Long story
満開だった金木犀の花が、今日は数輪しか咲いていなかった。
これが意味することは、今が昼まであるか、天気が雨であるか、亞希の機嫌がすこぶる悪いか。そのどれかだ。
今は夜中であるし、空を見上げれば月も出ているし星も輝いている。つまり、すこぶる機嫌が悪いということになる。
それだけならば何ら珍しいことではないのだが。華蓮が髪を乾かし終わった途端に寝てしまった秋生を連れてきても、文句を言うこともなく酒を飲み散らかすでもなく、それどころか興味すら示さずただ木に座っているだけというのは、部屋に戻ろうとした足を思わず止めるほどに珍しいことだった。
「亞希」
名前を呼ぶと、ハッとした亞希が華蓮に視線を向けた。
その表情は機嫌が悪いというよりも、痛みではなく別の何かに苦しんでいるように見えた。
「何だ、いたのか」
どうやら亞希は、華蓮と秋生の存在に気づいていなかったらしい。
気づいていないのなら文句の言いようもないが、そもそも気づいていなかったということに華蓮は驚いた。
「ろくに花も咲いていない木に座って楽しいのか、お前」
「え…あ…ああ……、本当だ」
華蓮が指摘した瞬間、金木犀の木は一瞬で満開になった。
花が数輪しか咲いていなかったことにすら気が付いていなかったのか。これは重症だ。
「晩酌の相手をしてやろうか?」
「昨日の今日で俺に酒を進めるなんて、何のつもりだよ」
「嫌ならいい」
「そうは言ってない」
亞希はいつの間にか木から移動して、縁側に腰を下ろしていた。そしてこれまたいつの間にか、手には酒瓶が握られている。華蓮はその酒瓶を見て一瞬顔を引きつらせながら、亞希と同じように縁側に腰を下ろした。
「昨日みたいには呑むなよ」
「いくら何でもそこは弁える」
亞希はそう言うと苦笑いを浮かべた。
いつもは昨日の今日だろとお構いなしに酒を煽っているのに、いくら李月があんな目にあったからといって華蓮に気を遣うなんて。病状で分かりやすく表すならば重症どころか危篤くらいまでいっていそうだ。
「どうしたんだ」
聞こうか聞くまいか迷った結果、聞くことにした。
聞いたところで話さない可能性の方が大きいが、それならばそれで無理に聞くものでもない。勝手に機嫌が直るのを待てばいいことだ。それならば聞かなくてもよかったのかもしれないが、何となく聞いておいた方がいいような気がした。
「別に」
亞希は短く答えると、酒を煽った。
やはり話す気はないらしい。まぁ、それならばそれで放っておいたらそのうち亞希から話を振ってくるだろう。
「お前は痛みに耐えるのが必死で気づいていなかっただろうけど…」
やはり、自分から話を振ってきた。
言葉の内容に主語が無かったため何の話を振られたのか一瞬戸惑ったが、秋生に呪いを解いてもらったときの話をしているとすぐに理解した。華蓮が少しの言葉で相手の言いたいことを理解できるのは、亞希のおかげ(亞希のせいと言った方がいいのか微妙なところだ)かもしれない。
「あの時…あの子の体を通じて、傷口からあの子の力が入ってきた」
「入って来た?」
「文字通りの意味だよ。あの子にその気はなかっただろうけど、呪詛を解く上で発した力が傷口から混入した」
言われてみれば、秋生が腕を握ってきたときに何かを流し込まれるような感覚になったことを華蓮は思い出した。凄く奇妙な感覚だったが、あれは傷口から秋生の力が入ってきていた感覚だったのか。
「その中に少しだけ…良狐の妖力が混ざっていた」
亞希は酒を煽る手を止めた。
酒瓶を抱き込むように抱え、そして俯くようにして酒瓶の飲み口に額を付けた。
ならば今華蓮の体の中に良狐の妖力が漂っているのかと聞きたかったが、とても聞ける雰囲気ではなかった。華蓮は横目で亞希を見ながら、言葉を待った。
「全部お前のせいだ」
急な責任転嫁にムッとした華蓮だったが、何も言わずに亞希から金木犀に視線を移した。
「俺は、良狐が生きていると分かっただけで満足だったのに」
金木犀の花が散る。亞希の心が本人にも制御できないくらいに乱れているのだろう。
最初に秋生に会ったときから、良狐が亞希の探している狐ではないかと思った。亞希はそれを否定したが、前に秋生が記憶の一辺を思い出しかけた時に良狐の話が出た際…華蓮の中の亞希が明らかに動揺した。その時華蓮は、良狐が亞希の探している狐であることをほぼ確信したわけだが。華蓮が秋生に触れられなくなった時に起きた惨事で確信は確定に変わった。
どうして亞希が自分の探している狐が良狐であることを否定していたのかは分からない。ただ狐を探すことは契約のうちではなかったし、華蓮は亞希が否定したいのならそれでいいと思っていた。
「良狐が憑依しているあの子はお前の敵にそっくりで、それなのにお前はあの子を自分の目の届くところにおいて、それどころか自分の妾にしてしまった」
妾――というのは少し違う気がするが、その辺は妖怪と人間との表現の違いということにしておくとして。亞希の言っていること全般において、華蓮が文句を言われる筋合いはない。秋生に良狐がくっ付いているのも、カレンとそっくりなのも偶然以外の何者でもない。目の届くところにいるように持ちかけたのは華蓮だが、それを決めたのは秋生だ。最後に至っては復讐心すら薄めてしまうほど秋生が手におえないくらいの馬鹿で、間抜けで、どうしようもなく可愛いのが悪い。華蓮に非はない。
