Long story
亞希と会話していたことと、早く帰らなければという思いが重なったからか。
階段に足を踏み入れる前は13階という数字が途方もないように思えたが、いざ辿り着いてみるとあっという間だった。
階段を登ってすぐ、目の前には稼働しないエレベーターの扉が開かれた状態で存在していた。そこに本来人が乗る箱はなく、顔を覗かせると風が吹く音が聞こえた。そしてその底には、白い塊のようなものがちらほらと転がっているのが見える。その周りにはいくつかの塊がうろうろしているように見えたが、それはとても魂と呼べる代物ではなかった。
「酷い有様だ。人間として死ぬことすら叶わなかったのか」
「とても人間の所業とは思えないな」
「こんなことをする奴を人間と表現していいのか疑問だな」
だからといって、妖怪と一緒にしてほしくもない。亞希はそう言って、エレベーターの底を覗いていた顔を引っ込めた。
いち早く帰りたいが、さすがにこれを放置していくわけにもいかないだろう。きっと届かないだろうが、帰りに呪縛から解放してやることを約束し、華蓮も覗かせていた顔を引っ込めた。
「あっちだ」
亞希が指さす方に向かうと、廊下らしき通路を進んだ奥にひっそりと扉が佇んでいた。
ここにたどり着くまでには至る所に意図の読めない落書きがあり、煙草の吸殻があり、どこから目を出したのか雑草が生えていたりしたが。その扉だけはまるで誰も寄せ付けないように綺麗なままで、その場に不釣り合いな違和感を漂わせていた。綺麗な扉にぐるぐる巻きにされた鎖と南京錠というのが、また違和感を増幅させている。
華蓮は手にバットを握ると、南京錠に目がけて振り下ろした。
バキンッという音と共に南京錠が壊れ、巻かれていた鎖がジャラジャラと音を立てて床に転がった。それを見届けてからバットをしまい、それから鍵の開いた扉に手を掛けた。
「また…お前か……」
今日、その言葉を聞くのは二度目だ。
扉の外側とは打って変わって明るい部屋の中央に、男が立っていた。華蓮に向かって嫌そうに口を開いた男は、その言葉を全力で表現するように顔も顰められた。
しかしそんな男の気色の悪い顰め面よりも、華蓮はその部屋の様子に表情を引きつらせた。
「ここまで行くと病気も超過している」
亞希がそう言って左右を流し見て、嫌悪感をそのまま表情に出した。多分、華蓮も似たような顔をしているに違ない。
部屋の中には、どこの誰かも分からない幼い子どもたちの霊が無数に漂っていた。
それだけではない。部屋の右側には笑っている子どもたちの写真が少し隙間を空け貼り巡らされて、それだけでも嫌悪以外のなにものでもないのに、部屋の左側はもっと酷かった。左側の写真は一人の子どもが数枚ずつまとめられていて、笑っている顔を中心に泣いている顔、怯えている顔、そしてすがるような顔、様々な表情のものがあった。そして最悪だったことは、その写真にいる子どもたちはどれも、目の前を無数に漂っている子どもたちの顔と合致したことだ。
「一体何人の子どもを殺した?」
亞希が問うと、男はニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
カレンの浮かべるそれとは、また違った種類の気色悪さだった。
「殺したのではない。私と共に生きている」
そう言って男は周りに貼られている写真を横流しに見つめながら、嬉しそうに笑った。
男は360度回って元の位置に戻って来たかと思うと、また一段と満足そうな笑みを浮かべた。その気色の悪い視線が、どこかの一点に集中している。
「そして私が一番欲しているのは、あの子だ」
男は華蓮の方を指さした。しかしよくよく見ると、その指先は華蓮よりも少し上の方に向けられていた。男は指さした方向を見つめながら、どこか愛おしそうに、しかし先ほどと同じような気色の悪い笑みを浮かべた。
華蓮は振り返ってその光景を目にした瞬間に、全身を何かがぞわりと駆け抜けていくのを感じた。
広い壁一面に貼り巡らされている、写真。
その全てがーーー秋生だった。
それはどれも、華蓮の知らないような幼い頃の写真ばかりだ。泣いている写真や笑っている写真、さまざまな表情の写真がありとあらゆる角度から撮影されている。全身が写っているものもあれば、顔のアップもあるし、ピンボケをしているものもいくつかあった。
その数は何百枚という数字ではない。何千、何万枚もの秋生が壁一面にいる。そしてそのどの写真にも、秋生以外の人間は誰一人として写っておらず、それが余計に華蓮の背筋を凍りつかせた。
「正気の沙汰じゃない……」
華蓮はあまりに絶句する光景に何の言葉も出せなかった。
しかし亞希が呟くそれを聞いて、正に同感だと思った。
「私は初めて会ったその日からあの子に虜になった。だからあの子に特別に赤い糸を繋いだのに、しかしあの子はいつまで経っても私のところに戻ってきてくれはしなかった……」
華蓮が再び男の方に向き直ると、男はにたにたと笑っていた。
男はそう言って、愛おしそうに秋生の写真を見つめる。
赤い糸。
その言葉を聞いた瞬間に初めて、秋生が口にしている「真っ赤」の正体を知った。
華蓮は秋生が「真っ赤になる」と言っていたそれは恐怖を頭の中で無意識に色として変換しているものだと思っていたが。
それはこの男が秋生を恐怖で支配するための呪いだったのだ。それは徐々に秋生の脳を恐怖で呑みこんで行き、この男の支配下にしてしまうものだ。
しかし良狐が秋生の記憶を封印したことで恐怖に呑みこまれることがなくなってしまったことから、呪いの進行も止まったということだろう。
「私は待った…いつまでも待った……。他の子どもたちを代用にして…あの子が私の所に来てくれるのを」
代用。
それだけのために、こんなにも沢山の子どもが犠牲になったのか。
犠牲になった子どもたちは左側にまとめられている子どもたちに違いない。そして右側の写真は、これから代用とされる予定だった子どもたちということだろう。
「なのにあの子は……私ではない他の人間に惹かれるようになった」
そう言って男は華蓮を睨んだ。
「それもよりにもよって…、最初に私からあの子を奪った奴に!!」
元々お前の物ではない、などと言ったところで無駄だろう。
明らかに話の通じる相手ではない。
「だから私は待つのはやめることしたのに……」
ぶわっと、おびただしい数の写真が宙に舞った。
今まで華蓮は気が付いていなかったが、男の足元には山のように写真が積み重なっていた。それが左側の子どもの写真なのか、右側の子どもの写真なのか、秋生の写真なのか。そんなことは考えたくもなかった。
「またお前が邪魔をした!」
宙に舞った写真の一角が、一斉に華蓮の方を向いた。
そして男が右足で地面を踏みつけた瞬間に、おびただしい数の写真が華蓮に向かって飛んできた。それは確かに写真であったが、まるで刃物のように鋭く光っていた。
華蓮はその場から微動にしなかったが、その刃物のような写真はただの一枚も当たることはない。華蓮の元にたどり着く直前に動きを止め、ぱらぱらと床に散らばった。
「何を…しに来た?」
その言葉に答える代わりに、華蓮はバットを掴んだ。
赤くも、そして黒くもあるその目で男を見据えると、男は一歩引き差上がった。
「私を…殺すのか?それは…犯罪だ」
この男は自分のことを何だと思っているのか。
まさか、法律が通用する人間であるとでも思っているのだろうか。
それならばそれは見当違いだ。
法律を振りかざす前に自分が法を犯し、剰え人間であることすら捨てたものが。
戯言にもならない。
そんなことを思いながら、華蓮はこの部屋に入って初めて口を開いた。
それは同時に、華蓮がこの男に投げかける最後の言葉になるだろう。
「殺す程度のことで、済ますわけがないだろ?」
男の表情が、一瞬で恐怖のそれに変わった。
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mokuji
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