Ep.02鉛色の横時雨



「おじゃまします…。」

「あ、うん。上がって上がって。」

書店のバイト中だった悠眞は、瑞希を引き留め
話がしたいので連絡先を教えて、と言った。

するとそれを聞いた瑞希は苦い顔をして笑い、
実はケータイを家に置いてきてしまったから
今日家に来てくれないかと言ってきたのである。

住所が書いてある紙を頼りに悠眞が辿り着いたのは、
6階建てのマンションだった。



瑞希は悠眞を家に上げるなり、
とても嬉しそうに笑いながらお茶と茶菓子を勧めてくる。


「いや〜、まじびっくりした。
あんなところでお前と会うとはね!」


この笑顔…何年ぶりだろうか。


目の前で起きていることが信じられない。
今朝には思いもしなかったことが起きている。

(―まさか瑞希と再会できるなんて…)


熊谷瑞希。
それがこの小動物的雰囲気を持つ男の名前だ。

小学校の時からの友人で、幼なじみと言っていい間柄。

しかし自分、藤井悠眞は
この男に「友人以上の感情」を抱いてしまっている。

いつから瑞希が「友人」から「恋愛対象」に変わってしまったのか、定かではない。
気付いたらもう好きだった…そんな表現しかできない。

もちろんそんなことを瑞希に打ち明けたことなど一度もない。
友人の一歩先へ踏み込もうとしたことで
友人ですらなくなってしまったら…
そう考えると怖くて恐ろしくて言えないのだ。

だったら一生内緒にしたままで
一生そばにいたい。





「悠眞もこのあたりに住んでるのか?」

「えっ…」

思わず顔を見つめてしまっていた悠眞を不思議に思ったのか、
瑞希は首をかしげ顔を覗き込みながら問いかけてきた。

「ああ、うん。
実はちょっと前からこっちに越してきてさ。
あのバイトは一昨日から始めたんだ。」

そうだったのか、と言いながら
瑞希は冷えたアップルティーにガムシロップを入れる。

甘党なのは知っているのだが、
目の前でそんなにガムシロップを入れられると
味を想像して気持ち悪くなってしまう。

そんなに糖分を摂取して色々大丈夫なのだろうか、と
悠馬は内心心配になった。


「あれ、もしかして希美ちゃんも一緒に住んでるの?」

悠眞は壁にかかっている女の子らしい鞄を見ながらそう言った。

「うん、そう。ま、今日はいないけどな。」

「もう高校は夏休みでしょ?部活とか?」

「いやいや、あいつは帰宅部だよ。
昨日から泊まりがけで友達ン家。」

「そっか。じゃあ帰ってきたら希美ちゃんによろしく言っておいてね。」

「あいよ。わかった。」

希美、というのは瑞希の妹だ。
悠眞の記憶では瑞希とは歳が10コ離れているはずである。
瑞希によく似て、活発で人懐っこい性格をしている。

最後に会ったのは、希美が7歳の時だった。
今や高校生というのだから、さぞかし色々変わっているのだろう…。

そんなオヤジ臭いことを考えながらアップルティーに口をつける。


エアコンが効いた瑞希の家は妙に落ち着いた雰囲気を放っていた。

壁は本棚で埋め尽くされているが、本の高さと種類別にきれいに並んでおり
見た目が清々しい。
また洋書が多いためにインテリア効果もあるような気がする。

さりげなくあたりを見渡すと、
部屋はどこもきちんと整頓されていて
「清潔」の二文字がよく似合う印象だった。

加えて
どこかから気持ちを落ち着かせるようなユーカリの香りが
ほのかに香っている。



部屋に心地よさを覚えていた悠眞の頭に
ふと、あることが思い浮かぶ。

そしてそのことを探るかのように
視線をあらゆるものに向けた。


(―そういう気配はない、か…?)

