Long story
来る。
頭の中に、記憶が流れ込もうとしている。
脳裏に霞む…目の前まで来ているその記憶…同じような記憶を持っているが、これはその記憶ではない。
まだ完全に呼び起こされたわけではないが、それでも分かる。すぐ目の前に、計り知れない恐怖と絶望を…ひしひしと感じる。
ギリギリのところで塞き止められているその記憶は…良狐の記憶だ。
助からなかったーーーその、記憶だ。
来る。迫り来る。
止められない。
「…い……嫌だ…来るな、来るな……!!」
自分のものではない記憶が、自分のことのように全身を覆い尽くそうとする。
迫り来る恐怖と絶望を、どうすることもできない。
その場に踞り頭を押さえても、物凄い速さで押し寄せてくる。
支配ではない。
それは紛れもない事実。
その記憶、現実。
だこらこそ、逃げられない。
「秋生、呑まれるな!秋生!」
「せ…んぱい…でも、もう……」
来ているのだ。
すぐ、目の前まで。
そこに、在る。
「華蓮、その子を捕らえろ!」
「捕…」
「眼を合わせろ、早くッ!」
ほんの近くで交わされる亞希と華蓮の会話が、はるか遠くで聞こえているように感じる。
その場にあるはずの意識が、どこからに持っていかれそうだ。
少しずつ、しかし凄い勢いで…遠ざかる。
そして、現実と交差するように。
迫り来る。
「秋生、俺を見ろ!」
視界が揺れる。
華蓮の言葉に答えたいのに、その瞳を捉えることが出来ない。
「もう……そこに………」
来る。
「――――秋生ッ!」
視線が、合った。
刹那。
「ーーーー……」
ガチャリ、と頭の中で音がした。
「…あ……れ?」
すぐそこまで来てきたものが。
目の前にいたのに。
跡形もなく、消えてなくなった。
「…大丈夫か?」
「先輩……どうして……」
今迫ってきたものは、かつて神が封印した良狐の記憶だ。神が封印を解いてしまえば、もうそれを抑えることは出来ない。
それなのにどうして…、消えてなくなったのか。
ーーー違う、消えたのではない。
まだ微かに脳裏にその残像が残っている。あの記憶は…また再び、奥底に抑え込まれたのだ。
微かに残っていた残像も…こうしている間に、跡形もなく闇に呑まれていった。
「前に封印が解けかけた時に、亞希がその鍵を掛け直した」
気を失っていた秋生は、その時どんなことをしたのかよく知らない。
しかし、華蓮の口から発せられた「鍵」という言葉が頭に強く響いた。
「鍵、を……」
頭の中でガチャリと聞こえた、あの音。
あれは、鍵の掛かる音だったのだ。
「あの時から、封印の主導権は亞希が握っていた…と、いうことだと思う」
どうやら華蓮も確かなことは分からないらしい。
だが、秋生が亞希と繋がっている華蓮を見てその封印の鍵が再び作動したと考えれば納得のいく話だった。
「何を…何を、したのです……?修羅の鬼」
「それはこっちの台詞だッ!」
叫ぶような亞希の声が聞こえ、秋生は華蓮に支えられ立ち上がりながら無意識に視線を移していた。
亞希の爪が、神の首に食い込んでいる。
「良狐の……名を、売っただと…?」
「…ええ。確かにそう言ったはずですが?」
悪びれる様子なく答える神の首に、ぐっと亞希の爪が食い込んだ。
背中しか見えずとも亞希の怒りはひしひしと伝わってくるのに、対する神は何ともないような表情を浮かべている。
「何故そんなことをした?」
「だから、私を裏切ったからと…何度も同じことを言わせないでください」
どこか呆れたように神は言う。
爪が食い込み血が流れているが…まるで、そのことに気がついてもいない様子だ。
「良狐は一度も、貴様を裏切ったことなどない」
「何を戯言を。その証拠が貴方でしょう…修羅の鬼」
突風が吹いた。
おぞましい空気が襲ってくるが、秋生は華蓮に庇ってくれたことでそれを感じることはなかった。
亞希が神から距離を取り、いつの間にか手にしていた華蓮のバットでその空気を振り払う。
その背後にいた良狐は無傷だが…ただその場に、立ち尽くしている。まるで電池の切れたロボットのように、尻尾の一本も全く動かない。
「良狐は一度も、神使の禁を犯してはいない…それは貴様も分かっているはずだ」
その言葉の意味…その内容が、それがどんなものか…秋生は知らない。
それなのに、どうしてだろう。
「神使の禁」というキーワードに反応して、頭の中にその項目が浮かび上がってくる。
弌、神の命に背いてはならない
頭に浮かび上がる項目はきっと、良狐の持っている知識だ。
人の記憶ばかり覗く良狐のそれが不用意に流れ込んでくる…それほどまでに、良狐は意識が不安定になっているということなのか。
弐、無闇に力を行使してはならない
参、万物の抗争には手を出してはならない
肆、殺生をしてはならない
、、、次々と項目が流れるていく。
拾肆、その全てを神に捧げなければならない
拾漆、いかなる場合もその身を穢してはならない
ーーわらわは神を裏切れぬ。
浮かんでくる項目の途中で、良狐の声が響く。それは……かつて、良狐が実際に口にした言葉だ。
その、記憶だ。
「実際に禁を犯したかどうかは関係ありません」
「何…?」
「私の物となったのなら、その身が朽ち果てるまで私だけの物でなければならないのです」
目に見えて溢れだす、その欲深さ。
なんと、醜いことか。
「それが他の誰であれ、契を交わした時点で私への裏切りに値する」
強慾。
そればかりが、溢れ出している。
「……そんな…ことで、」
亞希の、握られた拳が震えている。
それだけではない。
その拳から全身に、全身から外に、空気に……亞希の周り一体が振動しているように見える。
その震えは、激しい憤り。
「そんな身勝手な理由で、貴様は良狐を裏切ったのか……!!」
地面が揺れる。
振り上げられたそれは華蓮がいつも手にしているバットのようだったが…その色は赤黒く、そして言い知れぬ妖気を放っていた。
「私は裏切ったのではない!!今一度、私に忠誠を誓う機会を与えたのだ!!」
振り下ろされたバットを両手で受け止めながら、神は今までになく声を荒げる。
その瞬間、神の周りの空気が刃のような形となって亞希に襲いかかった。
「くっ……!」
それはカレンが瘴気を自在に操っている様に似ていたが、触れずとも近くにいるだけでビリビリと皮膚が痺れるような感覚がした。
亞希は咄嗟にその空気を避けるが、少し擦っただけの腕が焼け爛れたようにどろどろ溶けている。
いつか――カレンが作り出した怪物に怪我を負わされた李月よりも、酷い有様だ。
「…い…っ」
「……先輩…!?」
華蓮が突然苦悶の表情を浮かべる。
その腕から、どす黒い蒸気のようなものが立ち上っていた。
間違いない。
これは……呪詛だ。
亞希の腕が爛れている箇所と全く同じ箇所が、瞬く間に呪詛に蝕まれていく。
前に秋生が荒療治で治した李月のそれがよほど可愛く見えるほどに 、強い念の籠ったもだ。
「モンスター効果でダイレクトアタックか……トラップカードくらい仕掛けさせろ」
「それならミラーフォースですね…って、そんな冗談言ってる場合ですか!」
そんな冗談でも言わないと耐えられないのか、どんどん腕が侵食されている。
このままではすぐに全身に広がってしまう。そうなれば華蓮がどうなってしまうのか、想像も出来ないししたくもない。
そう思いつつ秋生が手を伸ばすと、華蓮は咄嗟に腕を引っ込めた。
「待て、触るな。あんなのもう後免だからな」
「ちょっと抑え込むだけです!」
「待、ッーー!!」
嫌がる華蓮の腕を無理矢理引き、両手で包むように掴む。
侵食を抑制する程度に力を送ると、華蓮の表情が一瞬で苦痛に歪んだ。
「己れ…人間ごときが、神の施しを抑するか」
