悠眞に広げて見せる。
濃紺の半袖Vネックシャツだ。

「んー…なんか、店員に勧められたのを買ってたらこんなことに…。」

「は?勧められるがままに買ってるってこと?」

瑞希は怪訝な顔をする。

「いや、そうじゃなくて。
いつも2つのうちどっちか決めかねて、
考え過ぎてわかんなくなっちゃうから店員に聞くんだ。
それで『こっちのが似合う』って言ってくれた方を買ってる。」

「じゃあつまり
いつもVネックの服が最終選考まで残ってるってことか?
どんだけVネック好きなんだよ。どこが良いわけ?」

しかもいつも店員がそっちのが良いと言う、ということは
本当にVネックが似合う男だということだ。
確かに瑞希から見ても似合っているとは思うが、
ちょっとやり過ぎではないだろうか。


「どこが良いって言われても…。
なんだか目を引くっていうのかな。良いなって思っちゃう。」

「だからって…」

ため息混じりの呆れた声を出して、
当初よりはかなり小さくなった山に手を伸ばす。
今度は胸の所にロゴがあるこげ茶色のVネックロンティー。
本当に種類が豊富だ。いっそのこと関心する。


「そういえばこの前瑞希が着てたやつはどこで売ってるの?」

思い出したように悠眞が言った。
唐突な質問に首をかしげる。

「この前って?」

「前回瑞希と会った時だよ。
黒地に極細の白い縦ボーダーが入ったVネック着てたでしょ?」

その言葉を聞いてぎょっとする。

「お前、よく覚えてんなー。
オレあの日何着てたかなんて全然覚えてないし…。」

そう言いながら瑞希は考え込む。
黒地に極細の白い縦ボーダーが入ったVネック…。

(―あ。あれか。)

