Long story
部室に着くと、華蓮は秋生を備え付けのソファに降ろした。
「ありがとうございます」
秋生の言葉に華蓮は答えない。部室に戻ると、華蓮は全くもっていつも通りだ。ただいつもと違うのは、いつもは自分の特等席以外には座らない華蓮が、秋生の隣に腰を下ろしたということだけだ。
そういう些細な優しさが、秋生には毒でしかない。まるで麻薬のように秋生を捕え、とうとう有罪判決まで引きずり込んでしまった。
「ああ…、あざになってる」
秋生は先ほど握られた腕を見て溜息を吐いた。
あざくらいで済んでよかった。それが正直なところだった。
秋生の心に刻まれた記憶は、そんなものよりも酷い――記憶にとどめておくこともおぞましいような結末を知っている。
「それだけ捕まれて、抵抗もしなかったのか」
「できなかったです…。……頭が真っ赤になって…」
「…さっきもそう言っていたな」
華蓮の言葉に、秋生は頷いた。
「記憶が…2つありました。最初は…誰かに腕を捕まれて……そのまま…助からない記憶でした。でも、先輩が来て、違う記憶が流れてきたんです。今度は、助かる……記憶でした」
どう助かって、どう助からないのか。そこまでは思い出せなかったが、思い出したくもなかった。
ただ、恐怖と安堵、まったく別の感情が2つ、真逆の記憶と共にあった。それだけた確かだ。
「…でも、それが本当に俺の記憶なのか…分からなくて……」
秋生の記憶の中に、あれほどの恐怖を感じた記憶は――少なくともこれまではなかった。同じく、あれほどの安堵を感じた記憶もしかりだ。
「いくつか可能性があるが…」
「2つの記憶にですか……?」
「ああ。例えば…、一般的には2つともお前が防衛機能から忘れていた記憶という可能性が一番言われがちだが。お前の体質としては、これまで憑依させたものの記憶である可能性もある。片方が本当にお前の体験した記憶で、片方が憑依させたやつの記憶かもしれないし、どちらも憑依させた奴の記憶である場合も考えられる」
「組み合わせが沢山ありますね」
「だが、過去に憑依させたものの記憶がそこまで体に根付くという話は聞いたことがない。現在進行形で憑依させているならば別だが」
「じゃあ、忘れている俺の過去……ってことですか。全く心当たりがないんですけど…」
もし本当に秋生の過去が見せた記憶ならば、俗にいう記憶喪失ということになる。記憶喪失になるほどショックを受けた記憶ならば、思い出したくはないと言うのが正直な感想だ。
しかし、もし今の自分の記憶でないならば、早く思い出してすっきりしたい。仮にこれまで憑依させた何かの、自分に関係ないものの記憶だと分かれば、この恐怖も少しはマシになるに違いない。
「ならば、お前の中にいる狐にでも聞いてみることだな」
「良狐に……って、え!?」
華蓮の言葉の違和感に気づくのに遅れ、そのせいで驚くのにも一瞬遅れた。
「先輩…いつから知ってたんすか……」
もしかして睡蓮が言ったのだろうか。いや、そのことを話すならば睡蓮の週末のお料理教室のことも話さなければいけないだろうし、話していたら華蓮に何かしら問われただろう。
「最初に会った時からだ」
なんてことだろう。別にこれといって隠すために何かをしてきたわけではないが、一応、隠していた気でいただけに何となくショックだ。
「分かりやすいですか、俺…?」
まがいなりにも、自分でも気付かないくらい奥底に眠らせているつもりだったのだが。
「そういうわけではないが…」
「?」
「何でもない」
そう言って、華蓮はどこか遠くに視線を寄越した。まるで遠い記憶を、思い越しているかのうだった。
秋生はそれ以上そのことについて華蓮に聞くことはできなかった。遠くを見つめる華蓮の表情が、どことなく切なげに見え――とてもじゃないが、それ以上踏み込める雰囲気ではなかったからだ。
「仮に、片方だけが俺の中にいる狐の記憶だった場合……もう片方は…」