瑞希は茶菓子を開けることに精一杯になっている様子で、
悠眞の視線には微塵も気づかない。



少しの沈黙の後、悠眞は重たい口を開いた。

「なぁ、瑞希?」

「ん?」

「…あの人は、一緒に住んでないの?」

瑞希の肩がぴくりと跳ねた。

「あの人って…?」

「…圭吾さん。」

瑞希の目に動揺が映った。
それを誤魔化すようにストローに口をつける。

「…居ないよ…。」

ストローを離した瑞希の口が
ぽつり、とつぶやく。

「大学卒業と同時に妹を連れて独立したんだ。」

それを聞いて悠眞は
そっか、と気のない返事をしてみせた。


圭吾。熊谷圭吾…。

それは瑞希の父の名前だ。

父といっても再婚のため、血は繋がっていない。

瑞希の母親は男にかなりだらしがない性格で、
瑞希からそういった類の愚痴を聞かされることは多かった。
覚えているだけでも5回は再婚しているはずだ。

悠眞と瑞希が会わなかった間母親がまた再婚をしたかはわからないが、
悠眞の記憶で一番最後の再婚相手がその「熊谷圭吾」だった。

瑞希の母親の相手がとっかえひっかえ変わろうと
悠眞には特に関係の無いことだったが、
この「熊谷圭吾」だけは勝手が違うのだ。




なぜならこの人こそが、
あの時雨の降る日に瑞希を攫っていった張本人なのだから。


―――――――――――





悠眞が熊谷圭吾に初めて出会ったのは、中学2年の時だ。

瑞希の家に誘われて行くと、
玄関には瑞希の靴の他に大人の靴があった。

(―黒い…革靴…?)

不思議に思いながら居間に案内されると、
そこにはその靴によく似合う格好をした男が
ゆったりとソファに腰をかけてこちらを見ていた。

「こんにちは。初めまして。熊谷圭吾っていいます。
…瑞希君のお友達?」

随分と整った顔だ。
まさにシンメトリー。顔の真ん中に鏡を置いて左右対称にしたみたいな…

歳はいくつだろうか。
見た目は結構若く見える。

「あ、はい。藤井悠眞です。初めまして。」

悠眞くん、ね。と
圭吾は名前を復唱する。

まろやかな声だ。
聞き取りやすい声質であるのに、空気に溶けて行ってしまいそうに儚い。

「あのね、昨日からオレの父さんになったんだ。」

にっこりと笑う瑞希の唐突な言葉を聞いて、悠眞は目を剥いた。

「えっ!? また!?
…あっ、いや。…えっと。」

言いきってから
失礼だったかも、と思い直す。

そっと圭吾に目をやったが、
圭吾は特に気にも留めない様子で悠眞の分のお茶を注いでいる。

白い肌に薄紫のワイシャツがよく似合っている。
緩めたネクタイと外れたボタンの奥からちらりと覗く喉元は、
まるでなにかの芸術品のように繊細で艶めかしい。

(―なんでこんな人が瑞希の母さんなんかに捕まったんだ?)

熊谷圭吾は明らかに、
今までの歴代「瑞希の父さん」の中で異質な存在だった。

瑞希の母の好みはとてもわかりやすい。
日に焼けた肌、筋肉の付いた太い腕、厚い胸板。
煙草と酒を好み、声が大きい。
今まで見てきた「瑞希の父さん」は、大体こんな感じの表現で表わせた。

ところがこの熊谷圭吾という人間は全くの正反対だ。


話をしていくうちに色々と打ち解け、圭吾の人柄がわかるにつれて
より一層疑問は深まっていく。

何故この人があの女の人に惚れるのだろう。

中学校2年生の悠眞の目から見ても
瑞希の母親は本当に「どうしようもない」女だった。

男にだらしがないのに加えて、瑞希のことを全然気に掛けない。
おまけに最近は妹まで産んだというのに、そっちの方にも目はくれず
男漁りに夢中のご様子で、
1週間に1回帰ってくれば良いレベルらしい。