悠眞の言葉と脳内クローゼットの中身が結びついた。
確かに言われてみればあの日着ていたかもしれない。

「あー…あれはその…
自分で買ったわけじゃないからどこで買ったのかわかんねーんだよな…」

歯切れ悪くそう言うと、悠眞は詳しく追及してきた。

「わかんないって…
古着屋とかで買ったってこと?」

「いや、違くて。
買ってきてもらったんだ。」

「ああ。希美ちゃんに?」

「ううん。圭吾さん。」

言った途端、悠眞の表情が固まった。

どうしたのだろうと見つめていると、
やがてその顔は無表情になり俯いてしまった。

表情では読み取れないが、
なにか怒っているような気がする。


「……悠眞?」
「…ってるの?」

二人の声が被ってしまってよく聞こえなかった。
え?と聞き返すと、
レンズ越しの黒眼が恨めしそうにこちらを見る。

「今も、会ってるの?」

その声にはやはり怒りが感じられた。

悠眞の見たこともない冷たい表情と突き刺すような視線に、
瑞希はたじろぐ。


「瑞希、あのさ―」
「さ、酒飲まねぇ?
オレが買ってきたやつ。アレ飲もうぜ。
洗濯物たたむのも終わったことだし!」

悠眞が何か言うのを遮って
逃げるように早口で捲し立てると
さっさと冷蔵庫の方に向かっていった。

冷蔵庫でキンキンに冷えたビールを取りだしながら、
横目で悠眞の様子をうかがう。

悠眞はしばらく黙りこんで何か言いたそうにしていたが、
瑞希がローテーブルにビールを置くと
無言でソファに座ってそれを開けた。

瑞希は少しスペースを開けて悠眞の隣に腰を下ろす。
なんだか、いま正面に座るのは憚られる気がした。



おかしな空気が二人の間に漂っている。



瑞希はそれをどうにかしたくて
ころころと話題を変え、悠眞に話を持ちかけていく。

悠眞は最初のうちこそ無言のまま俯いて
瑞希の話に相槌すら打たなかったが、
酒が入ってくると態度がだんだんと緩んできた。

しまいには
何か諦めるかのような大きなため息を一回だけついて
顔を上げて瑞希の話に乗ってくるようになった。


――――――――――――――



「んー。もう一本出してくる。」
「もうやめなって!」

ふらりと冷蔵庫に向かおうとする瑞希を
悠眞がその腕を掴んで制止する。

「なんだよぅ。もう一本飲むんだってば。」

「いくらなんでも飲みすぎだって。明日絶対二日酔いになるよ?」


あの後、
悠眞は話に乗っては来るものの、どこかぎこちなく
話と話の間にどうしても生まれる沈黙が痛々しかった。

瑞希はそれに耐えきれずに酒を飲んだ。
酒で誤魔化してしまえば何とかなるだろうと思ったのだ。

しかし元々そこまで酒に強いわけではないので
あっという間に酔いが回ってしまい、この様だ。


「けちー。もう一本くらい良いじゃんかぁ。」

「『けち』って…。瑞希、なんかキャラ変わってない?」

悠眞はため息を漏らす。
どうやらいつもの悠眞に戻ったようだった。


「だってなんか喉乾いたんだもん。」

「じゃあ水飲んで。お酒は喉を潤すためのものじゃないよ。」

そう言って、
グラスに入れたミネラルウォーターを差し出してきた。

瑞希は言われるがままそれを受け取って飲み干す。
こと、とテーブルにグラスを置くと
いきなり眠気が襲ってきた。

「…瑞希?」

グラスを掴んだまま動かない瑞希を見て、
悠眞が不思議そうに呼びかける。

意識が一瞬飛んだけれど、すぐに返ってきた。

「ごめん、ゆーま。ねむい。」

呂律が回っていない。
とりあえずグラスから手を離す。

「眠い?どうしようか。タクシーでも呼ぶ?」

眠気に負けてぐらぐらしている瑞希の体を支えながら
悠眞が困った声を出す。

肩をきゅっと掴まれて、少し意識が戻った。

「あー…いや。大丈夫。」

「全然大丈夫じゃないでしょ。
なんなら送ってくから。ほら、だから寝ないで。」

悠眞が肩を揺さぶって瑞希を寝かせまいとする。

がくがくと揺すられながらも時計を見た。
もう少しで22時になる。視界がぼやけて長針の方は読み取れなかった。


「泊まっていっちゃだめ?」

瑞希はそんなことを口走っていた。
肩を揺さぶっていた悠眞の手が止まる。

どうしたのかと思って悠眞の方を見ると、
きょとんとした顔でこちらを見つめている。

「え?なに?だめ?」

瑞希は念を押してみる。

すると悠眞は肩を掴んでいた手をそっと離し、
しばらく俯いて考え込んだ。





「…………いいよ。」





長い長い沈黙を経て、
薄い唇から低い声が滑り出る。

悠眞はそう言うなり立ちあがってどこかへ行ってしまった。
瑞希はそれを見つめながら
迷惑だったかな、と思い直す。

(―でもこのまま帰ったら確実にやばいし。
それにこういうときは希美に頼るより悠眞に頼った方が安心だ…―)


