Long story
状況は最悪だ。
絶対に華蓮にだけは見られたくなかったのに、春人の挑発にまんまと乗ってしまい自分から部室に入ってしまった。本当に自分の浅はかさが嫌になる。
「あれは絶対に引いてた…」
ただでさえ、ただでさえ今、秋生は華蓮のことが好きなのかもしれない。いやそうじゃない――と毎日葛藤の日々を繰り広げているのに、これ以上話をこじらせないでほしい。
もうこれ以上考えたくない。今すぐに着替えて家に帰ってしまいたいのに、着替えは春人の手の中だ。また新聞部に戻らなければ気がることすらできない状況だ。しかし、さすがの秋生もこのまま家に帰る勇気など持ち合わせていない。
「ああ…目立ってる……目立ってる…」
なるべく目立たないように歩いているつもりなのに、振り返って何度も見られる。廊下の窓に映る自分が未だに信じられない。自分が女装することなんて今まで考えてもみなかったが、自分でもそこまで違和感がないと感じてしまうのがこれまた最悪だ。それに加えて、いくつもの写真要求といくつもの電話番号。いっそ女に生まれていたら、この状況をもっと素直に喜べたのかもしれない。もっと?では、今の状況でも少しは喜んでいるというのか、いやそんなことはない――先ほどから、こんなこと無限ループだ。
「とりあえず、部室に行こう」
この状況をいち早く打破するには、部室に逃げるのが一番だ。華蓮は新聞部にいたから部室にいないことが分かっている。さらに、あそこでゲームをしていたということは、何か用事があって立ち寄ったわけではなく、今日は既にあそこに腰を下ろしているということだ。つまり、部室が安全地帯ということが確定している。
「おーい、そこのメイドさん!」
「ああ、まただ……」
声を掛けられて振り返る。本当は逃げたいのだが、相手が先輩だった場合に後が面倒だ。さきほどから春人が幾度となくこのコスプレは文化祭のためだと言っていたし、メイド喫茶をするクラスは割れている。そのため、変に逃げて印象を悪くして変に狙われてしまったらクラスに迷惑がかかる。
「おー、本当にかわいい!」
「文句なしの上玉だな!」
人数は3人、明らかに漂う雰囲気が上級生だ。無視しなくてよかった思う反面、面倒だなと顔を顰める。
「何か用ですか?」
思いきり不機嫌を顔に出しながら聞くと、男たちはケタケタと笑い出した。
「おお、煙たがってるんだろうけど、全然迫力ねぇ!」
カッチーン。これだから、童顔で得をした試しがない。秋生の表情に険しさが増した。
「こりゃメイドさんっていうより、メイドちゃんだな!」
「メイドちゃん、俺たちと遊ぼうぜ!」
「お断りします。こらから行くところがありますので」
特にはないのだが。
顔も下の下なら性格も下の下。こんなデリカシーのかけらもないような奴らと一緒に行動するなんてまっぴらごめんだ。せめて華蓮くらい男前になってから出直して来い、目元しか見たことないけど――と、心の中では言えても、実際には口に出せるほどの勇気は持ち合わせていない。
「そんなの、後回しにしとけよ。そんな格好して歩いてるってことは、誰かに声掛けられるの待ってたんだろ?」
「好きでこんな格好をしているわけじゃないっす。急いでいるので、失礼します」
こんなに面倒な奴らなら先輩云々ではなく最初から無視しておけばよかった。秋生は自分の判断につくづく後悔しながら、踵を返した。
「待てよ」
「っ…」
腕を捕まれたせいで危うく転びそうになった。秋生は嫌悪感を通り越して敵対心をむき出しにして振り返る。
「…放してください」
「だから、凄んでも怖くないって」
その眼は、まるで人の話など聞いていないような、自己中心的な眼差し。それは到底、人のそれとは思えないような、悪魔の瞳。
――――無駄だよ。
秋生は知っている。
――――君は私には逆らえない。
そう言って、力でねじ伏せるのだ。
「一緒に来てくれるよね、メイドちゃん」
「――――…っ」
腕を力強く握られた瞬間、秋生の脳裏に恐怖が迸った。
頭が真っ白に――いや、真っ赤な恐怖に埋め尽くされた。心の奥底にしまいこんでいた記憶が顔を出す。
恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖。
体中を支配するその感情が、秋生の思考も言動も何もかもを停止させてしまった。
秋生は知っている。
力でねじ伏せられ、抵抗もむなしく。
どうすることもできない状況で。
泣いても喚いても叫んでも――――――助けは来ない。
「その手を離せ」
「!」
秋生の腕を握っていた力が急に緩くなった。と、同時に目の前にいた悪魔が姿を消した――わけではなく、地面に伏せっていた。他の2人の悪魔も、いつの間には地面にへりくだっている。
その場に立っているのは秋生と、それから。
その姿を目にした瞬間、硬直した体が体温を取り戻すのを感じた。
「……せん…ぱい………」
華蓮は地面に這いつくばっている3人の背中を容赦なく踏みつけると、秋生の声に顔を上げた。
「秋生」
いつもと同じように呼ばれるその名前は、しかしいつもよりトーンが低く。これはまた怒られると確信し、思わず肩をすくめる。
「大丈夫か?」
そう言う華蓮はいつものように、苛立ってはいないようだ。いつかの――憑依させた後、道端にいた低級霊に襲われた時に助けてもらった――あの時と同じ、酷く優しい声だった。
「…っ……」
いつものように怒ってくれれば、大丈夫だと言えるのに。
「…あたまが…まっかで……」
今もまだ残る。頭の中に広がった真っ赤な記憶の破片。悪魔の目に見降ろされ、力にねじ伏せられるあの恐怖。
「真っ赤……?」
「…こわ………く…」
恐怖を口にしようとすると、恐怖が邪魔をして上手く言葉にならない。無意識に体が震える。声も震える。
恐怖、恐怖、恐怖。
華蓮の登場で一瞬身を顰めていた恐怖が、再び脳裏を支配しようとしている。
一度忘れた記憶は簡単には思い出せない。同時に、一度思い出してしまった記憶もまた、簡単には忘れられない。
すべてを思い出したわけではないが、秋生の身体を恐怖で満たすのには十分な記憶の破片だった。
恐怖で視界が滲んでいく。涙が流れるのは、秋生の身体が恐怖を覚えているからだ。顔を出した記憶のかけらが、秋生の身体に刻まれた恐怖を刺激している。
この記憶は、誰の記憶なのか。
「秋生」
華蓮に名を呼ばれ、秋生は恐怖を宿したままの瞳を恐る恐る上げた。
「――――――…」
華蓮と目があった瞬間、風が秋生を包み込んだ。
其の風はどこからきたのか、暖かい風だ。まるで大きな手に包み込まれるような感覚だった。
――――秋生はこの風を知っている。
この風は恐怖から救ってくれる。この風は悪魔から助けてくれる。
秋生はこの風を――ずっと前から知っている。
「うっ…ぐす…ひっ…」
もう大丈夫だ、と。風はそう言って抱きしめてくれた。
本当に、もう大丈夫だった。
ずっと前――それは、誰の記憶なのか。
今度は安堵から涙があふれた。
秋生の中にある記憶は――2つだった。助けられた記憶と、助けなどなかった記憶。
これが一体誰の記憶なのか――秋生には分からない。ただ、その記憶は紛れもなく秋生の中にいて、どちらの記憶も今、顔を覗かせた。
それは、記憶の封印が解ける鍵だ。
秋生はまだ―――――その意味を知らない。
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mokuji
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