瑞希の話によると、どうやらそこに熊谷圭吾が現れたようだ。

詳しい説明は無かったが、
帰ってこない母の代わりに家事や料理をし、
瑞希の話し相手や遊び相手になったり
妹の世話までしているとのことだった。


普通あんまりにも完璧すぎると
逆に嘘臭く見えたり、裏があるのではないだろうかと
疑ってしまうものだろう。

悠眞もその線を疑って探りを入れた。
しかしこの熊谷圭吾はどうやらそういう人種ではないらしかった。
本当に根が良い人のようだ。


基本的に悠眞は
瑞希が大切と思うものは自然と自分にも大切なものに思えてくる。

この熊谷圭吾も例外ではなかった。



…例外ではなかったのだ。




―そう…あの日までは。




――――――――――






その日の天気予報は雨。
季節は秋から冬に変わり始めたところだった。

当時悠眞は高校1年生。
受験では頭の良い瑞希と一緒の学校に行きたくてかなり無理をした。
おかげで合格できたものの、授業には全然ついていけなくなった。

一方の瑞希は学年でも首位だ。
努力をしているのはもちろん知っているけれど、
それでもずるいと思ってしまう。


天気予報は今日も外れたようだった。

補習が終わり帰路についている悠眞の足元に
全くもって水の気配はない。


(―日が短くなってきたな…)

あたりはもう暗い。
ブレザーの裾から入り込む風の冷たさは、冬の到来を告げようとしていた。




(―早く帰らないとまた母さんが怒る…)


そうはわかっていても、今は一人になりたい。


悠眞の頭は今、完全に瑞希で支配されていた。



(―あれってやっぱ、あれだよなぁ…。)




今日悠眞は、瑞希の鎖骨の上あたりに小さなアザを見つけた。
そんな所をどこにどうやったらぶつけるんだ、と問おうと思ったのだが
その言葉が口から出るよりも先に、頭の中で結論が出た。



―キスマーク?



実際に見たことはない。
しかしそんなところを何かにぶつけるというよりかは
キスマークだと思った方が妥当な考えだと思われた。


(―…一体誰が…?)


悠眞は気が気でなくなってしまった。
今日はそのことのおかげで瑞希に変な態度を取ってしまったり、
ぼーっとして色々とミスをしまくってしまったりと散々だ。

…彼女でも出来たのだろうか。

それでも全然おかしくない。瑞希はモテる。


瑞希の童顔はただ可愛いというだけでなく
整っている美しさがある。

しかも性格も外向的で、「クラスの人気者」格だ。

顔良し頭良し性格良し。

これがモテないはずがなかった。


瑞希がストレートなのは知っている。
だから自分が瑞希とどうこうなれるわけないというのも重々承知している。

でもそれならせめて、
友人として恋愛の相談や報告をしてくれてもいいのではないだろうか?

一番の友人だと思っていたのは自分だけで、
瑞希は自分に何もかもを話してくれていると思っていたのは
ただの自惚れだったということなのだろうか。

それが、ちょっと悠眞には腑に落ちなかったのだ。




ため息交じりに交差点で信号を待っていると、
ポケットのケータイが震えた。

(―瑞希からだ。)

悠眞の鼓動が速くなる。
とりあえず第一声を裏返らせないように、と
息を吐いてから通話ボタンを押した。


「もしもし?」

「あ、もしもし悠眞?」

「何したの?」

(―大丈夫だ。普通に話せる。)

