Long story
保健室を出てから部室に辿り着くまでは一瞬だった。まるで、秋生が同じところを行き来していた時間が夢だったようにすんなりと、無限ループは終わりを告げた。
華蓮に連れられて部室に行ってからも、身体の中に染み込みかけた恐怖はしばらく秋生を混乱させた。あの赤い記憶は華蓮のおかげで完全に呼び起こされることはなかったが、先ほど会ったあの男と保健室という場所が秋生の中にある記憶に大きく関係しているということは明白だった。
「さっきの…人……俺…知ってました」
「思い出さなくてもいい」
華蓮はそう言って秋生を抱きしめる。
その体温は暖かく、まだ体に残った恐怖を消してくれる。
それなのに、心の中にあるわだかまりは何だろう。
あの男の言葉が頭の中で引っかかっている。
この安心は、本当に自分の感じているもの?
それとも、他の感情に支配された安心?
「秋生?」
「あ…いえ、何でも……ないです」
その返答を聞いた華蓮の表情が歪んだ。
これは秋生の嘘が下手なのか、それとも華蓮が人の嘘を見破るのが上手すぎるのか。
どちらもあるのかもしれない。
「別に言いたくないならいいけどな」
最近、華蓮は秋生に優しくなった。
それは秋生が小さくなってしまった頃からで、その時に何かあったのかもしれないと漠然と思っていた。
しかし、よくよく考えると亞希と良狐が再び手を取り合った時期とも被っている。
妖怪は実に順応が早く、数百年という溝が嘘のように秋生の見る限り華蓮の家では常に一緒にいるし、夜になると毎日他の妖怪たちも交え縁側で戯れている姿はもうお馴染みで、秋生は自分の意識を外界とシャットアウトする術を身に付けつつあるほどだ。
華蓮が最近優しくなったのは、亞希に感化されたからなのだろうか。
秋生が一緒にいるだけで安心できるのは、良狐に感化されたからなのだろうか。
そうじゃない。
そうじゃないのに。
支配という言葉が秋生を縛る。
今まで分かっていたはずのことが分からなくなっていく。
それまで感じていたことが何も分からなくなっていく。
自分の気持ちも、華蓮の気持ちも。
一体何が本当なのか。
身体の中に残るわだかまりが秋生を混乱させた。
「あの人が…、言って…たんです……」
秋生はその言葉を口にしながら俯いた。
恐怖から逃れようと華蓮を呼んだ秋生に、あの男が言った言葉が。
今も秋生の中にわだかまりを残している。
「俺と…先輩が…惹かれあっているのは、俺たちの中にいる妖怪が惹かれあっている気持ちに感化されているだけ…だって」
秋生のその言葉に、華蓮は何を思ったのか。
確認したいのに、顔を上げることが出来ない。表情を見ることができない。
「お前は…その言葉を信じてるのか?」
そうじゃない。
そうじゃないのに。
「おれ…は……」
言葉が詰まる。
そうじゃないと言いたいのに、秋生の口はそれを声に出してくれなかった。
「秋生」
いつもならば呼ばれると無意識に顔を上げてしまうのに、今日はそれができなかった。
しかし華蓮は、そんな秋生をそれでも抱きしめた。
「俺は亞希に感化されてなんかない」
そう言って、また秋生を強く抱きしめた。
「だが…俺がどう言おうと、結局はお前がどう思うかだ」
秋生がどう思うか。
そんなことは、自分に問いかけなくても分かりきっていることだ。
「―――――――……」
華蓮にそんな風に言われなくても、分かっているはずだった。
「秋生!!!」
バンッっと、多目的室の扉が勢いよく開いた。
ずっと俯いていた秋生はようやく顔を上げて、声のした方に視線を向けた。入口を遮るように仁王立ちをしている桜生は、切羽詰まった様子でこちらを見ていた。
「桜生……?」
桜生を目にしてようやく、ホームルーム前に携帯を取りに行くと言って出たきり戻っていなかったことを思い出した。
あれから一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。
「ぶ――無事なの!?」
「えっ…な、何が……?」
「体裁!!」
「てっ…!?…はぁ…!?」
勢いよく入って来た桜生が泣きそうな表情をしていると分かったのは、華蓮と秋生のすぐ前まで迫って来たからだった。
桜生のあまりにぶっ飛んだ発言に目を見開いていると、後を追うようにして呆れたような顔を浮かべた李月が入って来た。
「どうなの!?傷物になっちゃったの!?」
「きっ……なってねぇよ、ばか!!」
「本当!?よかった…!!」
桜生はほっと肩を撫でおろすと、一歩下がって空いている椅子になだれ込むように腰を下ろした。
「いきなり入ってきて直球ストレートかます奴があるか」
「え…あ、ごめん。でもほら、秋生って鈍いから」
「だからって…いや、もういい。これ以上掘り下げても何もならない」
李月はそう言ってから、桜生の隣に腰を下ろした。秋生としてはもう少し突っ込んで欲しかったし、桜生の「秋生が鈍い」発言も無視できないところであるが。
そんなことよりも何よりも、それを見計らっていたかのように華蓮が立ちあがったことの方が大問題だった。今の今まですぐそばにあった体温が、抱きしめられていた感覚が、一瞬でどこかにいってしまった。
「お前…どこか行くのか?」
「ああ」
そこでようやく、華蓮の顔を見ることができた。
李月の問いに答えているその表情は、いつもの華蓮だった。感情を表に出すことのない、いつもの―――もう随分、見ていないような気がする華蓮の表情だ。
華蓮のその表情を呼び起こしたのは、自分に他ならない。
「夏川先輩……?」
桜生も秋生と同じように、その華蓮の表情に言い知れぬ不安を感じたのかもしれない。
「すぐ…戻って来ますよね……?」
それは本来なら秋生が聞くべきことだった。いつもの秋生なら意の一番に聞いていたことだった。
しかし、随分長いこと見ていなかったあの華蓮の表情を見てしまった今。それを呼び起こしたのは自分だと分かっている秋生には、どちらにしてもそれを聞くことはできなかっただろう。だから、桜生が代わりに聞いてくれてよかったと思った。
だが、華蓮は桜生のその問いに答えることなく。
いつの間にか、その場から姿を消していた。
立ちあがってから一瞬も、華蓮が秋生を見ることはなかった。
いつものように「いなくならない」と言ってくれることもなかった。
秋生はそれが自分のせいであることを、痛いほどよく分かっている。
自分の発言を、弱さを、これほどまでに後悔したことはなかった。
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mokuji
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