そんなことを考えていたら悠眞が戻ってきた。
布団敷いたからそっちで寝ると良いよ、と言いながらこちらに近づいてくる。

瑞希は礼を言いながら立ちあがろうとしたが、足腰に全く力が入らない。
体のどの部分も意のままには動いてくれず
どさっ、とソファに横たわった。

「あー…駄目だ。起き上がれないー…」

言いながら、悠眞の方に右手を伸ばす。

「引っ張って起こしてぇ。」

まるで小学生にでも戻ったような瑞希を見て、
悠眞はやれやれとため息をついた。

「瑞希は酔うと甘えたになるのか…」

そう呟きながら瑞希の右手を引っ張り、自分の体に引き寄せる。

悠眞はぐでぐでになったその体に肩を貸し移動を試みたが、
体の力を完全に抜いている瑞希は
まるで軟体動物のように悠眞の腕からずるりと抜けおちていく。

「ちょっとは協力してよ…」

何回担ぎなおしてもずり落ちていく瑞希に向かって
呆れたような声を出した。

悪りぃ悪りぃ、と瑞希はへらへら笑って返し、足に力を入れて体勢を整える。

すると、
ちょうど悠眞の胸に瑞希がもたれかかるような体勢になった。


あ、と瑞希は声を漏らす。

「オレ、今 Vネックの良さがわかった…。」

「え?何?」

唐突な発言に、悠眞は訝しげな声を出した。

「こーやって抱きついた時にー…
肌がほっぺたに当たる…」

ぎゅ、と瑞希は悠眞の胸に顔を押し付ける。
すると頬に悠眞の素肌が直接触れた。
体温の低い悠眞の胸が冷たくて気持ちいい。

少しの間そのままでいると、
悠眞の反応が無いことに気がついた。

不思議に思って顔を上げると、
悠眞は今までに見たことのない表情を浮かべて
瑞希を見下ろしている。

といっても、
先程の恨めしいような冷たい目ではない。
むしろ見つめられるだけで胸の真ん中が暖かくなるような
なんだかくすぐったいような視線。


悠眞は何か言いたげな口をきゅっと結び、
手で優しく瑞希の髪を梳いた。


「なに?オレ 今 別に落ち込んでないよ―」

言い終わるか終わらないか、
悠眞の顔が瑞希の上にゆっくりと降ってくる。

何の考えもなしに
ただそれを見つめていると、



唇が重なった。




瑞希は最初、
わけもわからずただその柔らかな感触を感じていた。

しかし
一旦それが離れて、再度違う角度から重ねられた時
瑞希はハッと我に返った。


「ちょっと、なに―」


唇が離れた隙に文句を言う。
しかし言いきらないうちに優しいキスが瑞希の口を塞いでしまう。


いきなりの出来事に焦った瑞希が
悠眞から離れようと身を引くと、
今度は腰に手をまわされて逃げられなくなった。


悠眞の冷たかった唇が瑞希の熱でだんだん暖かくなっていく。
同化していくような未知の感覚に、抵抗する力が弱まっていった。


「瑞希…」

キスの合間に名前を呼ばれて、肩がぴくりと跳ねた。
悠眞の熱い視線が痛いくらいだ。

「…瑞希。」

もう一度名前を呼ばれたかと思うと
頭の後ろに手を回された。


口付けが一層深くなる。


なんだかぼーっとするのは、
多分眠気のせいなのだと思った。

頭の芯がジンジンと痺れているみたいだ。

回数を重ねるごとに
どんどん熱く情熱的になっていくそれは、
瑞希に呼吸をも許さないほどになっていく。


長いキスが解けると、瑞希は息が上がってしまっていた。


熱に浮かされているような気分で
熱い吐息を漏らして俯く。

(―あつい…)

何が何だかわからない。
状況を把握しようとすると、降ってくる口付けがそれを妨げる。


頭の後ろにあった手がするりと前に回った。
瑞希の顎を つい、と引き上げる。

さっきよりも早急に唇を落とされて、
瑞希はついうっかり口を閉じ損ねてしまった。


「―…ん」

薄く開いた唇の向こうから、
何かひんやりとしたものが歯列を割って忍び込んできた。

それが悠眞の舌であると自覚した瞬間、
頭の中が かぁっと熱くなる。


不思議なくらい抵抗しようという気は起きなかった。
ただその唇を食まれるような感覚が体中をぐずぐずに溶かしていくのを
静かに感じることしか頭にない。

意識が朦朧としてきた。

悠眞のしっとりとした唇が
瑞希のそれからそっと離れていく。

「瑞希…」

悠眞が何かを言いだそうとしたが
瑞希の意識はほとんどなくなる寸前だ。

悠眞は訴えかけるような眼をして瑞希の黒眼の奥の方を見つめ、
それからまるで壊れものを扱うかのように
そっと、しかし しっかりと瑞希を抱きしめた。


鼓動が聞こえる。


とても力強くて速い。
これは自分のものだろうか……それとも………


「俺―」


そこで瑞希の記憶はぷっつりと途切れた。


―――――――――――




―ピピピピッ、ピピピピッ

耳障りな電子音で目を覚ます。
寝ぼけ眼で辺りを見回すと、いつもと何か具合が違う。

(―ここ何処だ?)

