Ep.03勿忘草色の霧雨



今、熊谷瑞希の気分は最悪だ。


どこに怒りの矛先を向けたらよいのかわからない
このむしゃくしゃした感情は、
おそらく疲労と空腹とストレスから来ている。


ことの始まりは
早朝に鳴り響いた一本の電話だった。

ナンバーディスプレイに表示されたその番号は
瑞希の勤めている中学校のものだ。

寝ぼけ眼で受話器を取ると
何か焦ったような声が聞こえてくる。
人手が足りなくて困っているから助けてくれという内容だった。

その日は特に用事もなかったのでそれに応じると
電話の相手は本当に助かると言って、
ありがとうを何度も繰り返してから
丁寧に電話を切った。




夏休みの学校は結構賑やかだった。

運動部の掛け声や管弦楽部の演奏が耳に響く。



夏休みといってもいつもの放課後とあんまり変わらないよな、
なんて思っていると
同僚の教師が職員室の窓から身を乗り出しているのが目に入った。
なんだか急いでくれと言っているようだ。

少し早足でその教師のもとへ行くと、
早速仕事を頼まれた。
体育祭の応援団が視聴覚室でミーティングと練習をしているから
それを見てやってくれとのことだった。

そんなものお安い御用だ、と
指定された場所に行き監督をする。


生徒達が勝手にあれやこれやと決めていくので
瑞希はそれを眺めていることしかできなかった。
なんだか本当に「監督官」という言葉が似合う。

見ているだけというのもなかなか飽きて来るものだな、と思い始めていたら
瑞希を呼ぶ校内放送があった。


どうしたのだろうと思って
後を生徒に任せて職員室に戻ると
今度は歳のいった古株の教師が
生徒のために買い出しに行ってくれないかと頼んできた。

今度の体育祭で組ごとに旗を作る計画があるのだが
白組の製作グループから水性ペンキが切れたので買ってきて欲しいと言われたのだそうだ。


白組は自分の配属されている組だし、
生徒を活動時間中に学校外に出すのは禁じられている。
おまけに他の白組系列の先生は皆
徒歩か自転車で通勤しているため、
車を持っているのは自分しかいなかった。

内心、面倒だなと思ったが
笑顔でそれを引き受ける。

美術や建築に興味が無い瑞希が水性ペンキの種類を見分けられるはずもなく、
学校に何度も連絡をして確認をし、やっとの思いで2パック買った。



瑞希がペンキを買って学校へ戻ってくると、
なにやら校庭が騒がしい。

何かあったのかと顔を出すと、
生徒の輪の中心で誰かが倒れている。

驚いてその輪に飛び込み、中心にいる人物を見て更に驚いた。
倒れていたのは体育科の教員だったのだ。

生徒の話によれば、
この教師は1時間以上も立ちっぱなしの叫びっぱなしで練習を監督していたという。
そしてサボった部員に向かって雷を落としたその瞬間、
崩れるように倒れてしまったらしい。

おそらくこの炎天下の中
水分もろくに取らずにいたせいでの熱中症と、
怒りで頭に血が上ったことのダブルパンチで卒倒したのだろう。

急いでケータイを取りだして救急車を呼びつつ、
軽くパニックに陥っている部員達をなだめる。

5分と待たずに救急車は到着した。
運動部員が卒倒するまでの状態を説明するのを手伝ってやる。
彼はしどろもどろになりながらもなんとか状況を伝えきったようだった。


救急車がサイレンを鳴らしながら遠ざかっていくのを見送って
生徒達に休憩と水分は適度に取るように指導してから、
瑞希は美術室にペンキを届けに向かった。


今日はなんだかやけに忙しいな、なんて思っていると
瑞希がドアを開けるより早くドアが開く。

もう。先生遅いよ、と詰られた。

笑顔で謝ってペンキを渡し、視聴覚室に戻ろうかと足を向けたその時、
ペンキを受け取った生徒がおずおずと
人手が足りないから手伝ってくれないかと頼みこんできた。

明日から美術室が使えなくなるため
今日旗を完成しなくてはならないのだが、
そんな時に限って2人も夏風邪をひいて欠席したらしい。

そういうことなら仕方ない。
それに応援団の練習を見ているよりもこっちの方が格段にやりがいがありそうだ。

そう思って手伝うことにしたのだが、
これがなかなかの重労働だった。


まず、旗のサイズが大きいため
一つ一つの文字も必然的に大きくなっていて塗る面積が多い。

そして速乾性のペンキを買ってこなかったため乾きが悪いうえに
外側から塗り始めてしまったので、中心部を塗るのに大変苦労した。
変な体勢になりながら刷毛を滑らせていたせいで背中と腹筋が痛くなった。


