Long story
陸拾漆ーー愛情の、
最後に抱きしめられたときのことを、華蓮はもう覚えてはいなかった。
それが愛情というものだということは知っていて、幼い頃は一心にそれを向けられていたことも知っていた。抱きしめられた記憶はもうなくなってしまったけれど、それでもその事実は心の中に確かに残っていた。自分に向けられた愛情を余すことなく、一身に受け止めていた。
しかし両親を失くし、名前を奪われてからというもの、誰かからそれを向けられることはなかった。だから、受け止めることもなかった。そして、それを求めることもしなくなっていた。そうしているうちに、いつの間にか忘れてしまった。だが華蓮は、そのことにすら気付くことはなかった。
次に愛情という感情を思い出した時、華蓮はそれを向ける側になっていた。
向かう先にいた幼い弟に愛情を向けるまでには、少しだけ時間がかかった。しかし一度愛情を向けると、睡蓮はすぐさまその愛情を受け止めた。それはいつかの華蓮と同じであったが、やはり華蓮がそのことに気づくことはなかった。
そうこうしているうちにまた一人、華蓮が愛情を向けた相手がいた。
秋生は睡蓮のようにすぐさまそれを受け取ることはなかったが、ぎこちなく、それでも真っ直ぐにそれを受け取った。それは睡蓮に向けた時よりも大きく、そして深いものだったが、秋生はそれを余すことなく受け取った。
誰かに抱きしめられる感覚を、華蓮はもう忘れてしまっていた。それを思い出させたのは、華蓮が他の誰よりも愛情を向けた秋生だった。
それはかつて、両親から向けられていたものだ。今はもう向ける側になっていたそれを、向けられることになることなんて思いもよらないことだった。
それを求めることすらやめてしまい、あまつさえやめていることにすら気が付いていなかったのだから。
それを思い出させてくれたのは秋生だった。秋生から向けられた愛情を、余すことなく受け止めた。それは、いつかの両親から受けたものと同じだった。
しかし、それをもっと欲しいと思ったのは、初めてのことだった。
「ぷにぷにしてるわねぇ」
「近くで見ると可愛い顔してるよね」
「近くで見なくても可愛い顔してんだろ、なぁ?」
「俺に振るな」
「おい」
「睨まれても全然怖くないわよ!」
「むしろ可愛いんだけど!写メっていい!?」
「俺は毎日こんな愛らしい顔に毎日虐げられていたのか…」
「お前の場合自業自得だろ」
「おい!」
「声も高くてかーわーいーいー!」
「録音しよう録音!はーいなっちゃん、神様仏様侑様崇め奉りますって言って!」
「バカ!もっと俺らも楽しめる他の言葉にしろ!」
「お前ら、いい加減にしないと…」
「調子に乗りやがって……」
「あっ」
「うわっ」
「げっ」
「ほらキレた」
「てめぇら全員そこに直――――あれ?」
バットが出ない。
目の前で好き勝手言いたい放題だった連中に制裁を加えようとした華蓮は、ソファに立ちあがって首を傾げた。
力がいうことを利かないのではない。力の存在を感じない。
「お前それ、亞希が憑く前なんだろ?だからじゃないのか」
「あ」
李月に言われてハッとした。
確かに亞希は、自分が憑くよりも前で――中に入れなかったと言っていた。だから、亞希の力を使うことが出来ないのだ。
おまけに動けるくらいには回復したものの、まだ下がりきっていない熱のせいで普通の力ですら、まともにコントロールが出来ない。
「ちょ、マジで!?じゃあ今の夏は正真正銘の人間ってこと!?」
深月が声を上げて、しゃがんでいた腰を上げた。
そもそも、華蓮は元から人間だ。少なくとも、深月の恋人よりも普通の人間だ。
「な…、何する気だよ……」
「何する気だって!?何でもやりたい放題だろうが!」
「写メ取り放題!!いじくり倒し放題!!」
「着ぐるみ着せて撮影大会よ!!」
「は!?…ちょ…っ」
迫ってくる3つの顔が狂気にしか見えない。一体これのどこが国民的バンドのメンバーだと言いたくなるくらい、とても世にお見せできるような代物ではない。
