Long story


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陸拾伍ーー先ある未来に求めるもの

「はっくしゅん!」

 夏風邪は馬鹿が引くと言う。
 いつのことか、梅雨は夏なのだろうかともんもんと考えたことを思い出した。結果的に、梅雨が夏かどうか吟味しなくても馬鹿であることは分かりきっているとスッパリ言い放たれたのは――もう随分前のことのように感じる。
 あれから流れた時間はどれくらいだったか、それを長いというのか短いというのは分からない。だが…その間に起こったことは、それ以前の数年間とは比べものにならないくらいに濃く、深く、そして重いものだったように思う。
 まるで小学校から中学校にかけての、何の思い出もないような希薄な数年を一気に埋めるように、一生忘れられないような出来事が目白押しだった。
 願うことなら、それがこの先もずっと続けばいいと思う。そしてもっと願うなら、今よりももっといい未来があればいいと…思う。



「……だめだな」

 秋生はぼうっとする頭で食器を洗っていた手を止めた。
 睡蓮には一切火事をするなときつく言われたが、気になってしまったせいでソファで寝ようにも寝られなかった。だから熱で重たくなっている体を起こして、キッチンに立ったのだが。
 あまり回らない頭は食器に集中することが出来ず、このままでは皿を割ってしまいそうだった。秋生は手を洗うと、元々寝転んでいたソファに再び横になった。

「何が駄目なのじゃ」

 頭上に声がして視線を向けると、ソファの肘置きの部分に良狐が座っていた。
 相変わらずふらふらと尻尾を揺らしながら、自分から聞いたくせにあまり興味がなさそうに欠伸を零している。

「最近…よく、高望みするようになったなって思って」

 秋生の中にいる良狐は、その気があれば秋生の感情を感じることができる。
 だから秋生がその深い意味を述べなくても、分かるはずだ。

「確かに…そなたは、望む範囲を弁えていたな。そなたの我儘で祖父が体調を崩した頃からか」
「そんときお前…いなかっただろ」

 まるで知ったような口を利くが、あの時はまだ一人だった。
 ひとりぼっちだった。

「わらわが身を置いておるのはそなたの悪しき記憶の周辺であるからの」

 良狐はそう言い、更に続ける。

「あれから、そなたは自分が多くを望むことを恐れたな。多少の文句や不平は漏らすが……大した我儘を言わなくなり、何も求めなくなり、まるでただ流れるみたいに淡泊に生きておった。わらわは大いに不満じゃが…過去に口出しは出来ぬ」
「そうしてれば…、周りは平和に動くから。じーちゃんの体調は戻ったし、仕事もはかどるようになってお金に余裕が出来たし…だから今、俺は苦労せずにいられるわけだろ?」

 最後まで秋生と一緒にいてくれた、大切な家族。
 秋生が今こうしていられるのは間違いなく祖父のおかげだ。
 ずっと守られていた。
 亡くなって尚、守られて生きていると感じる。

「確かにそうじゃが、果たして祖父はそれを望んでいたであろうかの。そなたが意地の悪い近所の婆に受けていた扱いを知ったら、きっと祟りに来るであろう」
「物騒なこと言うなよ。……あんなの、なんてことない」

 両親がいなくなって、桜生や琉生がいなくなって祖父と秋生の2人だけになった頃。
 祖父は最初のころ、秋生の我儘に付き合って昼間はずっと家にいた。そして夜に仕事に行くという日が続いていていた。
 しかしある日、無理が祟って体調を崩した。その時秋生に「祖父が倒れたのはお前のせいだ」と言ったのもあの人だったように思う。
 それは所謂“近所のおばさん”だった。冷ややかな目でそう言い放たれた時の衝撃を、秋生は今でも鮮明に覚えている。そしてそのおばさんは続けて「お前さえ我慢すれば、みんな幸せになる」と、そう言った。
 だから秋生は、体調が戻った祖父に昼間に仕事に行くように促した。自分は独りでも大丈夫だと言った。
 誤算だったことは、仕事に行くことに決めたものの幼かった秋生を一人残すことを心配した祖父に、あのおばさんが「私が面倒を見てあげる」と持ちかけたことだった。