「いやあのさ、とっても悪りーんだけどさ…
頼みごとがあってですね…。」

「うん。なに?」

「生物のレポートってさ、明日提出なんだって?」

「…そうだけど?」

「…貸して下さい。」

「え?えっ…と。いや、まあ、いいけど…。」

「けど?けど駄目ってこと?」

「あ、いやそうじゃなくて。
俺のレポート写すのってまずくない?」

「なんで。」

「だって瑞希って鈴木先生のお気に入りだろ?
それがそんな低レベルのレポートを提出したら…。」

「低レベル?お前のが?」

「うん。」

「そんなわけないだろ。お前、こういう実験ものとかってきっちりやるじゃん。
すっげー綿密にデータ取って。」

「そんなことないよ…。」

「あ、でもそうか。ぴったり一緒は流石に気づかれるよな。」

「うん…。」

「じゃあ実験結果持ってる?
それ見てレポートまとめたい。」

「玉ねぎの皮の細胞分裂の実験結果以外はある。
それだけは丁度休んじゃってやってなくて。」

「原形質流動の実験のは?」

「あるよ。」

「まじ!? ホント悪りぃ。貸して?」

「いいよ。」

「あ、今どこ?」

「家に帰ってるところ。
実験結果は家にあるから、一旦帰ってから瑞希の家に届けに行くね。」

「あ、ホント?さんきゅー。そうしてくれると助かる。」

「じゃあまた後で。」

「おう。よろしく!」



ツーツーツー。



無機質な電子音が耳に響いた。
次の瞬間、自分の頬が緩んでいることに気づく。

こういうちょっとしたことで、
いつも舞い上がってしまう自分が恥ずかしい。

瑞希が自分だけを頼ってくる時や優しくしてくれる時…。
褒めてくれたり楽しそうな顔をした時…。

悠眞の胸の真ん中は酷く痛む。

痛いのに、痛くはない矛盾した痛み。


それを感じるたびに
自分の瑞希への感情を思い知らされる。


(―やっぱり、俺は…)


ふと、瑞希の彼女について悩むのはやめよう、そう思った。

きっとそれは今瑞希と会話をしたことで
自分の気持ちを再確認したことで生まれた考えだ。

瑞希が誰と付き合っていても、
自分が瑞希を好きなのは変わらない。

気持ちは変わらないし、変われない。

今の自分にある役目は、瑞希を友人として支えることだ。
瑞希もなにか特別な事情があって言い出せないだけなのかもしれないし…。


そう思うと、一気に気が軽くなった。



すっかり暗くなってしまった大通りを、
帰宅する車が次々と走り抜けていく。

交差点はそのライトで煌々と輝いていた。


――――――――――――


悠眞が瑞希の家に生物の実験結果を届けに行ったのは、
午後20時をまわったくらいだった。

(―ん?あれ?電気付いてない…)

おかしい、と悠眞は思った。
瑞希の家のどの部屋にも明かりが灯っていないのだ。

停電を疑ってはみたが、周りの家は通常営業だ。
どこかへ出かけてしまったのだろうか?

(―行くって言ったのに…なんか急用でもあったかな…?)

仕方なく悠眞は実験結果を郵便ポストに入れることにした。
束ねた紙でポストの入り口を押してストンと中に入れ、
とりあえず報告しておこうとケータイをジーンズのポケットから取り出したその時、
瑞希の家の居間から、瑞希の声がした。


「……………!!」


確かに瑞希の声だ。
しかし遠くて何を言っているのかまで聞こえない。

というか、電気を消して何を…?

(―…まさか、入り巣!?)

音をたてないように、しかしながら急いで足を速める。




「…暴れないで。」

その声を聞いて、悠眞は立ちすくんだ。



(―圭吾…さん…?)



それは間違いなく圭吾の声だった。


(―な、何を…?)


悠眞の足は居間の窓の50p手前に釘付けにされた。
足が動かない。


「…もう、やめようってば…!」

喉から絞り出すような瑞希の声が聞こえたかと思った後、
ガタン、と何かが床に倒れる音がする。



「こ、こんなのおかしいって……っあ!」



瑞希のものとは思えない甘ったるい声に、
悠眞の心臓が大きく一回音を立てた。




「や、め…っ!……んっ!…んんんっ!」



「ちょっとだけ…」


「ちょ、っと、って…!
や…あっ、やっ、やだって!」


「嫌だって言ってる風には見えないのだが?」



「ぃやぁっ…っは、や、あぁっ!」



「何?こっちがいいの?」

「…んっ、あっ…」


「じゃあこっち?」

「い…あっ!…っ、あっ、ああぁ…」


「両方?欲張りだな。」

「だ、だめっ…!だ、あっ、やぁっ!ああぁっ!!」



「…イキそう?」

「んっ!んんっ…!ぅあ…あっ…」



「じゃあ、そろそろ良い?」

「な…ぁ、だ、ダメだって!」


「コレ以外ではイカせてあげない。」


「そん…なっ……あ、ダメッ、ダメ!
…んんっ!! やっ、やぁぁっ!」



「もう少し力抜いて。これじゃ動けない。」



「…む、無理ッ…っあ!」




「こっちに意識を集中してごらん」


「ちょっ、っや!…嫌ッ!」


「嫌、じゃないだろ」




「あっ…ぁっ…はっ…あっ、ぅんっ…
やっ、あっ!あっ!! ぅあっ!!!
…ああぁぁっっ!!!!」





ひっきりなしに上がっていた瑞希の喘ぎ声は、
その瞬間にぷっつりと途切れた。






ふと、我に返る。




(―と、とにかくここから離れなきゃ…。)