華蓮は勢いよくソファの背もたれを跨ぎ、目の前の狂気たちから距離を取った。
「力もろく使えないなっちゃんなんて、僕にかかれば一捻りだよね」
「いや捻っちゃだめだろ。丁重に捕まえて差し上げろ!」
「やっ…やめ……」
「やあねぇかーくん、私から逃げられると思っているの?」
それは確かに双月であったが、その様は正に世月そのものだった。
そして普段の華蓮ならともかく、実際にそれを目の当たりにしていた頃の大きさで、更に熱で意識があまりはっきりしていないこの状況下では。
過去の恐怖をフラッシュバックさせるのには十分だった。
「近寄るなッ!」
華蓮は叫び声を上げると、脇目も振らずに扉に向かって走り出した。今すぐこの場から逃げなければ、地獄絵図が待っていると脳が世月危険信号を出している。
しかし残念なことに、華蓮の中に今のように世月危険信号を感じて逃げ切れた記憶はなかった。世月逃避作戦の惨敗記録は、378回のままで更新を止めていた。
「そうはさせるか!」
「邪魔だ退け!!」
こんなところで惨敗記録を更新させてたまるものか。
華蓮はその思いだけで、扉の前に立ちはだかった深月の股の間をするりと潜り抜けて廊下に飛び出した。
「さすがなっちゃん…力が使えなくても基本的運動能力が高い」
「感心してる場合じゃねぇっつの!」
「侑!やっておしまいなさい!」
バタンと言う音がしたかと思うと、まるで華蓮を待ちわびていたかのように玄関の扉が開いた。
急ブレーキをかけるように、一目散に玄関に向かっていた華蓮の足が止まる。
「いっておくけど、僕は本気でいくからね!」
背後から侑の声が聞こえたかと思うと、ドンッという音と共に玄関から夥しい量の木の根のようなものが華蓮に向かって突進してきた。
しかし、華蓮はこれしきのことでは怯まない。世月惨敗記録の更新停滞と共に見ることもなくなったこれも、元は見慣れていた光景だ。力が使えないのは痛いところだが、そんなものがなくても躱し切ることはできる。
「数多の世月地獄を潜り抜けてきたこの身体能力をなめんなよ!」
「いや、1回も潜り抜けたことないでしょ。全部直球で食らってたじゃん」
「うっせぇ!!」
確かにあの頃は一度たりとも潜り抜けたことはない。
だが、現在の華蓮はその頃よりも多くの修羅場を経験してきたのだ。いや…世月地獄に比べたら、修羅場と言うほどのことは何一つなかったように思われる。しかし華蓮はそんなことはないと頭の中で言い聞かせて、迫ってくる木の根をすいすいと潜り抜けてついに玄関の外に繰り出した。
「うわお。全部躱していっちゃったよ。本当に人間?」
「だから感心してる場合じゃねぇっての!」
「うるさいな!文句言ってる暇があったら自分も働きなよ!」
「無能の俺に何をしろと?」
「馬鹿だね!今無能なのはあの子の方でしょ!おまけに、外に出た!」
侑の言葉を聞いた瞬間、華蓮はしまったと思った。
空を見上げてまだ太陽が沈み切っていないのを確認すると、すぐさま再び家の中に戻るために中庭の方に向かう。
「なるほど。そりゃ働き甲斐があるな」
「感心してないでさっさとやりなよ!逃げられちゃうよ!?」
「大丈夫だって。夕方っていうのは影が伸びて一番いい時間帯なんだよなぁ、夏!!」
「ッ!!」
ビキッと、身体の動きが止まった。
自分の意志とは無関係に、身体が勝手に振り向かされる。抵抗しようとしているから、その動きはまるで錆びついた鉄のロボットを無理矢理動かしているようにぎこちなく、今にもぎちぎちと音が出そうだった。
「おー、逃げられないのか!やっぱりただの人間なんだな!」
「深月てめぇ…!」
華蓮の伸びた影の先が地面から吸い上がり、深月の手に握られている。
普段ならばこれくらいすぐに解いて逃げ出せるが、さすがにこれは今の身体能力だけの状態でどうこうなるものではない。
「普段殴られまくってるお返しに、くすぐりまくっちゃおっかなー?」
「うわ、みっきー超悪い顔してる」
