みょうじは優しい。そして見栄っ張りなのか融通が利かないのか気紛れに起こした一度の行動に引っ込みがつかなくなった、と自分に課した謎の使命感に律儀に縛られている。本人もそれをわかっているのか嫌味に混じって自嘲を漏らし、目を逸らす。その真面目さに、優しさにつけ込んでいる自分を責める様子は一度としてない。天気予報くらい見ろ、朝から降ってただろ、これで何度目だよ、と。怒られることは毎回だったが拒絶はされなかった。彼女は何を思って自分に傘を差し出すのか。わからない。し、聞く勇気もない。問うて色好い返事がこないのなら愚問でしかないことくらいわかっている。
肩が触れても怯えなくなったことは嬉しかった。あからさまに逸らされることは無くなった視線は好意はないものの敵意も薄れつつある。気がする。
「お世話になってばかりで申し訳ない」
「そんなこと言うんならお世話にならないようにしてください」
呆れた声に苦笑すると拗ねた視線に睨まれ肩を竦める。しかし彼女はそれ以上何も言わない。何を言えばいいか迷っているように見え様子を窺っているとこれ以上怒っても仕方ないでしょ、と会話を切った。
「…みょうじが変な坪とか魚の養殖に手を出さないか心配じゃ」
「よ、余計なお世話だよ」
唇を尖らせて再び拗ねる彼女に思わず笑ってしまい、また怒らせてしまったかと視線を寄越せば予想外な表情に出会し、思考が止まる。
困ったような、驚いたような、何とも形容し難いその表情は彼女と出会ってから幾度となく見てきた。それは彼女の中に自分を招き入れてくれないと言う確信だった。だから、何も聞けない。言えない。
どんなに警戒心が薄れたとしても彼女はどこかで自分に一線を引いて拒んでいる、と気付いてしまえば何も出来ない。
無理なものは無理なんだ、と。
「…仁王君って意外と普通に笑うよね」
停止していた思考を呼び戻した愛しい声が感情をどこかに置いてきたようにぽつり、と溢すように呟いた。
「みょうじの中の俺は随分じゃな」
「ごめん」
「悲しいのう」
「悪かったって」
「……」
言葉は続かず、踏み込めず、伝える手段も勇気もなくて、意地も張れなくて、ただ黙ってしまった俺にみょうじはどう思っただろうか。
目の前に見えた駅の表札に感謝して、閉じた傘を畳んで差し出した。
「ありがとな」
「うん」
じゃあ気を付けて、と背を向けるとまた明日、と初めて投げ掛けられた言葉に反射的に振り向いてしまった。
言葉の主は微かに、笑っていた。
この僅かな隙にまたなけなしの希望を見出だした気になり、俺はまた傘を忘れてしまう。