後編05




今日の空は、まさに快晴という名称がよく似合う。肌を乱暴に撫でる風は刺すように冷たいが、カラッと澄んで爽やかでもある。
ハローワークが入ったビルは、樹季の家の最寄り駅から二つ行った駅前に位置するので、素直に電車を利用することにした。今は丁度昼に差し掛かる時刻で、いつもはぎゅうぎゅうの駅のホームに幾らか余裕があるように見える。

電光掲示板を見上げると、樹季のいる三番線には回送電車が通るとの通知が流れていた。特に急ぐわけでもないし、時間があるならば少し階段から離れたところまで歩こう。どうせなら混雑しない車両がいい。そう考えて足を進める。
普段はどんなに混んでいても階段を降りてすぐの車両に乗るので、ほとんどホームを歩くことなどない。おかげで随分と駅というものは縦長なのだと知った。前から回送電車のランプが見えても、まだ端には辿り着かない。

ふとポケットから携帯を取り出す。画面を見ると、着信が一件とメールが二件届いていた。その全てが玻璃からだ。
昨日返信しなかったことが引っかかるのだろう。どうしたのかと心配する文面になっていた。
まだ返事をする気にはなれなくて、またポケットに戻してしまう。

迫っていた電車が、辺りの空気を無理矢理押し広げながらホームへと滑り込んだ。ぶわりと重苦しい風を正面から受けて、思わず目を眇める。同時に反対側のホームからの、どこか遠いアナウンスが耳に届いた。
『○時○分発の快速○○行きは、人身事故のために遅れが出ております』
ビリビリと低い声があちらこちらに反響して、樹季の耳殻をくすぐる。

人身事故、か。

通勤ラッシュはとうに過ぎているから、ホームで人の波に押し流されて線路に入ってしまったというのは考えにくい。とすると足を滑らせたか、それともやはり自殺だろうか。
そんなことを思いながら周りをきょろと見回す。けれど他の利用者は多少苛立った様子は見せるものの、事故を心配する様子はなかった。
ただ携帯を片手に佇んでいたり新聞を広げて眉を寄せていたりするだけ。
それもそうか。所詮は他人事なのだから。

他人事。自分に利益がなければ、他人なんてどうでもいい。人は損得勘定で動いている。そう言っても過言ではない。
そうか。自分は他人にとって利益の無い存在なのだ。だからいつでも、惜しみなく放り出される。

自分は、例えるならば嗅覚を失った犬だ。
危機も悟れず回避も出来ない、鈍く錆び付いた愚かな犬。
特化した特徴が欠けたこの存在は、明らかに利益を損なう。
放り出されるのも無理はない。

特筆するならば、自分は人よりも従順な仮面を被る犬だった。
けれど手放されては意味がない。主人がいなければ、忠誠すら誓えやしない。社会に囚われた男の唯一の取り得さえも、発揮の仕様が無くなってしまった。

主人がいない犬は『野良犬』と呼ぶべきか。
彼らだって、世には沢山いるし各々きちんと生きている。あんな風に生きればいいのかもしれないが、自分はそれにすらなれる気がしない。
この瞬間も、自分の首には枷があるのだ。主人はもういないはずなのに、自由へ向かうとギツリと首が締まる。

見えない首輪と鎖。手綱の先に、居るのは誰なのか。
目を凝らしても見えないはずだ。だっておそらく、鎖を辿った先にいるのは、自分だから。

社会が自分を縛っていたのは事実だろう。けれど会社に辞表を提出したあの瞬間、首輪は外されていたはずだ。
それを拾ってまた付けた。首元を涼しくしていることで周りから野良犬だと判断されたくなかった。自分は飼われる程の価値があるのだと、そう思い込むために首を締めた。

未練がましいにも程がある。
『お前に価値など無い』と、現実がはっきり教えているのに。

ふと、脈絡もなく昨晩のワインを思い出す。
口きりいっぱい、表面張力のみで重力に逆らう頼りない液体。あれは自分の精神状態に酷似している。
少しでも触れられればあっさりと崩れてしまう。だから些細な刺激をも怖がる。
犬の口では、ワインを啜ることも出来はしない。鼻がぶつかり赤い波が立ち、堪えていたものがぶわりと溢れる。
自分では自分を救えない。では誰ならば。
両親?兄弟?恋人?…どれも自分にはいない。
ならば残されたのは他人だけ。けれどただの他人が、落ちぶれた今の自分に手を差し伸べてくれるのか。その可能性は皆無だ。

朝から晩まで零れてはいけないと気を張って、夜を跨いで次の日も同じ。それの繰り返しだ。だからいつでも心は忙しい。自己防衛を怠るなとうるさい。
傷つきたくないと、傷つきながらそれに気づかないフリをしてまで自分を守り続けることに、何の意味があるというのだろう。

三番線に電車。そんなアナウンスが聞こえる。
線路を辿って遠くに視線を投げると、微かに光る二つのランプが見えた。それはじっくりと近づいて大きくなっていく。

嵐の前の静けさのごとく、しん、と風が止んだ。
研ぎ澄まされた空間の中、樹季の耳が捉えるのは、車輪が鉄を擦る音と、嘘のように規則的な鼓動。

こんなにも胸が苦しいのは、この心臓が脈を打つからなのか。

近づく電車が、風をどんどん圧縮する。

苦しんだ先には、もうきっと何もない。

背後の空気が鉄塊の切っ先に吸い込まれていく。

ならば、楽になりたい。
馬鹿みたいな期待すら出来ない程に、遠いところへ行きたい。


もう疲れた。


目を瞑る。右足を踏み出す。攫われるように、体が風に乗る。
右へ傾く。倒れそうになる。けれど、風圧がそれを許さない。
右手に衝撃。鞄が跳ね飛ぶ。
吸い込まれていく。体だけでなく、頭の中身までも。全て。

ああ、これでやっと終わりにできる。







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