「やめておきなさいよ。これから思う存分苛めるんだから」
狂気が楽しそうに笑っている。先ほどから人を普通の人間ではないように吹聴していたが、どちらが普通の人間ではないか。今のその顔を世間に見せて問うてみたい。現に1人は人間ではない上に、あの顔では誰がどう見ても悪役妖怪だ。
仮に百歩譲ったとして、深月の扱いがぞんざいなのは認める。侑に対しての怒り及びその他もろもろの謂れのない罪を着せられ殴られてきたのだから、多少の恨みはしょうがない。しかし他の2人はどうだ。侑なんてむしろ華蓮に迷惑を振りかけている以外に何もしていないし、双月に至ってはここ最近、会話以外には何もした覚えはない。
「私、小学生の頃の水やり当番のこと、まだ根に持っているのよ」
双月が言っているのは多分、小学校低学年くらいの夏休みに水やり当番が一緒になった時のことを言っているのだろう。あの時、ホースに嫌われて全身びしょ濡れになりながらそれと格闘していた双月を助けるでもなく爆笑しながら見ていた。
が、それほど根に持つことか。結果的に華蓮までびしょ濡れになって、一緒に先生に怒られたと言うのに。
「新学期が始まった日よ。倒した植木鉢が生徒指導のもので、放課後に3時間も説教食らったあの日の恨みは忘れないわ!!」
それは華蓮の知らない新情報だった。
だが、倒したのは双月なのだから責任転嫁と言えない気もしない。とはいえ、華蓮がすぐに助け舟を出していればそれは回避できたであろうから、やはり自分が同じ目に遭っても根に持つと思った。
やはりこれは、多少恨まれても仕方がない。
「ちなみに僕は特に恨みはないけど、楽しいことは大好き」
死んでしまえと思った。
しかしそんな華蓮の思いを余所に、深月によって動きを止められた体はいとも簡単に侑によって捕まえられてしまった。
「離せ!!」
まさかこんな年になって、世月逃避作戦の惨敗記録を更新する日が来るなんて思ってもみなかた。それどころか、もう二度と更新することもないだろうと思っていたし、こんな記録が存在していたことも思い返すことすらなかっただろう。
そして、この後自分がどんな地獄絵図をたどるのかということも、思い返すようなことはなかったはずだ。
「もー!ちょっと先輩たち!」
「うわっ!?」
侑に捕まえられていた身体が突然引きはがされ、どこかにいった。
宙に浮いているその感覚が、誰かに抱えられていることだということに気が付いたのは――目の前にその顔を見つけてすぐのことだった。
「あら秋君、何するの?」
「その玩具をこっちに寄越して、秋生君」
「秋生、さっさと寄越せ。その狂犬を躾けるんだから」
玩具だの狂犬だの言いたい放題だ。
何にしても、あの場に舞い戻ったら待っているのは恐怖に満ち溢れた楽しい地獄ライフだろう。
そんなのは絶対に御免だ。
「嫌ですよ!これ以上俺の先輩を苛めないでください!」
どきっとした。
その言葉を発すると同時に秋生はぎゅっと華蓮を抱きしめた。その行動に慣れていないということは、その力加減が強くて苦しいことからも簡単に察することが出来る。
しかし華蓮が秋生にそれを指摘することはなかった。それどころか、周囲の人物たちの存在も無視して、その首に腕を回して顔を埋めた。
誰かに抱きしめられて、その伝わる体温が暖かくて心地よくて。
離さないで欲しいと思ったのは、初めてだった。
「っ……」
しかしそんな心地よさを感じたのも一瞬のことだった。
先ほど一瞬心臓が跳ねたせいか、自分の体温が急激に上昇していくような感覚に囚われた。せっかく首に回した腕の力が抜けていく。頭がふらりと揺れて、身体がのけぞるように傾いた。その体温を離したくないのに、遠くなっていく。
「せっ、先輩…!?」
異変に気が付いた秋生が、傾いた華蓮の体を引き寄せた。
離したくなかった体温が戻ってきた。華蓮は今度こそそれを離すまいと腕を伸ばそうとしたが、それよりも意識が遠のいて行く方が早かった。
[ 1/3 ]
prev |
next |
mokuji
[
しおりを挟む]