「あの者は、最初からそれが目的でそなたにあのようなことを言うたのじゃ」
「それは分かってるけど、5歳の子どもにそこまで勘繰れるかよ」

 結果的におばさんは秋生の面倒を見ることになった。表向きはいい顔をして、だから祖父も疑いもなく秋生を預けていた。しかしいざ祖父がいなくなるとその顔は豹変し、まるで日頃自分の家庭内で溜まるストレスを発散するように、まだ幼かった秋生を奴隷のように扱っていた。
 秋生は逆らわなかった。おばさんの言った言葉が真実だと思っていたからだ。そしてその言葉は今でも秋生の頭の中に貼り付いていて――秋生を縛り付けている。

「今は分かっておるのに、どうして尚こだわる必要があるのじゃ」
「さっきも言ったけど……実際に、事は上手く運んだだろ」
「結果論の話をしておるのではないわ。これからの話をしておるのじゃ」
「うるさいな。俺だって割り切れてたらやってるっつの」


 秋生にとって、今が最高だ。


 淡泊だった日常が変わりだしたのは、華蓮に出会ったころからだった。
 華蓮に心霊部に誘われ、一緒に行動するようになって深月と春人に出会った。春人とは一緒のクラスだと知り、そして同じ趣味を持っていたということもあってすぐに打ち解けることができた。小学校でも中学校でもそれなりに友達はいたが、そこまで仲良くなった友達は初めてだった。
 学校に行くのが楽しいと思ったのも初めてで、だからずっとこんな日が続けばいいと思っていた。

 けれど、それだけでは終わらなかった。
 侑に会って世月に会って、交友関係が増えていくと楽しさは倍増した。
 華蓮のことを好きになってからは、楽しいとはまた違った毎日があった。少し優しくされるだけで嬉しくなって、それまでなかった自分の感情は戸惑いながらも新鮮だった。そして華蓮も自分のことを思ってくれていた。

 もしかしたらもう戻ってこないかもしれないと思っていて琉生が戻ってきた。それを追うように、李月と共に桜生が戻ってきた。それは秋生が幼い頃からずっと望んでいたことで、それを実現してくれたのは華蓮だった。
 それだけあれば、秋生は何もいらないと思っていた。淡泊な日々の中で、たった一つだけ望んでいたことが、ずっと離れ離れだった兄弟が戻ってくることだったからだ。

 そしてその望みは叶った。

 だから、何も望むものはない。
 一番幸せな今があれば、それでいい。


「違うの。お前の欲はもう他の所に向いておる」
「うるさい」

 良狐は秋生の望みを――欲と称した。
 確かに…そう言った方が、合っているかもしれない。

「そなたにとって一番望んでいることは、兄のことでも片割れのことでもない」
「うるさい」

 良狐は秋生の胸の内を知っている。
 だから、自分が言っていることが間違っていないと分かっているのだ。

「幼い頃と今は状況が違うのじゃぞ。欲しいものを欲しいと言うても、誰も困らぬ」
「だから言ってるだろ。そうやって割り切れたら…苦労しないって……」

 秋生はソファに置いてあったクッションに顔を埋めた。

 今のままでいい。
 ずっとそう言い聞かせている傍らで、そうじゃないと言っている。

 欲しいものがある。

 本当は、たくさんある。


 しかし秋生は未だに、それを素直に求めることができない。
 何度か求めそうになった気持ちを、知らず知らずのうちに心の奥に押し込んでいる。



「亞希の術をもってしてもその体たらくとは…ほとほと嫌気がさすとはこのことじゃな」
「何だお前さっきから。喧嘩売ってんのか」

 秋生が睨むと、獣の姿だった良狐がくわっと一度欠伸をして次の瞬間には人型になっていた。
 長い髪が秋生の頬を霞む。

「喧嘩を売らせておるのはおぬしじゃ。少々予定外じゃが、ついでに痛い目を見るがよいわ」

 そう言うと良狐は人型の姿のままで秋生の腹の上に降りてきて―――指を噛んだ。
 がりっと、聞くだけで痛そうな音がした。

「痛!!」

 本当に痛かった。


「まだ終わりではないぞ」

 良狐はそう言ってから、ふっと姿を消した。
 人差し指から血が滴っている。
 それを目にした瞬間に、先ほどとは比べものにならないくらいの気怠さが秋生を襲った。
 いつかの肺炎の時よりも頭が痛く、そして寒くて苦しかった。


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