体力を使い果たして職員室に戻ると、
すでに時刻は15時を回っていた。

体が空腹を訴えてきたので遅めの昼食を取ることにする。

コンビニで買ってきた鮭握りをむしゃむしゃと食べていると
音楽室の方角から演奏が聞こえてきた。

これは何という曲なのだろうか。
夏休みに入る前からずっと練習している気がする。
最初のころよりもバスパートがしっかりしてすごく聴きやすくなったと思う。
…そんなに音楽に精通しているというわけではないので、あくまで個人的な意見だが。


重なるトランペットとバイオリンの音に耳を傾けていると、
ポケットのケータイが音を立てる。

しまった。マナーモードにし忘れた。
などと思いながらケータイを開くと
ディスプレイには「藤井悠眞」の4文字。

瑞希はだらけきっていた体を立て直しながら通話ボタンを押した。

―もしもし瑞希?今いい?

電話口の悠眞の低い声が耳にくすぐったい。

電話は遊びの誘いだった。
珍しく早くバイトが終わったから今からどこかに行かないか、
と優しい口調で誘われた。


しかし残念ながら瑞希の仕事は終わっていなかった。
午後にはまだ英語のスピーチコンテストの練習の手伝いが入っている。

夕方以降なら大丈夫かもしれないと言うと、
じゃあ晩御飯をどこかで一緒に食べないかと言われた。

瑞希はそれを了承し、
ぱちん、と音を立ててケータイを閉じる。


実のところこの前悠眞に再会した日から一週間、
瑞希はまた会って話がしたいとずっと思っていた。
積もる話がたくさんあったし
それに、なんだかわからないけれど悠眞の顔を見るとほっとする。

だからこの誘いは瑞希にとってかなり嬉しかった。



にもかかわらず
世の中なかなか上手くいかないもので、

コンテストの練習が終わって帰宅しようとした瑞希は
校内で一番怖いと怖れられている鬼教師に捕まってしまい、
更に4つほど仕事を押し付けられてしまったのだ。

おかげで帰宅時間は大いに遅れ、
悠眞に遅くなったことを詫びるために電話をかけると
すごく疲れているみたいだから今日はゆっくり休んだ方がいい。
約束はまた今度にしよう、とあっさり言われた。

今度というのはいつになるのだと思い
それじゃあ明日はどうだと尋ねると、
申し訳なさそうにフルで仕事が入っているからと断られてしまった。






…そして、今のこの状態に至るというわけだ。




「あー………もうやだ…。」

誰に向けられたわけでもないその言葉は、
空気にむなしく溶けていく。


瑞希は自宅のソファにぐったりと身を預けると、
ローテーブルの上に置いてある紙の束に目を向けた。

英語のスピーチ原稿の訂正…
これが瑞希の本日最後の仕事なのだ。

しかし今の瑞希は到底英語を読む気になどならない。

3Pの英語長文が5人分。
しかも間違いだらけ。


ふぅっ、とため息をついてソファに横たわった。


(―もういいや。あとでやろう。)


「あとで」というのがいつになるのかは考えないことにする。



こんなところで寝てしまったら
エアコンの当たり過ぎで風邪をひいてしまう…

そうは思うけれど
瑞希の瞼はどんどん重くなっていく。





―あのアホ鬼教師…




意識がなくなる直前に、
瑞希はそんな不平を漏らしていた。


―――――――――――――


「それ、貸してあげるよ。」


目の前の小さな少年がぼそりと呟く。


(―…え?悠眞?)


「うそ、まじで!? いいの!?」


その少年と向かい合っている少年がはしゃぎながら何かを受け取る。


(―ああ。こっちはオレだ…)


どうやら夢を見ているらしい。

しかも、小学校の時の…
悠眞と初めて話した日の夢だ。



(―懐かしい…)




小学校の入学式にうっかり風邪を引いてしまった悠眞は、
登校した時にはすでに波に乗り遅れてしまったようで全然なじめずにいた。

輪に入れないだけならまだしも、
性格が内向的であまりしゃべらないので
そのうち軽くいじめられたりもするようになっていった

…らしい。


「らしい」という言葉をつけたのは、
この話が友達伝いに聞いた不確かな話であるからだ。

実を言うと瑞希はその事実に全く気付いていなかったのである。

「藤井悠眞」という存在自体は知っていたのだが、
自然と目の中には入って来ていなかった。




そんな瑞希が悠眞に興味を持ったのは、
小学校一年生のある日の放課後のことだった。



帰宅しようとランドセルをしょっていると
窓際の席の机の上にあった一冊の本が目に止まった。



(―あ。あれ、近所のにーちゃん家にあったやつだ!)