むくりと起き上がって目をこすり、
思いっきり体を縦に伸ばした。

朝日が目に浸透してくるにつれてだんだん意識がはっきりしてくる。


(―ああ。悠眞の家だ。)


確か昨日は、物凄く酔って眠気に襲われてしまったのだった。
ベッドに自分で入った記憶が無いため、
おそらく悠眞が運んでくれたのだろう。

考えもなしに
突然止めてくれと言ったけれど、
悠眞が布団を持っていてよかった。

気温的に雑魚寝をしても良いとは思うが
おそらくそんなこと悠眞は許さない。
自分が床やソファで寝ると言いだすか、一緒に寝ようなどと言ってくるだろう。



(―あいつ……)


昨日の出来事を思い出して顔が熱くなる。
なんだかまだその感触が残っている気がして、瑞希は唇に手を当てた。

実のところ瑞希の昨日の夜に関する記憶は曖昧だ。
悠眞とぎこちなくなってから飲みまくったところまでは鮮明に記憶しているが、
その先からは酒が入ったせいかぼんやりしている。

しかし
自分が「泊めてくれ」と頼んだことと
悠眞が口づけてきたことは比較的はっきりと覚えていた。

あれは夢でもなんでもないはずだ。
実際、瑞希はこうして布団を貸してもらっているのだから。


(―なんであんなことになったんだ…?)


瑞希の頭はまた混乱を始める。


(―キスの前に髪を触ったってことは、
やっぱり何か慰めようとしてくれたのか?)

悠眞は優しい。
昔から、瑞希が落ち込んでいる時や悲しんでいるときは
自分のことを放り出してまでどうにかしようとしてくれる。

瑞希が泣きつけばそれを宥め、優しい言葉をかけた。
その時は必ず、そっと髪を触ってから頭をなでる。


昨日のキスはもしかしたらそれの延長―?


しかし、自分がそんなに情けない顔をしていた自覚は無いし、
たとえ無意識に心配をかけるような顔をしていても
慰めるためだけにあそこまでやる必要はないのではないか。


(―もしくは…オレがなんかやった…とか?)


覚えていないだけで何かしてしまったのかもしれない。
瑞希はそうも思い始めた。
あの時は相当酔っていたし、眠気で意識も途切れ途切れだった。
何か思いもよらない言動を取っていてもおかしくない。

(―でも、キスするほどのことって何だ…?)

もう全くわからない。
昨日の自分がしてしまったことも、悠眞の考えていることも。


上半身だけ起き上がったまま
ぐちゃぐちゃの頭であれこれ考えているうちに
ふと、コーヒーの良い香りがした。


(―腹減った…)


