後編06




全身を駆け抜ける大きな衝撃に、樹季は薄く目を開いた。

四肢が末端までビリビリと痺れて力が抜け、左手が焼いたように熱い。
だけど、それだけ。
感覚さえもがいかれてしまったのか。そう考えた途端、右手首のあたりがちり、と痒くなった。
ゆっくりと目を瞬く。
だんだんと視界が明るくなり、そしてやっと気がついた。
自分は線路に落ちてすらいない。確かに右手の鞄は無くなっているようだ。けれど、その目の前では先ほどの電車が平然と速度を落としながらホームに収まろうとしている。左手に目を落とすと、皮膚が赤く火傷になっている。
でも、それだけ。

チリリ。

聞き覚えのある音。それが樹季を正気づける。はっと振り返ると、見覚えのある顔がそこにあった。
「は、玻璃……」
端正で美しい顔立ち。それがくしゃりと歪んで、樹季を睨めつける。

固まっていた頭がようやく動き出した。様々な音が耳殻へと流れ込み、周りの風景が現実味を帯びる。
痒いと感じた右手首に目を落とすと、玻璃の手がそれをしっかりと握り込んでいた。自分の立っているのは、線路ギリギリにある黄色い線の上。
どうやら線路に飛び込む直前に、玻璃が手を引いて引き戻したらしい。そこまで状況がわかったところで、樹季の頭が物を言う。

死ななかったんだ。

我ながら淡白な感想だ。周りはこんなにも騒然としているというのに、当事者の自分はまるで他人事のように平然としている。

気持ちとは裏腹に、体の方は相当緊張していたらしい。ぷつりと糸でも切れたように膝がかくんと折れる。崩れる樹季を抱き留めたのは、あんなにも華奢に見えた玻璃の両腕だった。
「何を、やっているんですか」
厳しい表情の玻璃がこちらを見下ろして、ようやく呟く。
「あと少しで死んでしまったかもしれないんですよ……」
玻璃の腕がガクガクと震えている。重さのせいなのか、それとも。
「……死のうと思ったんだ」
白い息が狭間から滲み出た。
「死なせてくれれば良かったのに」
口元だけで嘲笑う樹季を、玻璃の真っ直ぐな瞳がジリジリと焼く。それを見上げると、僅かに潤みが加わった。けれど雫が落ちる気配はない。
「何があったんですか」
「何もないよ」
「何もない人は飛び込み自殺なんか図りません」
「本当に何もない。……ないから死にたいんだよ」
腕の限界が来たらしく、玻璃は樹季を抱えたままその場にしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか。こんなに弱って、あなたらしくない」
その言葉に、俯いた樹季は乾いた笑いを放つ。
「俺らしい……?俺らしいって何?そんなの君の妄想でしかないだろ」
「そういう物言いをするところから既にです。いつものあなたならそんなこと絶対に」
「だからそれが妄想だって言ってるんだ」
玻璃の言葉を遮って、苛立ちの混じった声を上げた。
「いつもの俺が本当の俺だとでも思ってるの?それならとんだ勘違いだ。こっちが本来の俺だよ。そんなに強い人間じゃない」
冷めた言い方。酷薄な目を向けると、玻璃の当惑した目が逃げる。
「君を前にしても取り繕えないなんて終わってるな。幻滅しただろ?だからもう見捨ててくれていいよ」
手を離してくれないか。
玻璃の腕から抜けながら、そんなことを言う。しかし玻璃の手は樹季の手首を捕らえたまま離さない。
「ああ。君に別れの言葉も無く逝こうとしたのは悪かったよ。でも最後にまた会えたし、もう充分だ。手を…」
解こうと左右に振る。玻璃の白い手は、駄々をこねる子供のように頑なに離れようとしない。
「離してくれ」
「嫌です」
「離せ」
「嫌だ」
「いい加減にしてよ。俺が死にたいって言ってるんだから、君に止める権利なんて有りもしないだろ。君には一切関係ない」
次の瞬間、頬に衝撃が走る。パン、と乾いた音が耳へと届き、左頬がぼうっと熱くなる。やや間があってから、自分が平手打ちをくらったのだと知った。玻璃が、その右手でこの頬を力いっぱい叩いたのだ。

「関係無くなんかない!」
驚きに、玻璃を見上げる。その目からはぼろぼろと大きな雫が零れ落ちていた。
「確かに僕にはあなたを止める権利なんてないのかもしれません。けど、これが我が儘でもいい。それでもあなたが死ぬのだけは嫌だ!」
縋るような、崩れた表情。時の流れさえ忘れるほどのあの美麗さは、涙でぐしゃぐしゃに歪んでしまっていた。

