後編04



樹季は携帯をソファへと投げ出し、僅かに震えるぎこちない手でグラスをこちらへ引き寄せた。栓を抜いたボトルを傾け、足の長い透明なそれに注がれる澄んだワインレッドを見つめる。

何をそんなに動揺する必要がある。
いつかはこうなるだろうと、むしろそうなることを願ってきたはずなのに。この空虚感は何だ。

真奈美を愛してなんかいない。縁を切られたところで、自分にとっては何の不都合もない。むしろ年々会うのが苦痛になっていたのだから、ここは肩の荷が降りたと思うべきはずの場面だろう。
けれど、胸の奥が小さな悲鳴を上げている。
彼女を非難すればいい。金だけが目当ての最悪な女だったのだと、そう卑下してしまえば、自分は被害者になれる。
それが今できないのは、心のどこかで彼女の言葉を肯定している自分がいるからだ。

労働力を捧げて、金を作るだけの生き物。面白みや人格なんて、あって無いに等しい。
だって社会の中で愛想笑いを浮かべる自分は、本当の気持ちを押し殺してそこに立っているのだから。

出る杭は打たれる。そんなこと知ってる。だから頭を下げる。苦しくたって辛くたってそうするしかない。社会という枠組みから一瞬たりとも見放されれば、この国では生きていくことさえままならなくなってしまう。
そうして自分の感情を押さえつけていくうちに、いつしか感情を持つことさえ億劫になっていく。何を触っても感じなくなり、頭はついに物を考えなくなる。
そうなってしまうのは怖い。だから表向きは従順で感情の無い人間を極力演じ、内面の自分はそのままでいたいと思っている。
けれど演技をしているうちに、役と本人との境界線が曖昧になる瞬間がある。虚偽を重ね過ぎて、本当の自己が見えなくなる、そんな時が。

嫌みの無い完璧な笑顔の仮面を被った、あの男は偽物だ。
自分は心まで社会に飼われるような安っぽい人間ではない。
そんな言葉で境界線を確かめる。
けれども、ならばその仮面を外して本当の顔を見せてごらんと、そう囁かれると困る。
仮面の縁に指をかけて、力いっぱい引き剥がそうとしたところで、無意識のうちに癒着したそれは取れない。そして、境界線などもう無いのだと気づいてしまう。

知っているなら、教えて欲しい。

自分って何だ。
個性って何だ。性格って何だ。
特徴って何だ。長所って何だ。価値って何だ。

俺が俺でいる意味って何だ。

「!」
足元に感じるヒヤリとした感覚に正気づく。ふと目を落とすと、グラスから溢れ返ったワインがローテーブルから床へと滴り落ち、豪快な水溜まりを作っていた。手にしたボトルは既に空になっており、丸々一本分を零してしまったのだと知る。
樹季は慌てて近くに放置されていた布巾をひっつかむと、スリッパに侵入しかけている赤い液体をそれでせき止めた。次いで手当たり次第タオルを手繰り寄せて、事を収拾させる。
そして安堵の息を洩らす。

ちら、とグラスに目をやると、ワインロゼは表面張力でかろうじて体裁を保っているといったところだった。少しでも触れれば重力に負けてしまいそうだ。
樹季はそれにそっと口を付け、波立たないよう優しく吸い上げた。

ソファの上の携帯が鈍い音で鳴く。バイブということはメールだ。玻璃だろうか。
そっと画面を開くと、思った通りの名前が表示された。
『明日はお暇ですか?よろしければ連絡を下さい』
明日はハローワークに行く予定だから駄目だ。そう返信するのすら億劫で、樹季は携帯をまたソファへと投げ出す。
玻璃のメールを無視するのは初めてじゃないか?
そんなことを思いながら上品な色合いのワインを一気に流し込んだ。




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