秋生が呪詛を抑え込んだことに気付いた神が、こちらに視線を向ける。
目が合いそうになるが、亞希がすぐ間に入り視界を遮った。
「貴様こそ己をよく省みろ。呪詛なんぞ持ち出して…よく神だと宣うもんだな」
ゴリッと、亞希の振るったバットが神の頭にのめり込んだ。
その光景を目に胃酸が込み上げるのを感じた秋生は思わずに視線を背ける。その先に垣間見えた良狐は、やはり人形のように微塵も動く気配を見せない。
「……私は神だ。私は絶対だ」
だらだらと血が流れる。
先ほど、亞希の爪が食い込んで流れたそれは人間のものと同じように赤かったように思えたが。たった今、頭から流れているそれはとても赤とは言いがたい色だ。
赤とも、黒とも、茶色とも、紫とも……どの色で表すにしても、その本来の色とはかけ離れて、汚く濁っているように見える。
「私の与えたものは甘んじて受け入れ、いかなる場合もその命に背くことは許されない。……例えそれが、滅びの結末であろうと」
滅びの結末。
それはつまり――死を、意味する。
「…それが、貴様の言う忠誠か?」
亞希の問いに、神はそうだと言わんばかりに笑みを浮かべた。
そして、その視線が良狐に向く。
「お前は…あの社で大人しく朽ちているべきだったのです。そうすれば、私はお前を赦したでしょう」
良狐は、一時も迷いなく。
この神を信じていた。
ただひたすらに、信じていたのに。
信じて、信じて、ずっと待ち続けていたというのに。
それなのに。
たった独りで朽ち果てろと…、死に逝けと言うのか。
「それがどうです?まさか、私の元で朽ちることよりも人と共に生きる道を選ぶとは……裏切りも甚だしいというもの!!」
ぶわっと、神の周りの木々が音をたてて騒ぎ出す。
しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間にはまるで生気を全て吸いとられてしまったかのように枯れ果ててしまった。
「神の物を奪うなど、なんと烏滸がましいことか。だから私は媒体である忌々しき人の子に、制裁を与えることにしたのです」
神の視線がちらとこちらを向く。
秋生は咄嗟にその視線から逃げ、華蓮の腕に隠れるように顔を伏せた。
「しかし、社を出た私には人を一瞬で陥れるほどの力は残っていなかった。だから…生贄
でその力を補ったのです」
生贄。
その言葉を耳にした瞬間、背筋が凍りつきそうな感覚を覚えた。
「………あの、…妖怪は…」
呟く亞希の声が、震えている。
言葉が上手く繋がらないほどに驚愕しているのか。それとも、他の感情が渦巻いているのか。
「ああ、あれを見たのですね?あれは…私のために命を捧げた者の一人ですよ」
神は笑う。
まるで当たり前だと言わんばかりに、笑う。
一体いつから、そのようなことをしていたのか。どれほどの数が、犠牲となったのか。
それは自ら望んだものなのか、それとも…無理矢理そうされたのか。
「しかし、妖怪の生贄というのは得られる力があまり多くない。そのせいで…あの時は第三者の介入を許してしまったのです。そうでなければ……」
神の言葉はそこで唐突に途切れた。
一体何が起きたのかと顔を向けようとすると、それを阻止するかのように華蓮に頭を押さえつけられる。
「………神に…手を掛けるか…修羅の…鬼」
消え入るようなが響く。
先程まで流暢に喋っていた声とは違い、どこか掠れたような、しゃがれたような…それでいて虫の鳴くようにか細い声だ。
しかし、それでもその声色のおぞましさは損なわれてはいない。
「ああ、殺すとも」
亞希は迷いなく、そう言い切った。
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mokuji
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