Long story
あまりに割り切りのできない秋生に、良狐が等々牙を向けた。
欲しいものは欲しいと言っていい。
秋生の一番望んでいたことは家族が戻ってくることで、それはもう手に入った。
もう望まなくていいはずなのに、一つ叶うと、人はまた一つ何かを望む。
それが人間の欲なのだ。
秋生はずっとその欲を抑制してきた。
何も望まないようにしてきた。
それができたのは、それができる環境にあったからだと秋生は思っていた。
祖父は体調を壊し、近所の婆からこき使われ、希薄な学生生活の中で、淡泊に生きてきたからだ。
しかし、その環境が変化した。
色々な変化があったが、一番大きな変化は華蓮と出会ったことだった。
華蓮を他の誰よりも好きになったことだった。
華蓮は優しい。
特に最近、華蓮は優しい。
秋生の中にある大好きな人に優しくされた記憶は、家族のそれだ。
もうほとんど覚えていない遠い記憶だ。しかし、確かに覚えていることもある。
家族に優しさを向けられていた時間は、この上なく幸せな時だった。
秋生の華蓮に対しての好きは、家族へのそれとは違う。
華蓮の秋生への優しさもそれとは違う。
それは秋生の知らなかったものだ。知らなかった感情で、知らなかった優しさだ。
一度知ってしまうと、もう今までのように淡泊に生きていくことは不可能だった。
もっと優しくしてほしい。
その優しさが自分だけのものであってほしい。
ずっと一緒にいてほしい。
離れないでほしい、離さないでほしい。
その全てを、自分だけが独占したいと思った。
酷く痛む頭と、まるで重たくて動かない体と、燃えてしまいそうなほど熱い顔。その全てが秋生の意識を混濁させていた。
だから、自分の中に抑え込んでいたものが制御できなくなっていた。それは実際に行動となって現れ、今まで抑制してきたものが解放された。
自分の欲を制御できないままに、それでもそれをしてしまったことに不安になった。
けれど華蓮はいつかの誰かのように、それを咎めはしなかった。
もう我慢しなくてもいいのだと、そう思った。
「う――…」
寒い。
カレンが近づいて来た時のような寒さではない。しかし体の中は水分という水分が沸騰しているのではないだろうかというくらいに熱い。
四肢にはまるで力が入らないし、動いてみてもあまり動いているような感覚がしない。
今辛うじて声が出ることは確認できた。が、自分の中では普通に会話するくらいの声を出したつもりだったのに、まるで死に際の呻きみたいな声になっていた。
頭は割れるように痛く――多分もうすぐ割れる。きっともう少しで死ぬに違いない。
そんなことを思いながらソファにうずくまっていると、汗ばんだ額に貼り付いた髪がかきあげられた。
「起き上がれるか?」
「はい…」
体を起こすと、ふわふわした感覚を感じた。まるで宙に浮いているように、重心をどこに向けていいのか分からなかった。
これは駄目だ。
そう思った瞬間に案の定、起き上がったはずの体はすぐにふらりと揺れソファに戻ろうとした。
「無理ならそう言え」
「いや…自分ではできてるつもりなんです……」
倒れかけた体は支えられ、ソファへのダイブは免れた。
改めて支えてくれた体に凭れながらそう言うと、華蓮は少し苦笑いを浮かべて溜息を吐いた。
「ほら」
「ありがとうございま―――あっ」
秋生は氷水の入ったコップを受け取ったはずだった。自分ではそのつもりだった。
しかしそれはするりと秋生の手から滑り落ち、そして華蓮によって素早く受け止められた。
「感覚がないのか?」
「うーん……自分では出来てるつもりなんです」
その感覚をどう表現していいのか、秋生には分からなかった。
「自分の思考に体が付いて行ってないってことか」
「あ、それです…」
さすが華蓮だ。
秋生の言いたかったことを的確に表現してくれる。
「ちょっと大人しくしていろよ」
華蓮はそう言うと、なぜか手にしていたコップに入っていた水を口に含んだ。
そしてコップを机の上に置くと、そっと秋生の腕を引いた。
「ん…っ」
触れている唇は暖かいのに、冷たい水が口の中いっぱいに広がった。
喉を通り抜けていくひんやりとした感覚がとても心地よく、その一方で直接伝わる華蓮の体温が心地よさを増幅させた。
ぼうっとした頭の中いっぱいに広がる幸福感を、いつまでも感じていたいと思った。
「はっ…あ……せんぱ…もう1回…」
「水をか?それともキスをか?」
「どっちも……」
この幸福感を離したくなかった。ずっとこのままでいたいと思った。
自分でどっちもと言ったくせに華蓮が再びコップを手に取るのも待ちきれずに、秋生はあまり自由に動かない身を乗り出して顔を寄せた。
「おいっ、秋せ―――…」
ごとん、とコップの倒れる音がした。きっと水が零れてしまっているのだろうが、秋生にはどうでもいいことだった。
半ば無理矢理唇と重ねたにも拘らず、華蓮はすぐに秋生の体を引き寄せてその主導権を奪った。華蓮の唇は暖かくて心地いい。直接伝わる体温を手放したくない。体はこれほどまでに苦しくて仕方がないのに、心はそれ以上ないくらいに幸せで、こんな時間が続くのならば一生このままでもいいと思った。
そう思った次の瞬間。
まるでどこかに吸い寄せられるように唐突に意識が遠のいて行くのを感じた。
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mokuji
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