狐の話に踏み込めなくなった秋生は、自分の記憶の話に話題を戻してみる。これで反応がなければもう話しかけるなという合図ということで、秋生としてはその可能性の方が高いだろうと思っていたが、意外にも華蓮はすぐに返してきた。
「他に憑依させた奴の記憶か、忘れている過去かどちらかだ」
「でも、憑依させたやつの可能性は低いんですよね?」
「俺は聞いたことがない」
つまり、もし片方が良狐の記憶だった場合、もう片方は秋生の過去の記憶である可能性が高いということだ。
そもそも秋生はそれほど頻繁に色々な霊を憑依させた記憶はない。いや、覚えていないだけでさせた可能性は十分にあり得るが。どちらにしても華蓮がああ言うのだから、可能性は低いのだろう。
「…良狐………」
自分が感じた記憶が良狐のものなのかどうか確かめようと自分の中に良狐を探した。すると、奥底に潜んでいた良狐がずずず、とどこからともなく秋生の中にあらわれ、反応する。
――わらわではない。
「え?」
――どちらの記憶もわらわのものではない。
「じゃあ、どっちも俺の…?」
――どうじゃろうな。少なくとも、わらわがそなたの中に入ってから、あのような記憶に覚えはない。
心の中に響く声は、そう言うとすうっとまた秋生の奥底に潜んでしまった。これは、これ以上何を聞いても出てこないという意思表示と見て間違いないだろう。
「…どっちも自分の記憶じゃないって言ってます。でも、俺の中に入ってからも覚えがないそうです」
「その狐はいつからお前の中にいる」
「6歳のときからです。……どっちも6歳以前の俺の記憶なんでしょうか」
「さあな」
「生まれて6年足らずで2度も記憶から消し去るような体験をするというのも考えものですよね」
華蓮と話したことで大分震えも治まってきたが、完全になくなったわけではない。
「全部思い出したらどうなるんだろ…」
記憶を思い出した――という領域にも入っていないのに、この状態だ。
もしも全てを思い出したら。
全部を思い出したら、どれほどの恐怖に襲われるのだろう。その恐怖に耐えることができるのだろうか。
「わざわざ思い出す必要もないだろ」
「でも…もし思い出したら」
自分にそのつもりがなくても、今回のように何かのきっかけで思い出すかもしれない。
その時、一体どれほどの恐怖と向き合うことになるのか。想像しただけで、震えが増した。
「心配するな」
「え…?」
「お前が恐怖に呑みこまれそうになったら、俺が助けてやる」
秋生が顔を上げると、華蓮の手が優しく頭を撫でた。
「っ……!!」
取り返しがつかない。
鼓動が早くなって、今にも心臓が爆発してしまいそうだ。
秋生は自分のことを馬鹿だが、それほど鈍くないと思っている。だから、今の自分の気持ちがどんなものか分からないわけではない。
ずっとそうではないと言い聞かせてきたが、もう限界だ。
どんなに否定しても、もう自分自身に言い逃れができない。
「あ…ありがとうございます……」
華蓮をみていていられなくなった秋生は俯いた。かろうじてお礼を言うことはできたが、これ以上は喋れない。これほどまでに頭が混乱している状態では、何を口走ってしまうか分からない。
睡蓮が話してくれた、侑の言葉は決して間違ってはいなかった。
ただ、あの学校の常識と環境に流されたわけではない。それはつまり一時の気の迷いではないということだ。だからこそ、余計に混乱してしまう。
自分は決してそんなことはないと思っていたのに。その思いを見事に裏切って、この爆発しそうな心臓は、高まった感情はしばらく治まりそうにない。そして同時に秋生は、自分は華蓮のことが好きなのだということを、嫌と言うほど自覚させられているのだった。
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mokuji
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