Long story
「―――華蓮ッ!」
自分を呼ぶ声に、華蓮は失っていた意識を取り戻した。どうやら倒れてしまったらしく、何よりもまず普段は気にならないかび臭い床の臭いが鼻についた。そんな臭いに顔を顰めながら目を開くと、目に写ったのはさきほどまでの自分と同じように意識を失っている秋生だった。
「秋生…!」
「揺らすな!記憶が戻ってしまう!」
起き上がって秋生の体を揺らすと、隣から叫び声にも取れるくらいの声が聞こえた。
声のした方に顔を向けると、そこには随分と長い間見てない姿があった。
「亞希……」
自分を呼んだ声は、亞希だったのか。
普段は華蓮の幼少期の姿を真似している亞希は、今はそれすらも忘れるほどに焦っている様子だった。
秋生に近寄って、そっと頭に手を乗せる。
「鍵をかけ直さないといけない。早く、早くしないと……記憶が戻ってしまう」
焦った様子の亞希は、わけのわからないことをぶつぶつと呟いた。
秋生の体が、うっすらと光る。
「うっ…」
違う…。光っているのは秋生ではない。
秋生の口から発せられた苦しげな声は、秋生のものではなかった。この体を憑代にしている、狐の声だ。
「さぁ…奥へ戻れ、良狐。お前はもう…大丈夫だから……」
まるで小さい子どもをあやすような口ぶりで、亞希は秋生――その中にいる狐、良狐の頭を撫でる。
一瞬にして、発せられた光が跡形もなく消えた。
「ん……」
身じろぎをしながら発せられた声は、今度は秋生のものだった。
それを確認した華蓮は秋生に近寄り、そっと体に触れる。そうすると、秋生の目がゆっくりと開かれた。
「…先輩?―――先輩!」
覚醒した途端、秋生は目を見開いて起き上がった。そして華蓮の存在を確認すると、まるで噛みついてくるのではないかという勢いで飛びかかってきた。
「秋生、大丈夫…なのか?」
「先輩こそ大丈夫なんですか!?」
噛みつきそうな勢いは止まらない。そのくせ顔は泣きそうで、色々と統一しろと言いたくなる矛盾っぷりだ。
「ああ…大丈夫だ」
「よかった…!」
秋生は安堵の溜息を洩らした。
そうしたいのは華蓮も同じだったが、タイミングを逃した。
「ちっともよくない」
横からどこか怒ったような声が聞こえてきて、視線を向ける。
腕組みをした亞希が、苛立った様子で華蓮と秋生を見下ろしていた。
「え、誰」
顔を顰めた秋生が無意識に華蓮にしがみついた。
華蓮はその時、体を駆け抜ける痛みがしないことに気が付いた。
「は?…あ、ああ…しまった。…これで分かる?」
亞希はそう言って、いつも通りの…華蓮の幼少期の姿を真似る。
これが当たり前の姿になっていることに華蓮は不満を述べたいところだが、今はそのときではない。
「あ…亞希さん?」
「そう。君の愛する亞希さんだよ」
「それ以上近寄るな」
全くさっきまでの緊張感はどこへ行ったのだろう。
華蓮がバットを突き付けると、秋生に顔を寄せていた亞希は不満げな表情を浮かべて一歩下がった。
「全くお前たち、とんでもないことをしてくれたな」
自分の幼少期の姿で凄まれても全く怖くない。
しかし秋生にはいくらか効果があったようで、少しだけ密着度が上がった。
「あの腐れ神、記憶を消すなら綺麗さっぱり消し去ればよかったものを。変に情を利かせて封印なんてするからこんなことになる。俺がいなかったらどうなっていたと思う?あんな神社は潰れて当然だ、忌々しい」
人に話を振ったかと思うと、亞希は苛立った様子で捲し立て始めた。
このまま放っておくと最低1時間は“腐れ神”とやらの文句を垂れ流し続けるだろう。
「先輩……」
「ったく面倒な…」
苦笑いで見上げてくる秋生に同じく苦笑いを返した華蓮はため息を吐いた。
そして今度は、亞希の喉元にバットを突き付けた。
「何だよ」
「どういう意味だ?」
華蓮が問うと、亞希の目つきが険しくなった。
「お前たちが変な低級霊から悪影響を受けたせいで、封印された記憶の鍵を壊しかけたってことだ」
「封印された記憶?」
「その子の中にいる狐の記憶だ」
そう言って亞希は秋生を指さした。
「え……良狐の…?」
「そうだよ。君の中にいる狐は、封印された記憶を持っている」
秋生と華蓮とで口調が変わるのが若干に癪に障った華蓮だが、ここは大人しく話を聞くことに専念する。華蓮が口を挟まない方が、亞希も素直に話を続けるだろう。
「前に君が、記憶を2つ見たことがあっただろ」
「…はい」
秋生は小さく返事をして頷いた。
その様子から、その記憶が重し出したくないような悪いそれだということは誰でも見て取れる。
「あの記憶の片方は、君の中にいる狐の封印された記憶。君の中の狐が知らないと言ったのは、封印されていて本人すら覚えていないからだ」
「封印された…記憶……」
秋生は自分の胸に手を当てて呟いた。しかしすぐに、顔を上げる。
「でも…どうして…封印なんて……」
秋生が亞希を見上げながら問いかける。
少しの沈黙が漂った。
「それは、その記憶が……助からなかった記憶だからだ」
刹那、亞希の表情が見たこともないくらいに悲しいものになった。華蓮は亞希に“悲しみ”などという感情があったことに少なからず驚いた。
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mokuji
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