それは科学雑誌だった。
歴史上の有名な科学者の名前が雑誌名になっている、
なんだかとても難しそうな本。


瑞希は以前それを遊び相手になってもらっている
近所のお兄さんに見せてもらったことがあった。

文字の方は何が書いてあるのかさっぱりだったけれど、
その挿絵が素晴らしかった。


瑞希は無断でその本を手にとって
ページをぱらぱらとめくり始める。

相変わらず文字という名の暗号は解読できない。

しかし見開きいっぱいに描かれた太陽系の模型図は
吸い込まれてしまいそうなほど壮大で、
瑞希はそれに顔を近づけるなり
夢中でその惑星の色や形を観察し続けた。


瑞希には好きな惑星がある。


いつも全体像は入り切っていないけれど、
画面のはしっこでぎらぎらと光る
真っ赤でとても存在感のあるもの…

また
とても大きくて表面がふうわりとしていて
球の中心から少し外れたところに目のような模様があるもの…

名前すら知らないけれど、
鮮やかに色づけられたその模型図の中のそれらには
瑞希の心を酷く惹きつけるなにかがあった。



「…宇宙、好きなの?」



ふいに聞こえた声に飛び上がる。

声のした方向に目を向けると、
瑞希よりも少し背の低い少年がこちらを見つめていた。

(―あ…こいつたしか…「ふじいゆうま」…って言ったっけ…)


名前は知っていたが顔をまともに見るのは初めてだ。




極めて落ち着いてそこに佇みながら
じっと瑞希の黒眼の奥を覗き込んでくる。


その視線に、瑞希の時間が止まった。


何かが違う、と瑞希は直感的に思う。


自分の周りにいる友達とこの少年は、
間違いなく同い年だし性別だって一緒だ。


でも他の人とは何かが違って思える。


まるで彼の周りだけが世界から切り取られたかのように
異質なもののような。

その存在自体が夢のように儚く、
捕まえないと消えてなくなってしまう幻想のような…。




「興味があるなら、それ、貸してあげるよ。」



ふいに口から滑り出た彼の言葉に、
自分の視線が随分と長い間その少年に釘づけにされていたことに気がつく。


「えっ…うそ、まじで!? いいの!?」


悠眞の言葉の意味を脳内で幾度か反芻し、やっと我に返った瑞希は
嬉しそうにそう返す。

少年は目を合わせないまま
何も言わずに一度だけ首を縦に振った。


「…ありがと…」


科学雑誌を握る瑞希の手が熱っぽくなる。


「…………………。」


「…………………。」


少しの間、沈黙があった。


なにか言わないと、と瑞希は考える。

とりわけ沈黙に耐えられない性格という訳ではないはずなのに、
今この瞬間のこの沈黙は何故か瑞希に焦りを与えた。

だが思考が停止しているようでなにも思いつかない。


すると
瑞希の沈黙を会話の終わりだと判断したのか、
彼は小さく口元で笑ってから立ち去ろうと足を踏み出した。

とっさに、手首を掴んで引き留める。

その反動で がくん、と体を揺らした彼が驚きながらもそっと振り返る様子に
表現の仕様が無い不思議な感情を感じて、
焦りやら嬉しさやら困惑やらで頭の中がぐちゃぐちゃになった瑞希の口から言葉が零れた。



「あのさ、友達になってくれない?」



言ったとたん、
瑞希の顔は火を吹いたように熱く燃えあがる。

実のところ瑞希は
自分から友達になってくれと申しこんだことが短い人生の中で一度もなく、
この時が初めてだったのである。

だから言ってしまってから色々と心配になった。

このタイミングで言うのは少しおかしいのではないだろうか、
もっと上手い申し込みの言葉があったのではないだろうか…


そんなことを考えながら、
ちらりと相手の表情をうかがう。



「…うん。」



ちり、と胸が痛んだ気がした。




かすかに頷く彼の顔には
照れと喜びと驚きが混じり合ったようなものが存在していて、

それが瑞希の脳内に入り込んで全てを占拠し
なんとも形容のし難い感情を溢れさせていった―……




前へ    次へ


ホームへ戻る
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -