後編03 今日はもう何も考えずに酒でも飲もう。そう思って近くのスーパーでワインを買ってから帰った。 酒は大抵玻璃と呑むことにしている。けれど今日は駄目だ。いま顔を合わせたら弱い部分から全てが崩れ去ってしまいそうだから。年上としてのなけなしのプライドが、それを許すはずもない。玻璃にこんなみっともない姿は見られたくなかった。 ポケットでぬるくなっていた鍵を、凍てつく鍵穴へと差し込む。 ドアを開けば、そこは自分だけの空間。誘わなければ誰も踏み入れないし、そもそも強引に踏み込むメリットすらないだろう。 ふ、と息をついて、樹季はコートをソファの背へと放った。次いでネクタイの結び目を左右に揺らして少し緩める。胸元を撫でる冷気に、どっと解放感が溢れ出した。 さて飲むかとローテーブルにグラスを用意したその時だ。不意にコートの中の携帯が音を立てた。一瞬、玻璃だろうかと考えたけれど、携帯のディスプレイに浮かんでいたのは知ってはいるがあまり目にしない名前だった。 『あ、もしもし?良かった通じて』 「真奈美。どうかしたのか?」 婚約者の真奈美が電話をかけて来たのは、一体何日ぶりだろうか。 『いまどこにいるの?静かみたいだけど、家?』 「ああ。それで、用件は?」 『せっかちね。ちょっとは世間話くらいさせてよ』 「あいにく余裕が無いんだ。だから用があるなら単刀直入に言ってくれ」 今はこの鼻にかかる高慢そうな声など聞きたくもない。出来ることならば一人で音のない世界に閉じこもってしまいたいくらいなのに。 『余裕が無いっていうのは、会社をクビになったから?』 「!」 いつも思うのだが、何故こんなにも情報を手に入れるのが早いのだろう。驚きに声も出ず黙っていると、それを肯定とみなしたらしい真奈美が言葉を続けた。 『今度は何をやらかしたの?』 「俺は何もしてない。前の会社を止めた理由と同じだよ。責任を押し付けられたんだ」 『またその言い訳?』 電話口で大きく溜め息を付いたのか、風切り音が聞こえる。 『前も言ったけど、あなたの証言なんて信用できないのよ。言葉だけならどうとだって言えるもの』 「だから違うんだって言ってるだろ。そもそも証拠って報告書じゃないか。あんなのちょっといじれば誰にだって作れるし、俺の名前に書き換えて罪を被せることだって簡単に」 『前回のはそうってことにしても、今回はやったんでしょ?』 「だからやってないって……」 駄目だ、埒が明かない。それに真奈美にわかって貰ったところで何が変わるわけでもないのだから。 「もういい。クビになったのを確認したかっただけなんだろ?切ってもいいか」 これ以上の話し合いは無駄だ。けれども真奈美は、まだ用件は終わってないのよと引き留めた。 『もっと大事な話があるんだから、まだ切らないで』 「……なに」 『何日か前に、あたし宛ての郵便物が届かなかった?』 「郵便物? ああ、届いたけど」 今すぐ開けてくれないかと言われ、樹季は部屋の隅に追いやっていたそれに手を伸ばす。少し大きめの茶封筒。電話を肩に挟み、手をかけたその中には薄い紙が一枚だけ入っていた。裏返しに取り出したそれをひっくり返し、息を呑む。 『請求書』。一番上にはそう書かれている。下へと目を落とすと、そこにはズラリと文字が続いていて、それを読み進め唖然とした。 それは婚約破棄による経済的損害、精神的損害への損害賠償を請求する旨のものだった。正当な理由もないのに一方的に婚約を破棄された、とも書いてある。 『読んだ?』 「……どういうことなんだ」 文面の下の方に記載された自分の貯蓄と同額程度の請求金額に目を落としながらそう唸る。 『そのまんまよ』 「わけがわからない。いつ婚約を破棄したっていうんだ。それに賠償金って」 『そうね。実際婚約を破棄してくれとは言われてないわ。けどあなた、あたしに隠れて浮気してるでしょ?それは破棄したと取ってもいいんじゃないかと思って』 「は?浮気?俺が?」 『とぼけても駄目よ。ちゃんと調査頼んで写真も押さえてあるんだから。美人な人よね。まだ大学生なんですって?』 大学生、という言葉で、玻璃のことだと気がつく。 「あの人はそんなんじゃない。そもそも男だ」 『はぁ?何その苦しい言い訳。馬鹿にするのも大概にして頂戴』 「馬鹿にしてるのはどっちだよ。調査会社通したんなら大学の登録で性別が割れるはずだろ。そんなことで俺を釣れると思ったら大間違いだ」 図星だったのか、電話の向こうで歯噛みする気配がした。 「別にお前が婚約を破棄したいっていうなら、今すぐしたっていい。けど俺から賠償金は取れないよ。こういうのには婚約指輪とか、そういった証拠がいるんだ。俺はそういうのをあげたためしもないし、それに賠償金は結婚までの費用を返すのが主な目的だから、その点でも無理だろうね。式場の予約もしてないし同棲もしてない。精神的損害っていっても、お前だって色々遊んでた自覚あるだろ?だからとにかくこれは諦めた方がいい。裁判に持ち込んでも金の無駄だ」 早口でそうまくし立てる。本当のことだ。お互いがお互いをどうしたいとも思っていないのならば、無駄な争いは避けるべきだろう。 すっかり黙ってしまった真奈美の次の言葉を待っていると、スピーカーから鋭い舌打ちのような音が聞こえてきた。聞き間違えかと耳を深く押し付けると、いつもより低いトーンの声が這うように鼓膜に届く。 『ほんっと、どこまでも使えない男』 聞き慣れない声に眉をひそめると、次いで信じられない暴言が降りかかった。 『会社クビになるって聞いたから最後に絞り取ってやろうと思ったのにさぁ。馬鹿なくせに変なところインテリだから面倒くさいわ』 「お前、何言って……」 鼻で軽く笑いながら告げられて、唇が小さく波打つ。 『あんた出世しそうだったのにねぇ。なのに何?責任押し付けられて自主退社しますとか言った挙げ句、体壊して、やっと再就職したらまたクビになって。金を稼いで来ないなら、もういいところ何も無いじゃない』 真奈美が自分に恋愛感情も、好意も持っていないのは知っていた。けれどまさかそういう風に見ていただなんて。 「……金が目当てだったのか」 『そうよ』 「じゃあ今まで女性関係にうるさかったのは何だったんだ」 『大事な金づるが他の女に投資しないようにするためかしら』 頭の中がすうっと真っ白になった。目の前がぐにゃりと歪んで、目眩がする。こんな言葉を聞かされて、傷つかないとでも思っているのか。 「なら、俺はもう用無しってことか」 声が震えてしまいそうになる。それをぐっと押さえ込むが、ざっくりとどめを刺された。 『っていうか、あんた自分が金抜きであたしに好かれるほどいい男だと思ってるわけ?生真面目で仕事馬鹿で、つまんないばっかりじゃない。いい加減自覚したら?』 床が抜けたみたいに、体がふっと下へと沈み込む。もうやめてくれ。そんな言葉がこだまする。 「……わかった。もう終わりにしよう。この書類は破棄しておくから、何もなかったことにしよう。もう、二度とお前には会わない」 最後が少し掠れてしまった。まともに息を吸っていなかったから、一息で言うのには無理があったのだ。 聞こえただろうかと様子を窺うと、「あらそう。じゃあさよなら」と、有り得ないほど素っ気なく電話が切れた。 スピーカーから漏れる無機質な電子音。 規則的で静かなその音とは裏腹に、胸は苦しいほど騒いでいた。 前へ 次へ |