言い返したいことは沢山あったが、それでも華蓮は何も言わずに亞希の言葉に耳を傾けた。
「挙句の果てには記憶の欠片まで引き出して……俺は触れたくもなかったのに、触れる羽目になった」
亞希のその言葉に、華蓮は沈黙を破ることにした。
自分への理不尽な責任転嫁は聞き流しても、今の言葉は聞き流してはいけないと思った。
「触れたくもなかったっていうのは違うな。触れるのが怖かっただけだろ」
それは今も、同じなのだろう。
華蓮がそう言うと、亞希は顔を上げて睨み付けるような視線を向けてきた。もう何度も思ったことだが、自分の幼い容姿で睨まれても怖くもなんともない。
「知った風な口を利くな」
「でも違いない」
溜息が聞こえた。
「そうだよ。俺は怖いんだ。あの時だって良狐を放っておくことはできなかったら出て行ったけど、本当は怖くて仕方がなかった」
この自信家の鬼をそこまで怖がらせているものは一体何なのか。
「良狐に触れると、また手を伸ばして…壊してしまうんじゃないかって……」
亞希は華蓮から逃げるように視線を逸らすと、再び俯いて酒口に額を当てた。
その言葉にどんな意味が込められているのか。華蓮はなんとなく想像がついたが、あまり深く考えないことにした。
「あの時は自分の意志で少し記憶に触れただけだったから…大丈夫だったけど」
亞希は深呼吸するように深く息を吸い、そして吐いた。
「不意打ちで妖力が入ってくるなんて…」
それは多分、秋生が華蓮の呪詛を解いたときのことを言っているのだろう。
どうやら、あの時入って来た良狐の妖力が、今亞希をここまでかき乱しているということらしかった。亞希は華蓮が「どうしたんだ」と聞いた質問に答える気がないのかと思っていたが、すごく遠回りをした上での返答だった。
「お前…」
華蓮はそこまで言ったところで、自分の体に何かが触れるのを感じた。
視線を向けると、狐が隣にちょこんと座りこんでいた。触れたのはその尻尾だったらしい。九本の尻尾がふらふらと揺らめいている。
良狐は一瞬だけ華蓮と目を合わしたかと思うと、くわっと欠伸をしてから素知らぬ顔で金木犀に視線を向けた。一体何をしに出てきたのだろう。
「何だよ」
華蓮が途中で言葉を止めたので、亞希は再び顔を上げて睨むような視線を送ってきた。
どうやら亞希は良狐の存在に気づいていないらしい。確かに華蓮の陰に隠れるように座っているから姿は見えないだろうし、良狐は姿を隠すのが得意と言っていたが。それでも、亞希の支配しているこの空間で気付かれないとは、思っていた以上に力のある妖怪のようだ。秋生のためなら命を捧げるだの、秋生になにかあったら華蓮を殺すだの大口をたたくだけのことはある。
「お前、結構自惚れてるな」
「は?」
華蓮が良狐に感心しながら改めて言おうとした言葉を言うと、亞希は思いきり顔を顰めた。
「お前が手を伸ばしたところで、その手が届くかどうかなんて分からないだろ。既に愛想を尽かされていたらどうするんだ?」
華蓮は言いながら良狐を見下ろした。相変わらずまるで他人事のように、澄ました顔で金木犀を見ている。
「まぁそもそもお前の記憶がないなら、愛想を尽かすもくそもないが…思い出した時にどうなるかって話だ」
「思い…出さない」
もうすでに思い出しているということは伏せておこう。
「じゃあ仮に思い出したら、ってことにしてだ。お前、自分が愛想を尽かされない自信でもあるのか?」
「……ない………」
少し絶望した表情で、亞希は呟く。
「そういえば…そんなこと、考えたこともなかった」
「どれだけ自信家なんだよお前」
「基本的に女に苦労はしなかったからな。何もしなくても寄ってきたし。捨てても縋って来たし」
「だから良狐も縋ってくると?」
もしそう思っているのなら、亞希の中の良狐像が華蓮には分からない。
あれのどこが捨てても縋ってくるタイプだろう。どちらかというと、適当に男を作っては捨てているタイプだ。全て華蓮の憶測だけれど。
「いや…むしろ……俺が手を伸ばしても蹴飛ばされかねない。それどころか…、近寄らせてもくれないだろうな、きっと」
亞希はそう言って苦笑いを浮かべた。
華蓮は自分の想像していた良狐像と、亞希の思っている良狐像が一致してよかったと思った。
「そんなに酷い捨て方をしたのか?」
「捨てたわけじゃない。そもそも、自分で捨てておいてこんなに四苦八苦するか」
「ああ…まぁ、確かに」
自分で捨てておいて探すこともおかしいし、剰え見つけて触れる触れないだと悩むなんて自分勝手も甚だしい。
「とはいえ…良狐からしたら、同じだろうけど」
金木犀に視線を向けながら亞希が深い溜息を吐くと、花がまた少し散った。
刹那、ずっと澄ました顔だった良狐の表情が、少しだけ悲しそうなものに変わった。
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mokuji
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