足がガクガクと震えて力が入らない。
まるで自分のものではないみたいだ。


足を交互に動かすけれど、鉛みたいに重い。


耳に響く風切り音がうるさい。


街のライトがぼやけて見える。


悠眞は瑞希の家とも自分の家とも逆の方向に向かって走っていった。
息が切れて膝が笑っても、構わず。


遠く、遠く。


できるだけ遠くへ…






その日のその後のことは覚えていない。





覚えているのは、
身を引き裂かれるような激しい痛みだけ。




―時雨が肩を濡らしていった―…




透明なグラスに入ったアップルティーを、
瑞希はわけもなくストローでかき混ぜている。
その度に、氷がカランカランと軽快な音を立てた。


(―何で俺はあの時…)


悠眞はマシンガントークを繰り広げる瑞希に相槌を打ちながら
左手で頬杖をつく。


―なぜあの時俺は逃げてしまったのだろう…


苦しい声を上げる瑞希を助けることも出来ずに
ただその事実に傷つきおののき、
苦しみから全力で逃げた。

一番苦しかったのは瑞希だというのに。

せめて素知らぬ顔をして
家のチャイムの一つでも鳴らせばよかっただろう。

それすら出来なかった。

今更考えても仕方のないことだとはわかっている。
しかし悔やんでも悔やみきれないのだ。

あの時の自分の愚かさが恨めしい。



「悠眞?聞いてんの?」

「…え。」


瑞希の怪訝な声で我に返った。


「あ、うん。聞いてるよ。」


瑞希が眉間にしわを寄せる。

「んじゃ言ってみろ。」

「ええと…
生徒と休み時間にバスケをして遊んでたら
シュート数でアイス賭けようって事になって、
それで瑞希が結局負けて
ひとつ280円のアイス買わされる羽目になったんでしょ?」

「そうなんだよ!
まぁアイスは丁度安くなってたからひとつ230円だったんだけどな。」

満足そうに瑞希が笑う。

「しかもそんで職員室に戻って5限の準備しようかと思ったら
昼休みにコピーしておくはずだったプリントがあったことに気づいてさぁ。
もう踏んだり蹴ったりだったんだ…。」

「そりゃご愁傷様。」

不機嫌に顔を歪める瑞希を見てくすりと笑った。



(―今更「あの時実は…」なんて切り出せないよなぁ。)

悠眞はあの時逃げ出したせいで
その話を瑞希にするタイミングを完全に失ってしまっていた。

しかもどう切り出すべきかも全くわからなかったので、
瑞希から相談を持ちかけて来ないものかと消極的な態度を取った。
そうしてはや8年が経つ。


(―どうしたらいい?)


実際のところ悠眞の頭の中は突然の再会に混乱している。
聞きたいことがたくさんあるというのに、
言葉は全く出て来なかった。


―――――――――――――


「今日は楽しかったよ。ありがとう。」

「おー。またいつでも来いよ!」

瑞希に見送られて玄関先で靴を履く。

がちゃり、と重たいドアを開くと
湿気が室内に飛び込んできた。

「あ、雨降ってる。」

悠眞はぽつりと呟いた。

そんなに大降りというわけではないが、
小雨というわけでもない。


「あー…じゃあちょっと待って。」

瑞希が玄関の傘立てに手を伸ばす。
そして透明なビニール傘を掴むと、こちらに手渡しながら言った。

「コレ貸すから、差してけよ。」


「え、いや大丈夫だよ。駅近いし。」

「駅出た後どうすんだよ。いいから持ってけ。」

「いや、でも、いつ返しに来れるかわからないから…」

「んなのいつでも良いから。だから…」

何かを言いかけて、瑞希は口を閉じた。

どうしたのだろうと様子をうかがっていると
瑞希は少し黙った後、
ちょっと待ってて、と言い残して部屋の中へと戻ってしまった。

(―…なんだ…?)