昨日カレーを食べ過ぎた反動もあってか、
瑞希の空腹感は何週間前かに味わったそれと近しい。

ぐうぅ、と
瑞希の腹がまぬけな音を立てた。


―――――――――


「あ、おはよう瑞希。」

キッチンに行くと悠眞が朝食を作っていた。

「ちょうど良かった。今起こしに行くところだったんだよ。
あ、パン何枚食べる?」

「え?えっと…2枚。」


あまりにもいつも通りの調子の悠眞に拍子抜けしてしまった。
まさか昨日のは夢だったとでもいうのだろうか。

じゃあこの唇の感触は自分の妄想なのか?
しかもそんな夢を見るなんて、自分は何を考えているのだろう。

またしても頭の中がこんがらがっていく気がした。

ともかく支度をしよう、と
洗面所に向かう。






顔を洗いに行って帰ってくると、
朝食はもう出来上がっていた。


「そういえば、もうアスパラは食べれるようになったの?」

皿の上のベーコンエッグに添えられたそれを見て
悠眞が無邪気に尋ねてくる。

「いや、まぁ苦手だけど…出されりゃ食うよ。」

椅子を引いて座りながらそう答えた。

やはり悠眞はいつも通りだ。
瑞希の胸がもやもやとして消化不良を訴える。
やはり何もなかったと考えるべきだろうか…。

しかしどう考えてもあの感覚はリアル過ぎる。

はっきりしないのは好きじゃない。
瑞希は意を決して直接聞いてみることにした。


「なぁ、あのさ。」

「ん?」

悠眞がバターを塗り途中のパンから目を上げる。

「昨日の夜、なんだけどさ。
その…。オレ…なんかお前に…変な事とか…した?」

おずおずと質問すると、
悠眞がバタベラを皿にかちゃりと置く。
その音に瑞希は少しビクッとしてしまった。

「…変なこと?」

真顔でそう呟く悠眞は、見かけはいつも通りだけれど
オーラが何かピリピリしている気がする。


「もしかして酔ってて覚えてない、とか?」


悠眞は瑞希の目を射抜くように見つめながら低い声で尋ねる。
その視線に全身がわなないた。


「いや、そうじゃなくて。
ただオレあんまりにも酔ってたし、お前も滅茶苦茶フツーに接してくるしで
なんかアレってオレの夢だったのかなー…なんて思って。
でも実際 何かしちゃってたんなら、その、謝っとくべきかと思って。」

視線から逃げたいのに、何故か逃げられない。
瑞希は今まさに蛇に睨まれた蛙状態だ。


「…瑞希は悪くないよ。」


さんざん人のことを見つめておきながら
突然 ふい、と顔をそむけた悠眞が言った。

「悪くない?なにが?」

「……変な事したのは俺の方だから。
瑞希が酔って抵抗できないのを良いことにあんなこと…。」

「抵抗って…」

瑞希の記憶はやはり夢などではなかったようだ。

それじゃああの感触は、今 目の前にいるこの悠眞の唇が触れたことで…
そんなことを考えたら顔が熱くなってきてしまった。


「本当にごめん。」


赤く染まった頬を見られないようにと俯いていたら、急に謝罪の言葉が降ってきた。
トーンの変わった申し訳なさそうな声に驚いて顔を上げると、
悠眞がこちらに向かって頭を下げている。
かすかにしか見えないけれど、その表情は酷く辛そうだ。

「なんで謝るんだよ?」

「だって、気持ち悪かったでしょ?男にあんなことされて。」

「は?」

(―「気持ち悪い」……?)

瑞希はその言葉を聞いて、
内心で全く「気持ち悪い」と思っていないことに気がついた。

確かにかなりビックリしたし、衝撃的だったけれど、
不快だとは全く思わなかった。


「いや…オレ、全然気持ち悪いとか思わなかったから。」

瑞希が漏らした心の声に、悠眞は一瞬驚いた顔をした。
しかしながらやや沈黙があった後、遠慮がちにニコリと笑う。

「瑞希は優しいね。ありがと。」

口は笑っているが目が笑っていない。
おそらく今の瑞希の言葉を気を使って言ったものだと取ったのだろう。

そうじゃない、と言おうとしたその時、
悠眞がポツリと呟いた。

「悪酔いしたんだ。ごめん。」

「…へ?」

唐突な弁解に、思わず間抜けな声が出てしまった。

「悪酔いって…お前が?」

「うん。そう。…だから、本当にごめん。以後気をつける。」


キスをしてしまったのは酔っていたから―…

(―じゃあオレじゃなくてもああいう事してたってことか…)

そう思ったら、
じわじわと怒りが込み上げてきた。

(―何でオレこんなにイライラしてんだ…?)