何で君がそんな顔をするんだ。

「僕はあなたの友達ではないのですか。つらいのなら、何故頼ってくれないんです。僕ばかり助けられて、僕もあなたの力になりたいのに」
「……お礼をしようとか、そんな気持ちならいらないよ」
「そうじゃない!」
手首が解放される。次いで両肩をしっかりと掴まれて、真正面から向き合う体勢になった。
「僕はあなたと対等でいたいんです。あなたが僕のことを友達だと言ってくれたその日から、僕を肯定してくれたあの日から、僕の中であなたの存在以上に僕を救ってくれる物はない」
骨が軋むほどに強く力の入る手。相変わらず小刻みに震えている。
「だから僕も、あなたのそういう存在になりたいんです」
伏せた玻璃の目から光る粒が零れ落ち、それがホームに幾つもの染みを作っていく。泣きじゃくるその細い肩が、跳ねるように上下する。
樹季はしばらくの間それをじっと見つめていた。

どうして君がそんなに泣くの。

思うと同時に、右手をゆっくりと持ち上げ玻璃の目元をそっと拭った。
濡れた目が丸く見開かれる。

「……怖いんだよ」
ぽつり、小さく言葉が転がり出た。
「皆から、世の中全部から見離された自分を見るのが怖い」
「そんな…見離すだなんて」
「わからないだろ」
袖口で涙を拭きながらの玻璃の反論を遮る。
「今が大丈夫でも、明日、明後日、明明後日…何が起こるかわからない。わからないけど、きっと自分は捨てられるって、それだけはわかるんだ。だから怖い。それで逃げようってもがいて現実に怯えて、そんなの疲れるばっかりだ。だから断ち切ってしまえばきっと楽になれると思ったんだよ」
せき止めていた、何かが外れた。負の感情がぼろぼろと溢れてしまう。みっともない。そうは思うのに、止め方がちっともわからない。
「それでも止めるの?逃げないで、生きろって言うわけ?」
「……そんな無責任なこと、僕には言えません」
けど、と玻璃は続ける。
「僕はあなたを捨てたりしない。これだけはわかって下さい」
耳へと流れ込むその言葉に息が詰まる。喉まで迫り上がっていた黒いものが、すっと空気に溶けていく気がした。けれど全部は無くならない。
君のその言葉を信じたい。だけど。
「わからないよ」
凍てつく風が、涙で頬に貼りついた玻璃の髪を攫っていく。
「君がいつ心変わりするともわからない。今この瞬間良くったって、もしかしたら明日にでも愛想を尽かすかもしれないじゃないか」
いつの間にこんなにも人を信じられなくなったのか。錆び付いた心が、何もかもを否定していく。
「期待するとさ、その分の反動って凄いんだよ。だから」
「僕は」
強めの口調のそれが、樹季の言葉を遮った。その目にもう涙は浮かんでいないが、酷く苦しげに見える。
「僕は明日、あなたに会いに行きます」
「え?」
唐突な言葉に、樹季は虚を突かれた。
「だから明日までは、絶対に生きていて下さい」
「何を……」
「約束して下さい」
鋭い視線で射抜かれ気圧された樹季は、首をどちらにも振れずに閉口した。すると玻璃が、続きを口にする。
「それで死にたいと思うのなら、僕に直接そう言って下さい」

格好なんかつけなくていいから、思ったこと全部を僕に吐き出して下さい。一人で溜め込んで一人で結論を出さないで、少しは僕を頼って下さい。
そうしたら、僕は僕なりの答えを返してあげられるから。
捨てられるのが怖くて、僕もまた信用出来ないって言うのなら、これから証明してみせるから。
だからお願いです、今すぐには死なないで下さい。

終わりに近づくにつれ小さくなっていく玻璃の声。
それは懇願のようだけれど、加えて車の下で怯える子犬に話しかけるかのような、そんな優しさがあった。

「……他人の君が、どうしてそこまで俺を気にかけるの」
放たれたその疑問は、微かに震えながら白く溶けていく。
「どうしてって」
滲んだ白の先にある玻璃の顔がくしゃりと綻ぶ。

「僕にはあなたが必要だからです」

 他の誰でもない、あなたが。

――欲しかった。その言葉が。ずっと。

頭のどこかで切望していた。焦がれていた。
こんな自分を求めてくれる欲心を。
逃げ惑う自分を、引き留めてくれるほどの熱情を。

生きる価値があるのだと、教えてくれる存在を。

ぼうっと、下の方の景色が滲んだ。
そして迫り上がる透明な膜に、世界はじんわりぼやけていく。

俺の生きる意味は何だろうか。
俺に生きる価値はあるのだろうか。

答えはきっと明日、君が教えてくれる。




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