Long story
前に、良狐と秋生と迷い込んだときに聞き流していたことを思い出した。
いつ妖怪が襲ってくるか分からない。しかし、土地が腐りきって、人間を遅く活力もないかもしれない。
良狐はそんな風に言っていた。
その読みはきっと当たっていたのだろう。走って進む最中、あちこちでガサガサと何かが動く音がし、前や横を何かが通り過ぎていく。はっきりと見えないが、それでも見えると言うことは霊の類いではなく妖怪の類いなのだろう。
「…瘴気に当てられたか、瘴気に呼ばれたか……」
「やっくん、大丈夫なの?」
腕の中にいた八都がするすると肩を伝って首に巻き付く。垣間見た顔色は蛇の姿だとよく分からないが、少なくとも動けるだけ先ほどよりもマシなのかもしれない。
「…僕より自分の心配をした方がいい。凄い数の妖怪がいる」
「えっ、襲われるの!?」
「今は姉さんの作った道が守ってくれてるから。でも…瘴気に当てられて狂暴になってる奴と、瘴気に引き寄せられたろくでもない奴らばかりだから……そのうち破られる」
「こわいこわいっ」
ガサガサと聞こえる音と、時折視界の隅を通る何か。それがどんな妖怪なのか、気になるようで知りたくはない。
「だから急いで。この森を抜けさえすれば李月が張った結界に…」
「っ?!」
どうっと、背中に突風がぶち当たった。
飛縁魔に背中を押され飛び出した時とは違う、何かとてつもなく悪いものが触れたような 感覚だった。
桜生は完全にバランスを崩し、勢いよく地面に叩きつけられる。そのまま何回か体を横に回転させて地面を転がり、どこかの木に当たってようやく止まった。
「いっ…たぁっ」
一瞬であちこち傷だらけ、服も汚れ、綻んでいる。
「―――やっくん!?」
首に巻き付いていた八都がいないことに気が付いた桜生は、勢い良く立ち上がりながら辺りを見回す。
すぐ近くに、蛇が転がっていた。そして桜生が声をかけると同時に、いつもの李月の幼い姿になって立ち上がった。
「平気。……姉さんの道が」
「え?」
「………っ」
「やっくんっ」
八都がいつもの姿に戻ったのは、たった一瞬だった。
再び蛇になりへたりこむ八都を、桜生は抱えあげる。表情は分からないはずなのに、酷く窶れているように見えた。
早く、李月の元に連れて行かなければ。
「……待って、戻って」
「え?…何言ってるの?」
「今来た道…戻って」
八都はそう言うとするすると桜生の首に巻き付き、背後を向いた。
鱗の色が、黒ずんでいる。
「でもそのままじゃ、やっくんが」
「僕は、大丈夫…」
「でもっ」
「僕は大丈夫だからッ、桜生!!」
八都が大丈夫ではないことは一目瞭然だった。しかし、桜生は踵を返した。
きっとここで前に進もうとしたら、八都は桜生の首から滑り落ちて 這いずってでも戻る。それが分かっていたから、桜生は八都に従うことにした。
森のざわめきが一層大きくなり、どこか不快感を感じる気がする。視界の隅で動く何かとの距離が、さっきよりも近い。
「……出たっ」
日の光を見つけ、そこに一目散に走った。
ついこの間。秋生と良狐と一緒にいた時と全く同じシチュエーションなのに、全く別の空間のように思えた。
開けた場所に、前と同じダムと…そして川が見える。
何かがいた。
とても、大きい――何か。
とても、とてつもなく。恐ろしい。
体か凍りつきそうな程の恐怖を感じた。
見たくないのに、視線を逸らせない。
その恐ろしいものから。
動けない。
そして、視界に入った一本の爪が。
何かを捕らえている。
「―――ひの…、えんま、さん」
大きな爪が、その胴体から抜けた。
真っ赤な血飛沫が。
一面を、覆う。
「ひの、えんま…さんっ」
凍りついた体が、無意識のうちに走り出していた。
けれど、間に合わない。
落ちる。
「―――ッ」
桜生の首から蛇が飛んだ。
一瞬で人の姿になり、そして地面ギリギリの所で受け止める。いつもと違うその姿は、そのまま綺麗に着地した。
「飛縁魔さん!」
すぐに駆けつけた桜生の足元。その辺り一面が、血で溢れ返っていた。
「飛縁魔さん、飛縁魔さんっ!」
血が、血が溢れだす。
真っ白い八都の服が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。止まらない。
その腕に抱えられた体の腹部には、風穴が開いている。
「………うる、さい…子だね…」
うっすらと、瞳が見えた。
「ひの…えん…まさん………」
生きている。
まだ、生きている。
手が震えた。全身が、震えている。
「………かわ…が、水…が…」
桜生から視線だけ川に移した飛縁魔が、消え入りそうな声でそう囁いた。
飛縁魔を貫いていた妖怪が、その川に足を踏み入れようとしている。その水を、汚そうとしている。
「…大丈夫。汚させたりしないよ」
「……おま、え」
「桜生、お願いね」
「あ、やっくん…っ」
飛縁魔を桜生に託すと、八都はすぐさま飛び上がった。
一都や他の蛇たちが亞希や良狐と同じように着物を好む中、明治時代の軍服が一番着心地がいいと言って一人だけその格好をしている。軍服らしからぬその真っ白な色は、李月に合わせてなのか趣味なのか謎だった。
巨大な妖怪の前に立つと、薄ら笑いを浮かべる。
「瘴気に誘われてわざわざ海から上がってきたの?物好きだね」
「………わざわざ喰われに来たのか?」
「いいや、わざわざ殺しに戻ってきたんだよ」
その目は、李月と契約したばかりの頃の一都と似ていた。けれど、全く同じではなかった。
いつの間にかその手には刀が握られていて、斬りかかる。その瞬間に霧のようなものがかかって、その先が見えなくなった。
「………ばか、だね…なん、で…」
「飛縁魔さん、喋っちゃダメ!」
飛縁魔へと視線を向ける。
「……いい、んだ…」
命が、消えていく。
ゆっくりと。
ゆっくりと、消えていく。
「飛縁魔さんっ!」
ついさっき、話したばかりだった。
明日死ぬか、10年生きるか分からないけれど。
気を遣うけれど、それでも何も変わらず。
もっと呼び出すからと。
さっき。
本当に、つい先ほどのことだった。
「……なく、んじゃ…ない、よ」
「でもっ……でもっ」
どうすればいいのだろう。
どうすれば。
――――どうすることも出来ない。
もし、自分に秋生のような力があれば。
救えていたはずなのに。
秋生が良狐を救ったように。
救えていたはずなのに。
自分には何も力がない。
今。
これ程までに、力を欲したとこはない。
ただ一人、助けられたら。
それだけなのに。
自分には力がない。
「……ひの…えんま…さん」
「…さく、らお……わらい、な」
命が消える。
自分には、助けられない。
「……飛縁魔さ…っ…うう――…っ」
笑えない。
笑わないと、そう思うのに。
どうしても、笑えない。
「…しかた…のない、こ…だね」
命が消える。
ゆっくりと、消えていく。
ゆっくりと、静かに。
飛縁魔がすうっと、息を吸う。
そしてそのまま。
「嫌だ…飛縁魔さん、飛縁魔さん……っ、ひの、えんま…さんっ」
すとん、と手が落ちた。
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mokuji
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