考えれば考える程頭の中がぐるぐるしていく。
怒りの矛先はどこに向いているのか。それすらもわからない。



「…ごちそうさまっ。旨かった。」

カシャン、という金属音を立ててフォークを置いた。

「あ、うん。」

悠眞は目を合わせずに俯いたまま返事をする。

「じゃ、オレ今日は帰るから。色々とあんがとな。また誘ってくれ。」

感情がこもっていないのは自覚していた。
しかしどんなにセリフ染みていてもそう言うしかない。
今自分の気持ちに正直に行動すると、
何を言い出してしまうかわからなかった。




カバンを手に玄関へ向かう。
その後ろを小さくしょげかえった悠眞がついてきた。

靴を履こうと屈むと、横から靴ベラを手渡される。

するりと靴に足を入れ、靴ベラを返すと
悠眞がもう一度「ごめん」と言った。


泣きそうな声だった。


瑞希はぎょっとして悠眞の方に向き直る。


「……ごめん。」


うわごとのように呟くそれは
酷く瑞希の胸を締め付けた。


悠眞が唇を噛む。
おそらく涙をこらえているのだろう。


「悠眞…?」


瑞希が名前を呼ぶと、悠眞の目からはとうとう雫が零れ落ちた。


瑞希は少し戸惑ってから、そっと手を伸ばした。
さらさらと流れる黒髪に触れ、ぽんぽんと頭をたたき、
最後にくしゃくしゃと撫でてやる。

「いいよ。わかったから。そんなに気にすんな。」

それはさっきのセリフ染みたそれとは全く違う、
正真正銘の本心から出た言葉だ。
悠眞の涙を見たら、さっきまでのいら立ちなどが
嘘のように忘れ去られてしまった。


「気に…すんな…って…」


涙声で復唱する悠眞の頭を
良いから黙れと言わんばかりに激しくかき混ぜる。

「あのな、オレは別にお前と仲悪くなりに遊びに来たわけじゃないんだ。
その…まぁ、そりゃあビックリしたけど。でもホントにそれだけ。」

その言葉が呼び水となったかのように、
悠眞の涙がぼろぼろと溢れ出てくる。

「あーもう、馬鹿。
大の大人が んなことで泣くなよ。」

うん、ごめん。今すぐ止めるから、と
震える声でそう言うが、一向に止まる気配が無い。

「…まだ何か気になることでもあるのか?」

カバンの中からハンドタオルを取り出して悠眞の涙を拭いながらそう尋ねてみると、
ぐちゃぐちゃの顔の悠眞がかすかに頷くのが見えた。

「なに?言ってみ?」

「き…嫌い…」

「え?『嫌い』?オレが?」

「違う。そうじゃない…
…その…嫌いになられたら…って。」

「あー、はいはい。
『表面上は気にしてないようにしてるけど実際心の中で嫌われてたら…』
とかってこと?」

言葉もなくコクコクと悠眞が頷く。
瑞希は間髪いれずにその頭を軽くはたいた。

「ばーか。だからさっきから言ってんだろ。
オレはお前のこと嫌いだとかは一切思ってない。
さっきそっけない態度を取ったのは、その、色々と考えてたからで、
お前のことを嫌いになったってわけじゃないんだ。」

本当に?という問いかけに首を縦に振る。

「大体オレがお前を嫌いになるとかありえねーだろーが。
何年友達やってると思ってんだよ。」

むしろ嫌われるなら自分の方だ。
いつもいつも醜態を晒してばっかりで、
よく愛想を尽かされないよなと思う時が今まで何度もあった。

「確かに何年も会ってなかったけど、
オレはその間ずっとお前とはまだ友達だって思ってたぜ?」

悠眞には瑞希の言葉が相当効いたらしい。
とめどなく溢れる涙をハンカチで押えて声を殺して俯いている。

(―まったく。小学生みてーだな…。)

そう言えば昨日は瑞希の方が小学生のようだったというのに
いつの間にか立場が逆転しているな、と瑞希は思った。

出会ったあの頃から18年以上経つ。
しかしどうやら自分も悠眞も、
お互いの前では当時とあんまり変われずにいるようだ。

それが良いことなのか悪い事なのかは、わからないけれど。



(―やっぱり中身は全然変わらね―のな…)



心の中でそう呟いた。





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