不思議に思いながらも言われた通りにしていると、
やがて瑞希が何かを手にして戻ってきた。

「あのさ…。コレ。」

瑞希の手の中にあるのは
黒くて細身のデザインの折り畳み傘だった。

留め具の部分に白い文字で
「YUUMA FUJII」と書いてあるのが
ぼんやりと読み取れた。


悠眞は目を見開く。

まさにあの傘だ。

あの高校2年の秋の終わり、
瑞希がいなくなったあの日に悠眞が貸した折り畳み傘。


悠眞は言葉もなくその傘を見つめていた。

ふいに、瑞希の口が開く。

「あの時、返しそびれちゃってごめん。
本当にちゃんと次の日に返すつもりだったんだ。
…けど…。」

そこで瑞希は口を噤んだ。


悠眞は瑞希がいなくなった原因を推測していた。
そしてその推測はほぼ100%当たっているという自信がある。

それでも
事実を瑞希の口からききたい。


自分からきかないと、その先は聞けそうになかった。


「瑞希…。
返しに来れなかった理由、聞いてもいい?」

悠眞は努めて冷静に尋ね、
また瑞希の様子をうかがう。


ぎゅ、と
傘を持つ瑞希の手に力が入るのが見えた。


「あの日…圭吾さんが…」


擦れるような声が薄く開かれた唇から発せられる。


「あの日圭吾さんが…
……帰るなりドライブに行くって言いだしたんだ…」


「うん…。」


「……制服のままでいいから、って言って…。
…それで…どこに行くのか聞いても教えてくんなくて…。」


瑞希の口は苦しそうに
ぽつりぽつりと言葉を吐き出す。


「オレ、疲れてたから途中で寝ちゃって…
……目が覚めたら全然知らないマンションの前にいたんだ…。」


声が、心なしか震えているように聞こえた。


「『今日からここで暮らす』って言われて…。
オレもう訳わかんなかったんだけど…

学校も転入の手続き取ってあるとか
新居には必要なもの全部揃えてあるとかで…
一回も地元に返してもらえなくて…。」


瑞希が唇をかみしめた。


「全部処分しちゃったらしいんだ。オレのもの。
家にあったもの全部…。」


「………。」


「だからその時オレに残されたのは…
カバンの中にあった教科書と弁当箱とペンケースと…

………この傘だけだった………。」


そう言うなり瑞希は傘を両腕で抱きしめた。


「これじゃあお前に返しに行けない…って思って。
連絡しなきゃと思ってケータイ開いたら、
もうなんか解約してあるとか言われて…。」


「…瑞希…」


「…どうしたらいいのかわからなかった。
…怖くて淋しくて…でも誰も助けてくれなくて…。」


「み…」

どさっ、と瑞希が悠眞の胸に飛び込んだ。


「…ホントにもう会えないと思ってたんだ…オレ…。」

俯いて悠眞の胸に顔をうずめた瑞希は、
どうやら泣いているようだった。

悠眞の手はその泣いている背中を抱きしめようかとしばらく彷徨ったが、
結局は瑞希の柔らかな髪に差し込まれた。


「…お前、ホント変わらないよな。」

涙声で瑞希が呟く。


「オレのこと慰めるとき、いつでも髪触る…」


顔を上げた瑞希と目が合った。

「そうだっけ?」
「そうだ。」

鼻をすすってからにこりと笑う。

「お前、随分外見変わったけど…
中身は全然変わってない。」

その笑顔が酷く悠眞の胸を痛めた。
甘い痛みが体中を駆け巡っていく。


痛みに耐えきれずに
駄目かな、という言葉が口をついて出た。

すると瑞希はくすぐったそうに笑う。



―お前はそのままがいい…―



そう聞こえた気がした。




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